当小説は3つの物語から成り立っています。

  (1) 謎の原稿を受け取る作家〈シイナ〉の物語。
  (2) 完全犯罪を企む男〈ジュン〉の物語。
  (3) 湖畔のホテルから予感を告げ続ける少女〈ララ〉の物語。

 3つの物語の関係性がわかったとき、新たな物語が立ち上がります。
 あなたは謎をどう読みときますか。


 ※ この試し読み版は、本編の各物語から一部を抜粋・編集したダイジェスト版です。本編とは文章の提示順序、内容が異なります。予めご承知おきください。

 

(3)ララの物語 (少年ノアの働くホテルにやってきた、予感を告げる少女)

 

 ノアから見てそのララという少女はずいぶん風変わりな感じがした。顔立ちは美しく、話しかたも丁寧だったが、どこかとっつきにくさがあった。接する者に期待と不安を同時に抱かせる、そんな雰囲気。優れたデザイン性と機能面でのスペックの高さ、そしてあまりにもたくさんのボタンを備える電化製品みたいだ。一度でも操作手順をまちがえてしまえば正しく動作しなくなるかもしれない。

 オーナーにいわれ、彼は彼女にホテルのあちこちを見せることになった。
「そういえば、きみは何歳なの?」
 東西に伸びた廊下を歩いているとき、彼はたずねた。
「だいたいあなたと同い歳くらいだと思います」と彼女は答えた。
「じゃあ十七くらい?」
「まあ」
「学生?」
「ええ」
「学校は?」
「このごろはいっていません。いろいろ思うところがあって」
「不登校?」
「まあそんなとこ。あなたのほうこそ学校はどうしているのです?」
「ぼくはそもそも学校に通ってない。もう退学した」
「先生を殴ったりして?」
「まさか。殴ってなんかない。ぼくが高校をやめたのは家庭の事情さ」
「貧乏だった?」
「ああ。それに勘当された。ぼくや弟妹を殴ったり蹴ったりしたろくでもない父親と揉めて」
「わたしと同じですね」
「というと?」
「わたしもろくでなしの父親とけんかして家出したんです。でもホテル代を支払い続けられるほどのお金はなかったので、いっそホテルに住み込みではたらこうと」
「きみの父親も、はたらきもせずに暴力をふるう悪漢だった?」
「ええ。仕事を辞めたあとは特に」
「じゃあ、ぼくらはある意味では似た者同士だな」
「みたいですね」
「にしても意外だ」
「なにがでしょう」
「同い年くらいってことがさ。なんていうか、すこし大人びて見えるから」
「……そうですか?」
 ノアは発言を後悔した。彼女はすこし怒っているみたいだった。
「よく童顔だっていわれますけどね」

 ひととおり館内を案内したあと、ノアはララを連れて外に出た。
 その時期の夕刻の気温は低く、この日も例外ではなかった。生地が薄くなったフーディを貫くつめたい風がちくちくと彼の肌を刺した。
 ララはといえば、とてもあたたかそうな服を着ていた。ベージュピンクのワンピースの上にモスグリーンのブルゾン。首にはアイボリーとチャコールグレーのチェックのマフラー。ブルゾンのポケットからはスマートフォンのストラップが飛び出していて、その先端では犬のかたちのタグがだらりと垂れさがっている。犬は、ストラップが首を絞めすぎるせいで気分がわるくなったのだろうかと思わせるくらいには、不健康な黄緑色をしている。
 湖のまわりを歩きながらふたりはくだらない話をした。
 一連の案内のあいだに気詰まりな空気はすっかり消えていた。
 気が合うというわけではなかったが、すくなくともしゃべりにくくはなかった。
「きれいな湖ですね」と彼女はいった。「わたし、もともと湖は好きなんです。世界の美しい湖についてまとめられた写真集さえ持っていた」
「ここで長らく暮らすぼくにいわせれば、毎日見ていたらいつかは飽きる」
「そういうものでしょうか」
「そういうもんだよ」

 畔の広場に着いたあと、ふたりは米の研ぎ汁を思わせる薄灰色のケータリングトラックで蜂蜜味のチュロスを買い、芝生に腰を下ろしてそれを食べた。チュロスはあたたかかったがやわらかくはなかった。砂糖が多すぎて舌触りがざらざらしすぎた。砂場から掘りだしたシャベルの把手をかじってでもいるみたいだった。
「ここで湖を見ていると思い出す話がある。異国の逸話さ」
 口のまわりについた砂糖を払い落としながら彼はいった。
「あるところにとっても高貴な王妃がいた。法により、王室の人間以外は何者も彼女に触れることは許されず、もし触れてしまえば死刑を免れなかった。ある日、その王妃が湖で溺れた。触れることが許された者はその場にいなかったため、泳げない王妃は溺れ死ぬしかなかった」
 ノアの言葉に耳を傾けるララは渋い顔をしていた。
 その話がなんの役に立つの、とでもいいたげな表情だ。
「この話にも学ぶべき教訓はある。腹よりも背を刺されることを恐れるべきということさ。ときに致命傷をもたらすのは有能な敵ではなく愚かな味方だ。この場合、王妃を殺したのは湖でも周りにいたひとたちでもなく、王室が定めたくだらない法だった」
「そういう話なら、わたしも似たようなのを知っています。乙女の塔の伝説です。ご存知ですか」
「さあ。たぶん知らないと思う」
「ある皇帝の娘は『十八歳の誕生日に蛇に噛まれて死ぬ』と占い師に予言されます。そこで皇帝は、蛇が侵入できぬよう、海の上の塔に娘を住まわせることにするのです。唯一、塔に入ることができるのは皇帝で、ほかはなんぴとたりとも立ち入ることはできません」
 湖面は西の空に滲む赤い線を映していた。
 暗い藍に挟まれ、いまにも消えてしまいそうな儚い光の線だった。
「とうとう訪れた十八歳の誕生日。皇帝は祝いに籠いっぱいの果物を娘の塔へ運びます。しかし毒蛇はその籠のなかこそに潜んでいた。父親の運んだ蛇に噛まれた娘は予言のとおり亡くなってしまった」
「なるほど。みんな愚かな身内のせいで死ぬ」
「でもわたし、こんなふうにも思うんです。娘へプレゼントを運ぶよう父親に促し、そしてその籠に毒蛇を仕込んだのは、ほかならぬ占い師かもしれないって」
「まさか。なんでそんなことするのさ」
「決まっているじゃないですか。予言をあてるためですよ」と彼女はいった。「占い師にとってはそれこそが大事でしょうし」

 不審な電話をかけるララの声をはじめてノアがきいたのは、彼女がホテルで暮らすようになってから一か月が過ぎようとしていた時期のこと。
 その日は強い雨が降っていて、屋上で過ごすことができなかった。建物のでこぼこした外皮に溜まった埃や煤をまるまるさらいそうなほどの獰猛な雨だった。山と森は濡れて暗くなり、湖上は白く烟っていた。対岸のまちは気配を消し、湖畔の細い樹々はいつもよりすこし傾いた。悪天のせいで機嫌を損ねてでもいるみたいだった。
 退屈しのぎに読書でもしようと考えたノアは、ララの部屋にたくさんの本が持ちこまれていたのを思い出し、一冊貸してもらおうと彼女の部屋へむかった。
 そうして、いざ部屋の前に着き、ドアをノックしようとしたまさにそのとき。
 部屋の内側からララの声がきこえた。
 だれかに話しかけているふうだったが、声はひとつだけだった。

 もしもし。あなたオハラさん?
 ねえ。いやな予感がするの。
 うまくはいえないけど、この数日間、気をつけたほうがいいと思う。


 ノアはそのまま立ち尽くす。

 それは説明できません。いやな予感がする、ただそれだけ。
 ……。
 それもいえません。
 ……。
 たしかなのは、あなたの身になにがしか危険が迫りつつあるということ。
 あなたはだれかに狙われているのかもしれない。
 こころあたりはありません?


 雨がばらばら窓を打った。風が樹々をざわざわ揺らした。
 外に立つ音のせいで、部屋からの声はしばしばかき消されてしまう。
 彼はドアに耳をあて、彼女の言葉をききとろうとする。

 できるだけはやくそこを離れたほうがいい。
 なぜって。家にいるところを襲われたらどうするというのです?
 あなたのようにお歳を召されたかたなどは特にそう。
 抵抗する術を持たないでしょうに。


 声がくぐもっているせいで話はきこえたりきこえなくなったりした。
 いずれにせよ、電話は長くは続かなかった。
 まもなく彼女の声は途絶え、直後には受話器を置く音がした。
 ノアが立ち去ろうとしたまさにそのとき。ドアがひらいてララが姿を表した。
 彼は驚いたし、彼女も驚いていた。
「びっくりさせないでくださいよ……もう」と彼女はいった。「……ここでなにをしているのです?」
「なんていうか、その」と彼はいった。しどろもどろになっているのは自分でもわかった。「……本を貸してほしいと思って」
「そんなことでわたしのところに?」
「うん」
「ここが図書館だとでも?」
「いや……貸したくないならいいんだ」
「なんの本?」
「……なんでも」
 会話のあいだ、ララはずっと彼をにらんでいた。歯切れのわるい応答にいらだったのかもしれない。彼女はつっけんどんな態度で引き返すと、ベッドのサイドテーブルに積み上がった本の一番上のものをぶんどり、すたすたドアのところまで戻ってきた。
「はいこれ」彼女はその本をノアの腕に押しつけ、彼をのけてドアを閉め、エレベータのほうへ進んでいった。彼は礼をいったが、その声は届いてはいなかったかもしれない。
 不機嫌な彼女の手がてきとうに掴んできた書籍はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』だった。ドッグイヤーだらけで、もはや角の折れていないページのほうがすくない。重要な文章に律儀にマーカーを引く習性を持つ生徒のせいで、すべての文章にマーカーを引かれることになり、かえって読みにくくなってしまった良質な教科書みたいな趣だ。

 廊下を歩きながらノアが考えていたのは、彼女のあの電話はだれにかけたものだったのだろう、ということ。受話器を置く音がきこえたからスマートフォンを使っていたわけではなさそうだ。
 それにしても不穏な電話だったな、と彼は思った。
 相手を脅しているようにさえきこえたぞ。

 電話での不穏な会話を耳にして以来、ノアはララの行動を気にかけるようになった。
 夜、または昼。彼は意識的に彼女の部屋の前を通った。
 ときには通り過ぎたあとで引き返すこともあった。
 合格発表の掲示板に自分の番号を見つけられなかった受験生が、現実を受けとめきれず、去っては戻って確認しを繰り返してしまうみたいに。
 しかし何度やってみたところで、受験番号が掲示板に現れないのと同じように、彼が横目に見やるドアはいつもしんとしていて、声が奥からきこえてくることはなかった。

 

さて、これにて3つのお話が出揃いました。
それぞれの続き、そして3つの物語の関係性は、本書にてお楽しみください。

 

予感(ある日、どこかのだれかから電話が)

 

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