棟は違うが、捜査一課長の藤原ふじわらも巻島と同じ敷地内の官舎に暮らしている。
 巻島は県警本部に手配して、運転手つきの車を官舎に回してもらった。朝駆けの新聞記者を追い払った藤原と乗り込んだときには、夏の朝はすでに熱を持ち始めていた。
曾根そね部長も早速向かってる。急いでくれ」
 運転席後ろのシートに座った藤原が促した。
 どうやら刑事部長自ら陣頭指揮をとることになりそうだ。刑事部長の曾根要介ようすけは巻島と同じ四十六歳。東大法学部卒という王道のキャリア組ながら、三十代の頃は兵庫県警で捜査四課長を務め、広域暴力団の抗争の沈静化に成功するなど、荒い現場にも精通している経歴を持っている。
 見かけも、毛並みのよさなど微塵も感じさせない。めつけるような眼つきの悪さには、叩き上げの捜査一課長も手のひらに汗をかくことしばしばだそうだ。口調も荒っぽく、新聞社ぶんやのデスクのようにぎらついた話し方をする。殺人事件などの被疑者が挙がったときには、藤原の記者会見にも同席するパフォーマンス型でもある。彼が赴任して間もなく二年、幸か不幸か県警刑事部門を挙げて取り組むような大事件は起こっていないから、自分の首に下げる勲章を探している最中だったはずだ。
 相模原は東京・町田の西に位置し、東京や横浜のベッドタウンとして発展している町である。
 その南部を管轄する相模原南署に朝の渋滞を縫って巻島たちが到着してみると、署内の一室にはスチール机を合わせた正方形の指令台が出来上がっていた。一辺に二脚ずつ、八つの椅子が置かれている。部屋の片隅にも折り畳みテーブルが並べられ、先に到着していた特殊班の面々や刑事総務課員らが対策本部の設営に動いていた。
 にわか作りの指令台にも上座や下座がある。奥の一席に一人着いていた男は、ワイシャツの腕をまくってネクタイを緩め、無線マイクに唾を飛ばしていた。刑事部長の曾根要介だ。
「……もし犯人から新たなコンタクトがあったら、受け渡し場所を変えるように交渉してもらえ。新宿は不案内だとか何とか理由をつければいい。人混みがいいんなら横浜にすればいいんだ。分かったな。進展があったら連絡してくれ。以上」
 どうやら被害者宅に入った本田から直に報告を受けたらしい。曾根は指令台に着く巻島らを睨め回し、煙草に火をつけた。
「これはモノにできるぞ」
 煙と一緒にそんな言葉を吐いた。
「イッパツヤの社長、桜川志津雄しづおによるとだな、電話の相手はマスクをしているようなくぐもった声を作ってるらしいが、口調や言葉遣いから考えても、彼の交際範囲の中で思い当たる存在はないということだ。落ち着いた話し方をして、連絡の都度、誘拐した健児けんじ少年を電話に出してきてる。少年は犯人のことを『お兄ちゃん』と言ってるそうだから、若い男なんだろう。断定はできんが、単独犯の可能性は強い。『これはビジネスだ』とか、『警察さえ介入しなければ、平和的に解決する』とか、そんなことを繰り返してる。二千万という現実的身代金と考え合わせても、必ず犯人は受け渡し場所に姿を見せるはずだ」
 交渉過程の実声を警察側がキャッチしていない以上、狂言の可能性も考えられるが、現場に入った本田の心証では、その可能性は薄いとのことだ。受け渡しの時間が迫っているだけに、まずは考えから外すほかない。
「問題は東京の出方だが……」
 曾根が警視庁をそのまま「警視庁」とも、あるいは「桜田門」とも呼ばないのは意識的らしい。警視庁での勤務経験がないから、多少のひがみが入っているのかもしれない。必ず醒めたように「東京」と言う。
「桜川の店を町田署がマークしてたようだ。危なくもない問屋が潰れそうだとひそかに触れ回って、業者に手を引かせるような情報操作を打ってると。自転車操業のところはそれだけで致命傷になる。潰れたらそこの在庫を桜川の店がかっさらっていくわけだ。匿名の告発が重なって町田署が腰を上げたとたん、今度のこれだから、警視庁は食いついてくる」
 曾根は一呼吸置き、身を乗り出して一同を見渡した。
「だが、こっちはその情報さえもらえば、東京に用はない。今日はもちろん、うちの主導でいく。いいな?」
 刑事部長自らの並々ならぬ意気込みを見せつけられ、対策本部はにわかに緊張が高まった。「分かりました」と神妙に応えた藤原一課長は、念を押すような視線を巻島に向けた。
 その後、県警本部の家森いえもり刑事総務課長が駆けつけ、身代金の受け渡し現場に投入できる捜査員の編成が曾根や藤原らとの間で検討された。現場に潜入させる者に加えて、犯人の逃走や受け渡し場所の変更など突発的事態に備える周辺待機組も含めると、特殊班の捜査員で足りるものではない。捜査一課や機動捜査隊、近隣各署の刑事課から臨時にかき集めてくるのだ。
 幹部がその作業を進めている間、巻島は桜川宅の本田と無線連絡を取った。
 本田は家族がいる部屋とは離れたところに無線機を置いたらしく、率直に話してきた。
〈今日になってからは、犯人側の連絡はありません。やっぱり、受け渡し方法までの話が終わってますからね。計画変更でもない限り、もうないでしょう。やりにくいですよ。じいさん……桜川社長ですね……彼が、『警察になんか用はない。健児さえ無事に帰ってきたら二千万ぐらいくれてやるんだ』なんて言ってましてね。まあ、根っからの警察嫌いか何か知りませんが、ちょっと持て余してますよ〉
 それについては巻島も相槌を打っただけだった。愚痴をこぼしながらも何だかんだやってみせるのが本田という刑事でもあった。
〈まあ、何とかしますけど、ちょっと難しいと思うのが、運び役を婦警にする件ですね〉
 誘拐犯と接触する身代金の受け渡し人を、被害者家族に扮した刑事たちが引き受けるのは、誘拐捜査の常套手段でもある。
〈犯人が桜川家について調べ上げてるのは疑いのないところだと思います。運び役についても『母親』じゃなく、『麻美あさみ』と名前で指定してますし、顔も知ってるように匂わせてます。子供と一緒にいることが多い母親だけに、下調べの中で何度も顔を見てる可能性は十分あるんですよ。それに彼女、背丈が百五十センチないくらいの人で、小塚こづかにしろ高島たかしまにしろ、うちの女史たちではちょっと背格好が違い過ぎるんですよね〉
「母親本人はどう言ってる?」
〈一応腹は括ったみたいですね。顔色は悪いですけど、勇気づければ何とかなると思います。ただ、身代金の運び方が変わってましてね……〉
 本田の説明によると、犯人はまず、桜川家から歩いて十分ほどのところにある相模大野駅前の老舗和菓子屋・天狗堂で三千円の煎餅の詰め合わせを買い、一番大きな紙袋に入れてもらってくるように指示したのだという。桜川家がよく利用する店だ。
 その後の電話で、犯人の指示は続いた。買ってきた煎餅の詰め合わせを缶ケースから出し、その缶ケースに二千万円の札束を入れろ。買ってきたときと同じように天狗堂の大きな紙袋にそれを戻し、その紙袋を手に提げて持ち運べ。決して胸に抱えてはいけない。手に提げて運ぶこと。受け渡し場所では立ち止まらず、近辺をゆっくりと歩きながら接触を待て。こちらは折を見て接触するから、それまで辛抱強く待て。警察が邪魔をしない限り、この取り引きは成功するはずだ。受け取り後、中身を確認次第、三時間以内に子供を解放する。その後の警察への通報についてはそちらの自由だ……そんな内容だったという。
 場所は新宿駅西口、小田急百貨店前地上。平日、休日問わず、人があふれ返っている場所だ。
〈だからですね、天狗堂の紙袋を目印にさせるところなんか、母親の容姿を記憶し切ってない節があるようにも思えて、そのへん掴みかねてるんですよ〉
 確かに奇妙ではある。しかし、本当に目印としてそんな指示を出したのだろうか。目印なら帽子でもスカーフでも服の色でも何でもいいのではないか。天狗堂などという限定は腑に落ちない。犯人自身、少なくとも一度はその店を使ったことがない限り、そんな指示は出さないはずだ。取り引き後の警察への通報は自由だと言う以上、それが捜査への取っかかりになることくらいは承知の上だろうに。
 とりあえず、その疑問は脇に置いた。運び役の件については、曾根が「本人でいい」と即答した。ただ、直前になって本人が怖じ気づくかもしれず、できるだけ容姿の近い婦警を待機させることになった。