恋愛とは実験である。
スポイトの先から溶液が垂らされると、青色のリトマス試験紙があっという間に赤く変色した。スポイト内の液体が酸性だったからだ。酸性の液体なら必ず赤くなる。青のまま色が変わらなかったり、緑や黄色になることもない。
人間の心もこれと同じ。人から嫌われることをすれば嫌われるし、好かれることをすれば好かれる。要は人の心も化学変化するのだ。
理科室は嫌いだという人が多いけど、僕は好きだった。
教科書とノート、資料集に筆箱を持って隣の校舎の2階まで移動するのも好きだったし、教室がだだっ広くて寒々しいのも好きだった。
マッチでアルコールランプに火をつけたり、フラスコに試薬を入れたり、理科の実習授業は小学生の僕の心を一発で奪った。実験結果が思う通りにならないのは、手順や環境が理想的でなかったから。正しい方法で行えば、誰がやっても必ず同じ結論に達する。
これこそが科学の本質である。
科学というツールを発見して以来、人類の生活は一変し世界は急速に発展してきた。それなのに、恋愛は旧態依然。進化を拒否したかのように、今も昔も同じように惚れた腫れたのカオスの中にある。
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地元の小中学校から男子校に進学し、東京にある中堅私大の生命工学科に進んだ僕は、いわゆる“理系男子”としての青春を過ごしてきた。高校が男子校だったこともあり恋愛にはオクテだったけど、親に感謝するべきか、世間の女子に言わせるとルックスは中の上らしいので、女の子の側から告白されて何度か恋愛を経験したことはあった。
いや、正確に言うなら恋愛を経験したわけではない。
自分から好きになったわけではないので、僕には2人がどうなろうと大きな関心がなかったからだ。恋愛とは実験なわけだから、僕にコクってきた女子が実験を行う施験者で、僕は実験を受ける被験者だった。
僕が初めて実験を仕掛ける側になったのは、大学に入学してからだった。
被験者は同じ学部にいたセミロングで濃い茶髪の子だった。顔立ちはいわゆる和風美人だったが、薄い顔の造形にギャル風のメイクがよく映えていた。東北から進学のために上京してきた子で、一気に都会の今風な女子に変身しようとしているのが見て取れた。
理系の学部に女子は少なかったので、前期が終わり夏休みに入る頃には、美系の彼女は
クラスのマドンナ的な存在になっていた。何度か言葉を交わしたことはあったけど、彼女にしてみれば僕は、その他大勢と同様に“同じクラスにいる人”という認識だったはずだ。
《星が見える場所》実験
あと3日でテスト期間が終わり夏休みに入るというタイミングで、僕は彼女を誘った。
「ねえ、【被験者(1)】さん。あ……いきなり声をかけられて驚いたかもしれないけど、よかったら夏休みに星を見に行かない? 東京にも星が信じられないくらいに綺麗に見える場所があるんだけど…」
「えっと、青木くんだよね……。えっ、うれしい。私、クラスに男子の知り合いが1人もいなくって(笑)。星か……いいね。けっこう好きなんだ。星見るの…」
僕はなぜ星を見ようと誘ったのか? もちろん、理由があってのことだ。科学の実験では仮説や前提条件をきちんと立てなければならない。被験者(1)と相思相愛になるために僕が立てた仮説は、こんなものだ。
・被験者(1)は地方から東京に出てきたばかり。都会に馴染もうとしているが、まだうまくいっていない。
・被験者(1)は東京に馴染もうとするが、その反動で郷里を恋しく思っている。
・被験者(1)は一般教養の天文学を履修しているが、教室では前方の席に座ることが多く、この分野に興味があると予想できる(だから「星を見よう」と誘った)。
被験者(1)とのデートは、夏休みに入ってちょうど1週間目の金曜日だった。渋谷の駅前で待ち合わせをした。午後3時が集合時間だったが僕は15分前に現地に行って、待ち合わせ場所から少し離れた場所に立ちスマホを眺めていた。集合時間の5分前になると、被験者(1)がやって来た。くるぶしが見えるタイトなジーンズに白のシンプルなブラウス、手持ちにもできる小さめのトートバッグを肩からさげていた。
まだまだ――。僕は3分ほど被験者(1)を泳がすことにして、見つからないようにその行動を観察した。彼女は軽く周囲を見回すと、トートバッグからペットボトルを取り出して一口飲み、スマホに目を落としていた。ちょうど3分が経った時、僕のスマホにLINEのメッセージが入った。
『人多いよね 今着きました!』
既読がつかないようにメッセージを読み20秒待ってから『こちらも今着きました』と返信すると、被験者(1)のほうに歩いて行った。2人の距離が40mに接近した時点で、被験者(1)は僕に気が付き、軽く手を振って来た。手を振り返しながら、僕は実験が成功に向かっているという手応えを感じていた。その理由は3つ。
・被験者(1)は約束時間の5分前に到着する気遣いを持っている(僕は時間に正確な女性しか好きになれない)。
・今日は大学のキャンパスで会うときよりもギャル風でない(東京に馴染もうとギャル風ファッションにしているが、ギャルの聖地である渋谷でその格好を披露するほど自分に自信はない=まだ地方出身者としてのコンプレックスを抱えているため、僕の立てた仮説が正しいことが証明されたといえる)。
・カクテルパーティー効果が顕著(周囲が騒々しい場所でも、人間は興味のある会話は聞き分けられるという心理学の法則。群衆の中から遠方を歩く僕を見分けたので、被験者(1)が僕に興味を持っていることは明らか)。
『クロ恋。』は全3回で配信予定