新宿駅の西口に着いたのは、十二時を少し回った頃だった。すでに指揮車が西口広場地下の吹き抜けとなっているロータリーの一角で、業務用車両に混じって何気なく停められていた。中にある無線機で現場の捕捉班や対策本部と交信する。つまり捜査の拠点となる場所だ。今回のオペレーションでは、警視庁の後藤や神奈川県警の本田らがそこに入ることになる。変装用の衣装や小道具も車内にそろっているし、ビデオ撮影係が撮った映像をリアルタイムでモニターに映すこともできる。夕起也が一時期とはいえイッパツヤに勤務した経験を持っているので、カリヨン橋から望遠で撮った映像を車中でチェックしてもらい、見知った顔が見つかれば教えてもらう算段になっている。
 警視庁の特殊班を含む捕捉班の捜査員は、すでに現場周辺のそこかしこに散らばっている。離れたところで桜川麻美の到着を待っている者もいれば、早くもホームレスの変装をして現場に馴染んでいる者もいる。車道にも敏腕ライダーたちがバイクとともに控えていて、水をも洩らさぬ網が仕掛けられている。
 警視庁の後藤が引き締まった顔で臨場したところで、現場スタッフから警部補クラスの責任者を集め、最終的な打ち合わせを済ませた。
 それぞれがまた散っていく。
 巻島はワイシャツを白から青に着替えた。携帯無線機を腰に付け、それを隠すようにして上着を手に引っかけて、空いた手で黒革のかばんを持つ。高層ビル街あたりのサラリーマンを気取ってみる。休日ではあるが、日本有数のビジネス街に面しているだけにネクタイ姿は少なくない。
 後藤や本田らに声をかけて、外に出た。
 十二時三十五分。
 小田急百貨店の前は、太陽の照り返しで路上のタイルが白く映えていた。天気予報では最高気温三十三度の予想と言っていたが、体感温度は軽く三十五度を超えている。
 日陰を選び、ぶらぶらと歩く。暑さに負けたような脱力感を身体の線で表現しながら、一方で集中力だけは徐々に高めていく。
 時折デパートの中や駅構内に足を踏み入れ、不審な若い男の気配を視界の片隅で探る。目深に帽子をかぶり、ちらちらと外を気にしている男がいる。巻島は近くにいる警部補にアイコンタクトを送り、物陰に呼び寄せる。
「あれは川崎署の刑事です」との返事。
「ああいうタイプは地べたにでも座らせとけ」
 そう返して、その場を離れる。ほかにも何人かの不審人物を見つけたが、いずれも経験の浅い刑事への演技指導に終わった。
 十二時五十二分。
〈母親、到着です〉
 無線連絡が入り、巻島は受け渡し現場にゆっくりと近づいた。
 桜川麻美が小田急の駅ビルから街頭に出てきた。犯人の指示通り、右手に紙袋を提げている。小柄なのでほとんど袋の下を引きずりそうな感じだ。白日のもとでは、その肌の青白さがさらに際立つ。
 彼女は署名活動の一団やティッシュ配りの若者から少し距離を置いたところに立った。しばらく突っ立っていたが、犯人の指示を思い出したように、ゆっくりと歩き始めた。十メートル半径ぐらいのスペースを行ったり来たりしながら、犯人の接触を待っている。
 彼女を前にして、二組のカップルがガードレールに腰を乗せるようにして会話を楽しんでいる。もちろん男も女も刑事だ。特殊班の連中なので、演技も堂に入っている。絶え間なく人が行き交い、あるいは待ち人を探して何人もが佇んでいるこの通りでは、景色に同化していると言ってもいいほど違和感がない。彼らがいる限り、犯人の接触を捕捉班が見逃すことはあり得ない。
 そんなことをあえて意識したのは、遠目からは意外と桜川麻美の姿が消えてしまうからだった。遠目といっても巻島と彼女の距離は二、三十メートル程度なのだが、人の流れが間に入って、彼女の小柄な身体はたびたびそこに隠れてしまう。彼女自身動いている上、巻島も視界の隅で捉えるような見方をしているので、一瞬見失いかけることもある。
 神経を遣う時間が過ぎていく。巻島は待ち合わせをする人垣に紛れて、それをやり過ごす。二十分、三十分という時間がじりじりと流れていった。
 犯人は、折を見て接触するので辛抱強く待てと言っている。それがどのくらいの時間かは分からないが、巻島は何となく三十分から一時間あたりのところを想定していたので、一番気持ちを集中すべき時間帯に突入したつもりになっていた。
 しかし、何もないまま一時間が過ぎた。
 桜川麻美は見るからに足が重そうだ。一昨日からほとんど睡眠を取っていないだろう。疲労がにじみ出ていて痛々しい。せめて帽子の一つでもかぶらせてやりたいところだが、今は我慢してもらうしかない。
 一時間半も過ぎていった。
〈異常なし〉のオンパレードとなった無線のやり取りも途切れがちとなった。
 犯人に気配を感づかれてしまったのだろうか。まさかとは思いつつも、不安が頭をもたげてくる。二百人からの刑事がこの新宿西口一帯にいる。誰かしらどこかで尻尾を見せてしまった可能性はゼロとは言えない。
 時間的に次の手を考える段階に来ている。麻美も炎天にさらされ、今にもぶっ倒れそうだ。ここでの接触はあきらめ、犯人からの新たな連絡を待つのが妥当ではないか。
 三時に近づいたところで、巻島は無線マイクに小さな声を吹き込み、後藤に接触断念の判断を進言してみた。しかし冷房の利いた車中と街頭では時間感覚がずれているのか、後藤は取り合わなかった。対策本部からの指示も、〈現状の態勢を維持し、犯人の接触に備えよ〉とのことらしかった。
 確かにここでの接触を断念してしまえば、今後の展開がどう転ぶか分からなくなってしまうという危惧はある。もう、イージーな事案と高を括ることもできない。曾根が指揮官だけに、なおさら簡単には引かないだろう。
 しかし最低限、桜川麻美に休憩を取らせるべきではないか。むやみに歩き回らせるのも意味があるとは思えない。それに、センターに張り込んでいる捕捉一班も外周に控えている班と替えたほうがいい。こまめに立ち位置を移したりはしているが、犯人がどこかからじっとこの場所を観察しているとするなら、この場に漂う淀んだ空気を察知するかもしれない。
 巻島は茹だった頭で鈍重に思考を回す。
 ふと、桜川麻美が消えた……ように見えた。
 はっとして目を凝らす。
 通行人が途切れると、麻美はうずくまっていた。その背中が巻島には見えた。
 紙袋は……。
 麻美が抱えていた。
 気分が悪くなったのか?
 しかし、麻美はすぐに身体を起こした。
 胸元で何かをしているように手を動かしている。
 巻島には何をしているのか分からない。
 彼女の動きが止まる。
 そして周りを見渡している。
〈捕捉一班、小塚より拠点へ〉彼女の近くで様子を盗み見ている女性刑事の声が無線に乗る。〈えー、今、麻美さんが一枚の紙を拾った模様です。広げて読んでいます。中身はここからでは分かりません。えー、あ、トイレに行きますので、追ってみます〉
 麻美が赤いハンカチを出すと、トイレに行くという合図になっている。現場の女性刑事が落ち合って、打ち合わせをする。
 麻美に続き、女性刑事の小塚も距離を置いて駅ビルに入っていった。
〈紙を拾ったっていうのはどういうことだ? 接触があったのか? 現金はどうなってる?〉
 後藤の苛立った声がイヤフォンを通じて聞こえてくる。
〈紙袋は本人が持ったままです〉近くにいた一人が答える。〈カチャンというような小さな音が鳴りましてですね、それで麻美さんが紙袋の底の裏から何かを取っていました。それが一枚の紙だったようです〉
 話を聞いても、どういうことなのかよく分からない。現場にいる巻島がそうなのだから、後藤も同様だろう。
〈近くに誰か不審者はいないのか? 各員注視しろ〉
 そう言われても、そこには人の流れがあるだけだ。二時間、ずっと同じである。
 しばらくして、小塚刑事の声が届いた。
〈麻美さんが手にした紙には犯人からの指示が書かれていました。内容は今から読み上げる通りです。『桜川麻美へ。三時半までに原宿の竹下通り、マクドナルド前に行き、同様にして接触を待て』〉

 

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