当小説は3つの物語から成り立っています。
(1) 謎の原稿を受け取る作家〈シイナ〉の物語。
(2) 完全犯罪を企む男〈ジュン〉の物語。
(3) 湖畔のホテルから予感を告げ続ける少女〈ララ〉の物語。
3つの物語の関係性がわかったとき、新たな物語が立ち上がります。
あなたは謎をどう読みときますか。
※ この試し読み版は、本編の各物語から一部を抜粋・編集したダイジェスト版です。本編とは文章の提示順序、内容が異なります。予めご承知おきください。
(2)ジュンの物語 (完全犯罪を企む男)
ジュンとハヤタが再会を果たしたのはまったくの偶然だ。
隣人の家の前を通るとき、そこに立っているのがハヤタだとジュンは気づかない。
でもハヤタはジュンに気がついて、声をかける。
そうして、ふたりは大学を卒業して以来はじめて言葉を交わす。
互いに笑い、疎遠になっていた日々について語る。
ふたりともが連絡を取り合うにはあまりに多忙な日々を生きていた。
卒業したあと、ジュンは作家になり、ハヤタは不動産会社に就職した。
ふたりは互いの職業さえ、その瞬間までは知らなかった。
ジュンは再会地点から歩いて十数メートルの場所にある自宅へとハヤタを招く。
「それにしてもジュン。まさかおまえが作家になっていただなんてな」
リビングのソファに座るなりハヤタはいう。
「おまけにこんな高級住宅地に家を構えているときた」
「所詮はローンで買った家だ。キャッシュで支払ったわけじゃない」
「いってくれればおれが似たような物件を割安で斡旋してやったのに」
「ああ。再会するのがすこし遅かった」
「なんにせよ、住むにはとてもいい場所だ。いま、この界隈は人気なんだぞ。多くの客から問い合わせがある。なにしろしずかな上に空気もきれいだ。列車やロープウェイの駅だって近い。都市の喧騒に疲れた金持ちたちは最後にはこういう適度な場所に落ち着くもんさ。ほどよく近代化された長閑な地にな」
「総じて良好な環境であることは認めるよ。僕もけっこう満足はしているんだ。スーパーが遠い点だけは気に入らないけどね」
それからふたりは酒を飲み、思い出話に浸る。旧友のだれそれが結婚しただの離婚しただのというありきたりな話が続いたあと、話題は互いの仕事における悩みへと移る。ハヤタは土地を頑なに手放そうとしない住民に関する愚痴を吐き、ジュンは創作のアイディアに行き詰まっていることを明かす。
「強盗ものや詐欺ものを書こうとしているんだけど、妙案が浮かばない」
彼は再会した旧友を前に弱音を吐く。
「なんていうのかな。アイディアの種はあるんだけど、それがストーリーテリングと結びついていかないんだ。斬新な物語にならない」
「おれは本は読まないけど、おまえの悩みはわかる気がするよ」
ハヤタは緑と茶のストライプのネクタイを外しながらいう。
「作家ってのは大変だよな。リアリティのある話を書かなくっちゃいけない。だが現実的な完全犯罪の手段なんてものがあるとしたら、そんなのはもうとっくに実行されているわけで」
「そのとおり」ジュンはグラスを掲げていう。「銀行強盗の話を書くより、実際に銀行を襲撃したほうが儲かる可能性は高い」
「発想力に優れた作家は犯罪者になるべきだな」
「逆だよ。頭のいい犯罪者こそ作家になるべきだ」
ジュンはローテーブルの上にグラスを置き、足を組む。
「こんないいかたには語弊があるかもしれないけど、たとえば老人を狙った特殊詐欺を思いついたやつはすごいと思うね。プロットにして提出したら編集者にボツをくらいそうなアイディアじゃないか。人間はそんなに簡単に騙されないし、まして相手の正体を確認もせずにお金を振り込んだりもしない。ふつうはそう考える。ところがどうだ。あの手の犯罪は増える一方じゃないか。まったく、世の中よくわからないよ」
「事実は小説より奇なり、か」
ハヤタはネクタイをソファに投げ捨てて立ち上がり、リビングを物色する。
やがて彼は床の隅に本が積み上げられているのを見つける。いずれもセキュリティと犯罪に関する書籍で、乱杭歯みたいにベージュの付箋が飛び出している。
「相変わらず勉強家のようだな」
ハヤタはその一冊を手に取って皮肉交じりにいう。
「こういうのを毎日読んでいたら、いつか銀行の金庫を破れるのかもしれないな」
「それを読んでいてわかったことはひとつだけ。銀行強盗の実行犯たちは、作家よりよほど現場に精通しているし、勉強もしてる。なにより勇気がある。セキュリティについて学べば学ぶほど、大きな完全犯罪というのはむずかしいということがわかる」
「大きな完全犯罪が難しいのなら小さな完全犯罪を考えたらいいだろうに」
「まあ、そういうのもいくつかは考えてる。たしかに規模が小さいものにかぎれば非倫理的行為に及んでなお捕まらない手段というのはある。しかし残念ながら、小説の題材として扱うにはあまりにも弱い。なんていうか地味だし、ぱっとしない」
「それは表現力と構成力の問題だろうに」とハヤタ。「まあなんにせよ、防犯に関する画期的なアイディアを思いついたら教えてくれよ。マンション販売の企画に役立つかもしれない」
そう口にした直後、ハヤタは固まる。
ジュンは彼の様子を見守るが、動き出す気配がない。
「なあ。どうかした?」
「……なんでもない……ちょっと仕事のことでひらめいただけだ」
「なにを思いついたのさ」
「おまえには関係のない話だよ」
「いいじゃないか、教えてくれよ。だれかのひらめきって参考になるんだ」
「……いや。いまの話はまるで逆だってことに気がついたんだ」
「逆?」
「ああ。物件を売るために安心を活かすんじゃない。物件を手放させるために犯罪を活かすべきなんだ」
ハヤタはそうつぶやくと、ひらいていた本をとじ、ソファへ戻る。
「……実はな、ある土地を手に入れるよう上司から発破をかけられてるんだ。どんな大金を払ってでもその土地を手に入れたいという客がいるらしい。で、おれは何度も現地にいっているわけだが、そこの住民ときたら金に関心のないやつで、まったく交渉に応じようとしないんだ。おまけに毎度話をわすれたふりをする……いや、実際にわすれているのかもしれないが。とにかく、仕事がいっこうに進まずに困っていたってわけさ」
「……まさかきみは、その住民を追い出すため、犯罪に巻きこもうとしてる?」
「そこまで大仰なことじゃねえよ。ただ、治安に関するデータをうまいこと提示して不安を煽れば、手放したくなるかもしれねえって考えただけだ」
「……もしかしてだけど、きみが狙っている土地というのは……」
「そうとも。すぐそこだ」
ハヤタは窓のむこうを指さす。外は暗くてなにも見えない。が、彼が指し示しているのが老女の住む隣家であることははっきりしている。
「この品のいい住宅地にはそぐわないぼろ家だ。大枚はたいてでも土地を手に入れたいという人間もすくなくない。しかしあの老人にとっちゃ、いまさら引っ越しだ契約だというのはめんどうでしかないらしい。住み慣れたところに住み続けることだけが望みのようだ」
「わかる気もするよ。生活環境が変化したり、もろもろの手続きに巻きこまれたりというのは、あの歳にもなればずいぶんな負担だろうに」
「だがなにもこっちだって引っ叩いて追い出そうとしてるわけじゃない」
「もちろんそうだろうけども」
「なあ。いいアイディアがあったら教えてくれよ。おれはばあさんにあの土地から退いてほしいだけなんだ。なに、彼女にとっては十分な金を支払う構えはある」
ジュンは腕を組み考える。
老女を陥れるための策を講じることについて、良心が咎めなかったわけではない。彼女が他者のビジネス上の思惑に巻きこまれなければならない理由など、ひとつだってありはしないのだから。
しかし、ジュンにはハヤタにそれをやめろということができない。
それどころか、作家としての自分が積極的になりつつあることにも気づいている。
彼には試してみたいアイディアがあり、老女はそれをテストするのに格好のターゲットなのだ。
「ひとつ。前々から考えていた方法がある」
グラスを置いたジュンはいう。
「小さな完全犯罪のための方法が」