当小説は3つの物語から成り立っています。

 (1) 謎の原稿を受け取る作家〈シイナ〉の物語。
 (2) 完全犯罪を企む男〈ジュン〉の物語。
 (3) 湖畔のホテルから予感を告げ続ける少女〈ララ〉の物語。

 3つの物語の関係性がわかったとき、新たな物語が立ち上がります。
 あなたは謎をどう読みときますか。


 ※ この試し読み版は、本編の各物語から一部を抜粋・編集したダイジェスト版です。本編とは文章の提示順序、内容が異なります。予めご承知おきください。

 

(1)シイナの物語 (謎の原稿を受け取る作家)

 

 窓のむこうの建物は解体されている。
 重機と作業員に囲まれた古い家屋には年老いた動物のような悲壮感が漂っている。
 追い詰められているが、くたびれていて逃げることができない、そんな印象。
 その家とこちらの家のあいだには小さな家庭菜園がある。
 ひどく荒れ果てていて、これもまた物悲しい感じがする。
 道端には設計図を持ったひとたちの姿。
 新築の計画をしているのだろう、とシイナは思う。
 取り壊しのあと、この住宅地にふさわしい上品な邸宅が建つにちがいない。
 大理石に高級木。ガラスと鉄骨。虚栄心。多くのものが豪邸を構築していくはず。

 廃材がポリプロピレン製のガラ袋に詰められ、玄関と門のあいだへ放り出される。
 やがて運搬用のトラックがやってきて、敷地の脇につける。
 ふたりの作業員が連携し、そのガラ袋を荷台へと積む。
 運動会の競技のように手際がいい。
 荷台がいっぱいになったあと、トラックは西へむけて出発する。
 直後には、また同じ場所にガラ袋が積み上げられ、次のトラックを待つ。
 これまで何回も繰り返されてきた作業。
 そして、今後も繰り返されるであろう作業。

 シイナはいま、キッチンにいる。
 彼女はコーヒーを啜りながら窓越しに隣地解体の光景を見ている。
 時刻は午前十時。休憩するには早すぎるが、散歩するには遅すぎる。
 原稿執筆の進捗は順調であったとはいいがたい。
 どちらかといえば、すこし行き詰まっている。
 あと二、三十ページならすらすら書くことはできるだろう。
 そこまでのイメージはきちんと頭のなかにある。
 しかし、問題はそこから先。
 どんなふうに話が展開していくのか、彼女自身にもわからない。
 書きながら突破口を見つけられることを祈ってはいる。
 が、それが見つからないことだって十分ありうる。

 マグに残ったコーヒーの最後の一滴を飲み干したまさにそのとき。
 デスクの上の携帯電話が鳴る。番号は非通知。
 シイナは迷いもせずに電話を受ける。そして相手がしゃべるのを待つ。
 非通知でも拒否しないのは編集者からの連絡である可能性があるから。
 彼らはいろんな仕事の都合でいろんな場所にいる。
 出張先にいるとき、彼らはいつもの電話以外の電話だって使う。
「先生、はじめまして」と電話の男はいう。
 出版業界の人間でないことはすぐにわかる。
 声が若すぎるからだ。高校生、または大学生という感じがする。
「……どちらさま?」とシイナはたずねる。
「ぼくはあなたの本の一読者です。いつもたのしく拝読しています」と電話の男はいう。「もちろん最新刊も読みました。批評家からの反応はいまひとつだったようですし、インターネット上のレビューも芳しいものではありませんが、ぼくは好きですよ。ファン以外の読者を大事にしているというか、独自性よりも商業性を重視している感じがして」
「それはどうも」とシイナ。「わるいけど、インターネットってあんまり見ないの。低俗な文章を読んで時間をつぶすのはジャンクフードで空腹を満たすみたいなものだから」
「なるほど。作家先生らしい意見だ」
「で、どうして私の番号を知ってるわけ?」
「ああ、当然の疑問ですよね。しかし残念ながらそれは説明できません」
「応援のメッセージなら出版社に送ってもらえる? 気がむけば返事を書くから」
「ねえ、先生。いやな予感がしませんか?」
「……」
「しますよね? そりゃそうでしょう。読者を名乗る男から意味不明な電話がかかってきてるんだ、いやな予感がしないわけはない」
「……あの、いったいなんのつもり?」
「先生。実はですね、きょうはお話があってご連絡差し上げたのです」
「お話?」
「このごろ出版された先生の最新作、『少女と電話』についてですよ」と彼はいう。「実はあれ、先生の実体験といいますか、先生が関与された実際の事件をモチーフに書かれたものですよね?」
「……」
「電話を叩き切らないところを見るに、やはりこころあたりはおありのようで」
「電話は叩き切らない主義なの。登場人物の会話がおわると話が進まないから」
「なるほど。それもまた作家らしい意見だ」と電話の男。「ともあれ、先生は気になっているでしょう。ぼくがなにをどこまで知っているか。そして、この電話でぼくがあなたになにを求めようとしているかについても」
「……ねえ。あなたはいったいどこのだれ?」
「そういう質問、先生の作品のなかでも見かけたおぼえがあります。意味のない質問ですよね。素直に答えるわけはないとわかりそうなものなのに」
「無意味とは思わない。粘ればヒントくらいはもらえるかも」
「たしかに。それはいえてる」と彼はいう。「いいでしょう、ではヒントを。ぼくはあなたの作品の一読者であると同時に、あなたが創作科の講師として勤務する大学に通う学生でもある。実際、あなたの講義を聴講してもいる」
 シイナは額に手をあてる。記憶を探るが声にききおぼえはない。
 それもそのはず。聴講生の声などほとんどきいたことがないのだから。
「……目的はなに? お金? 『実際の事件』の真相なるものをばらされたくなければ、お金を渡せってこと?」
 その言葉をきいて男は笑う。
「いいですか、先生。仮にですよ、先生の発言のとおりであったとして、電話でぼくがそれをいうと脅迫の罪に問われかねない。そういうの、いやなんです。ぼくは先生のファンだし、先生の講義の聴講生でもある。これからも応援している」
「……」
「ただ、ぼくもこの件からある種のアイディアを得ましてね。ほら、先生自身がいつも講義でいっているじゃないですか。小さな着想を膨らませて大きな話にするのが作家の仕事だと。ですからぼくも、創作科の学生らしく、物語の体裁に仕上げることにしたんです。あなたに伝えたいことを」
「私に伝えたいこと……」
「ええ。ぜひあなたにはぼくの原稿を読んでもらいたい。なにをするかしないかは、それを読んだあとで先生が決めればいい。どんな感想を抱き、どんな行動へ移すかは読者の自由だ。これもまた先生が普段いっていることですね」
 シイナは黙る。
「近々、原稿をお送りしますよ、楽しみにしていてくださいね。先生」
 がちゃん。
 電話は切れる。

 数日後。最初の原稿はシイナのもとに届く。
 タイトルは『老女と電話』(明らかに『少女と電話』を意識した題名だ)。
 物語はジュンという男性作家の「いやな予感がするんです」という台詞からはじまる。

 シイナは立ったままそれを読む。
 彼女は冷や汗をかく。ワンピースの背が濡れていく。
 物語のなかで完全犯罪を企むジュンという男性作家は、あきらかにシイナをモデルに描かれたキャラクターだ。
 原稿の最後は(つづく)という言葉で締めくくられている。

 ここまでの内容では確信は持てない、だがもしかしたら、と彼女は思う。
 電話の男はほんとうにあの事件の真相を知っているのかもしれない。