「良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる――それが女子のまっとうな生き方なら、そんな世の常に私は謀反を起こす」
これまでは、自身の栄達のために家光の乳母となり、将軍の威光を笠に着て権勢を欲しいままにした悪女、とされることが多かった春日局を、令和の新たな視点で描いた佐藤雫さんの新刊『曜変の女』には、上記のような決意が書かれている。江戸時代を描きながら、今とかわらぬ普遍的な人の苦しみや葛藤、理不尽への処し方を表現した新作について、佐藤さんに話を聞いた。
撮影/河村正和 取材・文/編集部

――今回の作品では、これまで語られてきた「悪女」としての春日局(お福)を違った見方で描きながら、視点人物である4人の武士たちが、非常に繊細に描かれているのが印象的でした。
佐藤雫(以下=佐藤):ありがとうございます。まさにそれを書きたかったんです。春日局が仕えた徳川家光を例にとると、彼自身の葛藤であったり、世継ぎがなかなか生まれない苦しみであったり……。将軍としてというよりは、「一人の人間」としての見え方を描きながら、春日局の人物像を丁寧になぞっていきたいという思いがありました。
――これまでの春日局像とは違う描き方でしたよね。多くの人にとって、春日局といえば、乳母として成り上がり、権勢を欲しいままにした苛烈な女性という印象が強いです。
佐藤:そうなんです。「男は仕事、女は家庭を守る」という価値観が長かった日本社会において、物語で登場するお福(春日局)は自分の才覚で乳母の身からのし上がり、男社会である武士の世で男性に怯まず渡り合った「気が強い女」、もっといえば「悪女」として描かれてしまう部分があったのだと思います。執筆にあたり、春日局に関する資料を見ながら「なぜ当時は悪女として受けとられていたんだろう」と考えていたのですが、ふと気づいたんです。そう感じること自体、私自身が「現代の価値観」の中で生きているからなんだな、と。
――今の時代の価値観というフィルターを通してみている、ということですね。
佐藤:はい。昭和の価値観の中で春日局を主人公にした本を書いたり、それを読んだりした人たちは、また違った表現や、受け取り方をしていたかもしれませんね。歴史を描く作家共通のテーマだと思いますが、いま生きている人たちに読んでもらう以上、資料の解釈や脚色の仕方をどこまで現代の価値観に寄せるかというバランスは、これまでの作品でも常に意識してきました。
――時代が変わっても受け継がれる「人の営みの普遍性」を描く面白さですね。今作では、春日局本人ではなく「彼女を取り巻く4人の男性たち」の視点から描かれる連作短編になっていますが、最初は春日局自身の視点で書かれていたそうですね。
佐藤:そうなんです、最初は一本芯の通った女性の話として、本能寺の変から家光を将軍にするまでの流れをお福(春日局)視点で書き始めたんです。ですが、3分の1ほど進んだところでピタッと筆が進まなくなってしまって……。担当編集さんに「私自身がお福になりきれていない、好きになりきれていないから書けません」と相談しました。
――そこから大きな方針転換があったわけですね。
佐藤:はい。「私自身が好きになりきれていないなら、いっそ客観視してみよう。見る人(視点人物)によってお福像が少しずつ変わっていく方が面白いんじゃないか」と気づいたんです。そこで一度原稿を白紙に戻し、春日局に関わる男性たちの視点で描く4話構成の連作短編に切り替えました。
時代に取り残される人々もまた、「多様性」の一部
――第1話の視点人物は青山忠俊です。彼は戦国時代を生き抜いてきた徳川家の重臣で、「将軍たるもの常に先頭に立つべし」という武士特有の価値観を持っています。彼を最初に持ってきた意図は何だったのでしょうか。
佐藤:あえて一番古い価値観を持った人物から始めたかったんです。世間一般が抱く「気が強く、成り上がって権力を握った悪女」という固定観念の春日局像を一度提示することで、読者が物語に入りやすくしたかった。そこから話が進むにつれて、少しずつお福像が変わっていく面白さを感じてもらえればと思って、忠俊にその役を担ってもらいました。
――忠俊のパートでは、自身の妻・奈津との微妙なすれ違いも描かれていますね。「俺が一家を支えている」「妻の作った飯が一番だ」と思っている夫と、実は不満を抱えている妻という構図です。
佐藤:そこは意識して狙って書きました(笑)。言ってみれば「昭和の男性像」ですよね。本人は悪気がなくて、真面目でいい人なんですよ。ただ、価値観がもう時代に追いついていない。
――現代で言う「アップデート」ができていない状態ですね。忠俊は物語の後半にも登場しますが、結局最後までアップデートはできなかった。そこを単なる「悪者」として切り捨てない描き方に温かさを感じました。
佐藤:ありがとうございます。結果的に変われなかったとしても、それを徹底的に批判したり悪として描くのは違うなと思っているんです。今って「多様性を認めよう」と言われますが、だったら「昔の価値観を持ち続けている人」だって多様性の一つじゃないかなと思うんです。
――確かに、新しい価値観だけを正義として押し付けるのは矛盾していますよね。
佐藤:そうなんです。時代の変化に乗れなかった人がいたとしても、それはその時代を生きて、そういう価値観の中で育ってきたのだから「まあ、そういう人もいるよね」と受け入れるか受け流せばいい。だからこそ、家光や福の息子の稲葉正勝たちから見ても「忠俊は忠俊だから仕方ないよね」というようなニュアンスになるよう、意識して書きました。

2代将軍・秀忠が抱えたトラウマと責任感
――第2話の視点人物は、2代将軍の徳川秀忠です。秀忠は歴史上、どうしても父・家康と息子・家光の影に隠れがちで、関ヶ原の遅参などから「不遇な2代目」として描かれやすいですが、今作では非常に魅力的で人間臭い人物でした。
佐藤:秀忠はいつか書いてみたいと思っていました。歴史の授業でもさらっと通り過ぎられてしまいますが、家康の後継者として相当な苦労と葛藤があったはずですし、「関ヶ原の遅参」という大きなトラウマを抱えて青春時代を過ごした。今回、男性陣の視点で描くとなった時に「秀忠は絶対に外せない」と思いました。
――妻であるお江との関係や、家光の弟・忠長に対する最後の決断など、秀忠の生き様には胸を打たれました。特に終盤、家光に対して忠長の処遇について遺言するシーンは非常に強烈です。
佐藤:史実として忠長が許されず改易された流れをどう捉えるかと考えた時に、秀忠の発言を入れたほうがもっとも自然だと考えました。
――そこには父親としての感情だけでなく、将軍としての冷徹なまでの責任感があったわけですね。
佐藤:はい。秀忠は家康と共に戦国の乱世を見てきた人です。家康が切り拓いた平和を盤石にして家光に引き継ぎ、太平の世を定着させたいという強い思いがあったのではないかな、と。お家騒動や権力争いが起きれば、また戦国時代へ逆戻りしてしまう。いつ再び乱世に転がり落ちるかわからないという危機感があったからこその決断だったのだと思います。
歪んだ愛と救い――息子・稲葉正勝が見た母の背中
――第3話は春日局の実の息子であり、家光の側近となった稲葉正勝です。母がお福(春日局)であるために周囲から嫉妬され、幼少期は母の愛情を受けずに育ったという、非常に複雑で切ない立場ですね。
佐藤:登場人物の中で一番かわいそうなのは正勝かもしれません。母は自分を置いて乳母として働きに出てしまい、幼い頃は我慢の連続だった。「上様のため」と働く母を見て育ったので、根はすごく真面目でいい子なんですが、どこか鬱屈した感情を抱えている。何を成し遂げても「お福の息子だから」と言われてしまう苦しみを描きたかったんです。
――自分の感情が怒りなのか諦めなのかすら分からないまま生きてきた彼に、ラストシーンである人物がかける言葉は、救いの言葉だと感じました。
佐藤:幼い頃に両親が離婚し、自分の気持ちを出すことも許されない環境で育った彼が、初めて「あなたの気持ちを分かりたい」と言ってくれる存在に出会えた。彼の人生における唯一の救いを、あのラストシーンに込めました。また、正勝の視点があるからこそ、お福が春日局と呼ばれる前の「何者でもなかった時代」の過去を描くことができたと思っています。
再読することで見えてくる「新しい景色」とは!?
――そして第4話で、ついに徳川家光自身の視点となります。第1話から第3話までに登場したシーンが、家光の回想やモノローグによって全く異なる意味を持ち始める構造には舌を巻きました。
佐藤:実はそこにちょっとした仕掛けを作っていたんです(笑)。第2話で秀忠から「歯朶具足」を授けられた時、家光は涙を流します。秀忠視点で読んでいる時は「父親に認められた喜びの涙」に見えるんですが、第4話で家光の胸中が明かされた時、「涙の真実」が判明します。
――「あそこでの涙はそういう意味だったのか!」と胸を衝かれました。読了後にもう一度第1話から読み直したくなりますね。
佐藤:ありがとうございます! 最後に読み終えた後、もう一度最初から読み直すと全く違う物語に見えてくるような構造にチャレンジしてみたかったんです。
――家光の人物像についても、単なる「幕藩体制を敷いた将軍」という教科書的な面ではなく、傷つきやすく繊細な内面に焦点を当てられていますね。
佐藤:歴史的な業績を学ぶ小説ではなく、歴史上の人物を「自分と同じ一人の人間」として感じてほしかったんです。だからあえて制度の確立などの難しい話はスルーして、彼の「陰」の部分、ガラス細工のように繊細な内面を徹底的に掘り下げました。
――その中で、春日局の存在は家光にとって単なる「恩人」を超えた、深く複雑なものとして描かれます。最期にお福が自ら薬を断って死を迎えるシーン(薬断ち)の解釈も秀逸でした。
佐藤:「お福(春日局)がいなければ自分は生きていけない」と依存し、同時に自分をこの苦しい世に繋ぎ止めた存在として複雑な感情を抱いていた家光に対し、お福は自らの死をもって「私がいなくても、あなたはもう一人で生きていける」というメッセージを遺した。そう捉えることで、二人の関係性に一つの決着をつけたかったんです。
――令和の現代だからこそ響く、新しい春日局像を見せていただきました。本日は貴重なお話をありがとうございました!