薬局で処方してもらった薬を購入した後、スーパーで昼食用にトンカツ弁当を買った。その後、神田川沿いにある甘味処に寄って、あんみつを二つテイクアウトした。万由子の好物である。こんなもので機嫌が直るわけでもないだろうが、声をかけるきっかけが欲しかった。
玄関のドアを開けると、万由子の靴がなかった。また整体だろうか。それとも、買い物に出たのか。
キッチンに行き、あんみつを冷蔵庫にしまう。弁当を持ってダイニングテーブルに着くと、メモが載っていた。それを呼んだ瞬間、直哉の顔から血の気が引いた。
――これまでお世話になりました。姉の家で暮らします。
どう読んでも、別居宣言である。離婚宣言かもしれない。万由子の姉は愛知県の豊橋に住んでおり、夫はすでに亡くなっている。子どもも独立しているから、万由子の同居を歓迎しそうだ。
もはや、弁当を食べる気は失せていた。直哉はリビングに向かうと、倒れこむようにソファに座った。
なんでこうなるのか、まったく分からない。整体に行くなと言っただけである。
とにかく、豊橋へ向かおう。万由子の姉の住所は、住所録を見れば分かる。
そのときスマホに着信があった。画面には知らない番号が表示されている。無視しようと思ったが、万由子の姉が連絡してきた可能性があると気づいた。
通話を開始すると、のんびりとした声が聞こえてきた。
「こんにちは。丸山です」
「あっ、どうも」
「今朝、『癒し空間・涼』で施術を受けてきました。それで話があるんですが、今、お時間よろしいでしょうか」
「すみません、それどころではないんです。妻が家を出てしまって」
丸山はさすがに驚いたようだ。
「なんと……。居場所は分かっていますか?」
「豊橋の姉の家に行くと書き置きがありました。これから連れ戻しに行くので、これで失礼します」
電話を切ろうとしたが、丸山が慌てたように言った。
「そういうことなら、なおさら僕の話を聞いてもらいたいです。それに、奥様を迎えに行くのは、冷静になってからのほうがいいですよ」
諭すように言われて、腹が立った。
「冷静ですよ、僕は!」
「そうは思えません。頭に血が上っていなければ、『連れ戻す』なんて言わないのでは?」
全身の血がスッと引く感触があった。丸山は淡々と続けた。
「小さな子どもならともかく、奥様ですよね。率直に言って、とても違和感がありました。僕だったら、今日のところは、無事に着いたか確認するメッセージを送るぐらいにしておきます」
丸山の一言、一言が胸に突き刺さる。同時に、強烈な不安がこみ上げてきた。
自分では、万由子をリードしていると思っていた。夫唱婦随が、自分たち夫婦のスタイルだと信じていた。実際、四十年間それでやってきたのだ。
でも、万由子はどうだったのだろう。我慢に我慢を重ねていたとしたら……。自分はもしかして、モラルハラスメントを働いていたのかもしれない。そう思い当たったら、身体が震えてきた。
――これは、もしかしたらダメかもしれない。
不安の向こう側に、絶望が見え隠れし始めたが、諦めたくなかった。
「そうですね。頭を冷やします」
「それがいいですよ。ところで午後、時間はありますか?」
「ああ、はい」
カフェで話を聞いてくれるのだろうか。そうであればありがたい。しかし、そうではなかった。
「三時に『癒し空間・涼』に行ってください」
「ええっ? それはどういう……」
「知り合いに頼まれたと言って、中村さんの名前で予約を取りました。来週しか空きがなかったのですが、絶妙のタイミングでキャンセルの電話がかかってきて、今日取れたんです」
「いや、しかし……」
「あのお店は整体といっても、骨格矯正がメインではなく、文字通り癒し空間でした」
丸山までそんなことを……。あの整体師はよほど口がうまいのだろうか。恐ろしくなってきたが、丸山は続けた。
「中村という姓はよくあるし、住所を書かされるわけではないから、万由子さんの夫だと気づかれる可能性は低いでしょう。三十分枠なので、料金は三千五百円です。安くないけどぜひ、行ってください」
「民間療法なんて、受けたくないし、必要ありません」
「肩こりや腰痛がまったくないってことはないでしょう。とにかく、行ってみてください。そうしたら、神の手がどういうものか分かるのではないかと」
いったい何を言い出すのだ。しかし、藁にもすがりたい気分だった。
「その後、よかったらカフェに来てください。今日も、お医者くんのカフェタイムをやっています」
電話を切った後、思い出した。自分は水泳肘なのだ。肘だけは、触らせないようにしなければ。
三十分間の施術は、あっという間に終わった。直哉は、不思議な気持ちで、「癒し空間・涼」を出た。その足で、カミナーレに向かう。
今日は先客がいた。おかっぱ風の髪形をした初老の女性である。ちょうど会計を済ませたところのようで、財布をバッグにしまっている。直哉の顔を見ると、嬉しそうに笑った。
「初めてお会いしますよね。私、もう少し残ろうかな」
丸山が呆れたように言った。
「ケイコさん、二時間もいたんですから、もう十分でしょう。常連さんは、こういうとき、気を利かせるものですよ」
女性は、不満そうだったが席を立った。二人だけになるのを待って、丸山は切り出した。
「どうでしたか?」
「……はあ」
木下の施術は、特別なものではなさそうだった。いわゆる指圧やマッサージに似ている。「背中と腰が張っている」と伝えると、丁寧に揉みほぐしたり、伸ばしたりしてくれた。腕をとって肩を回してくれるのも心地よかったが、神の手というほどのものではない。
それより驚いたのは、話術だった。話術というより、話を聞く力と言ったほうが正確かもしれない。問診のときだけでなく、手を動かしている最中も、木下は低く心地のいい声で、短く質問をした。
どこがどのように痛むのか。普段、どのような生活をしているのか。運動は何かしているのか。ストレスを感じていたりはしないか。話を遮らないし、絶妙な相槌をうつので、こちらの舌もなめらかになる。
そして、直哉の話に合わせて、施術を変えたりアドバイスをしてくれた。一番驚いたのは、「バタフライをやりすぎて水泳肘になった。肘は触らないでほしい」と伝えたときだ。
木下は整形外科の受診を勧めた。「もう行ってきた」と言うと、背中や肩の筋肉の張り具合を確認した。そして、コーチにフォームを見てもらったほうがいいと助言してくれたのだ。間違ったフォームで泳ぎ続けたら、肩や背中にも痛みが出る恐れがあるという。併せて筋トレも勧められた。
こんなに親身になってもらえるとは思わなかった。もっと木下と話をしたかった。そして思った。万由子も、同じように感じたのだ。
身体の不調を訴えたとき、しっかり受け止めてくれる人の存在は心強い。たとえ相手が医師でなくても、だ。店内のスピリチュアルな雰囲気だけは理解できなかったが、それは趣味、センスの問題だろう。
直哉は、丸山に自分の感じたことを素直に伝えた。丸山は、うなずきながら聞いてくれた。そして言った。
「僕も、同じように感じました。医師は忙しくて、患者の話をゆっくり聞く時間を取れません。それってどうなんだろうと思います。でも、普通の医療機関に勤めていたら、無理なんです。だから、僕はカフェで話を聞くことにしました」
丸山はそこで恥ずかしそうに笑った。
「こんなこと誰もやっていないだろうって、得意になっていました。でも、木下さんのような人もいたんですね。目指すところは、僕と似ているように思いました。正直なところ、今でも民間療法には、いい印象を持っていません。危ないところもあると思います。でも、全否定するのも、違うのではないかと」
直哉も全く同じ気持ちである。丸山は続けた。
「木下さんは、信用できそうです。痛みが強くなったら、必ず整形外科を受診するようにとも言っていましたしね。そこで思ったんですが……。奥様も、一度整形外科で見てもらって、他の疾患が隠れていないと分かったら、金銭的な負担が無理のない範囲で、木下さんのところに通ってもいいかもしれません。そういう方向で、話してみたらどうですか?」
それが丸山の結論のようだ。
「実は僕、水泳で肘を痛めていて、今朝、整形外科にも行ったんですよ。そこは妻を行かせたところです。いい医者だと思っていたんですが、そうでもなかったようです。それで妻は……」
整形外科を敬遠するようになったのだろう。
そう続けようと思ったのだが、丸山に遮られた。
「ちょっと待ってください。奥様は整形外科を受診したんですか?」
弓形の眉を大きく上げながら言う。そういえば、丸山に伝えていなかったかもしれない。
「ええ。一度だけですが」
「レントゲンで、骨に異常がないことを確認していますよね? その上で整体を受けたのであれば、そこまで心配する必要はなかったなあ……。まあ、そうだとしても、整体師が信用できない人だったら、まったくお勧めできないわけで。難しいですね」
首をひねっているのをみて思った。世話になったのは確かだが、このぐずぐずした態度はどうにかならないものか。
ただ、病気も人間関係も一筋縄ではいかない。断言できるようなことなんて、実は少ないのかもしれない。
丸山にお礼を言ったときに、ようやく気づいた。ドリンクを頼むのを忘れていた。というか、丸山が注文を取るのを忘れていたのだ。コクのあるタイプの豆のコーヒーを頼むと、丸山も自分のミスに気づいたようだ。慌ててドリップの用意を始めた。
待っている間に、万由子にメッセージを送ることにした。
――お姉さんの家に無事に着きましたか? 整体の件、申し訳なかったです。謝ります。もう一度、ゆっくり話がしたいです。
すぐに既読がついた。そして、意外にも返信が来た。
――この先、そこまで長くない人生です。お互い自由にしましょう。
直哉は泣きたくなった。後悔しても遅いのかもしれない。でも、諦めきれなかった。震える指で文字を打ち込む。
――ウチは夫唱婦随だなんて勝手に思って、亭主関白を気取っていたけど、万由子の考えをもっと尊重するべきだった。束縛して本当に申し訳ない。もう一度チャンスをくれないか。
既読はついたが、返信はなかった。再度メッセージを送ったら、しつこすぎるだろうか。迷っていると、返信が来た。
――何を言ってるのかよく分からない。確かにあなたは偉そうだけど、職業柄身についた癖みたいなものでしょ。たいして気にしていなかったわ。退職してからは、家事も料理以外は率先してやってくれたじゃない。毎日いそいそと掃除をする人のどこが亭主関白ですか。整体にやみくもに反対するのは、ちょっと理解できなかったけど、校長先生の一件がよほどショックだったんでしょう。晴代さんも確かに変わった人だしね。でも、私が言いたいのは、そういうことではないの。遠慮せずに、大島へどうぞ。
直哉は首をひねった。なんで大島の話が出てくるのか分からない。でも、たぶん重要なことなのだ。丸山に断って店の外に出た。祈る思いでコールを鳴らす。五コール鳴らしたところで、ようやく万由子が出てくれた。
「大島ってなに?」
「移住したいんでしょ。元同僚の先生の話をするとき、とても羨ましそうだった。今の生活が、つまらないのも分かってる。話す人なんて、私ぐらいだものね。でも、私に大島は無理。三年間暮らしたけど、なじめなかった」
「ちょっと待て」
「残り少ない人生だもの。好きにすればいい。私も、好きにすることにしたから、おあいこよ」
「いや、それは違う」
自分は、桜の見えるあの部屋で、万由子と二人で残りの人生を過ごしたいのだ。
こんな恥ずかしいことを言わせるな。そもそも、早合点が過ぎるのだ。いい年のくせにそそっかしいやつだ。でも、今、彼女の間違いを訂正しないと、きっと取り返しのつかないことになる。
直哉は頭に浮かんだ台詞をそのまま口にした。
「来年も、再来年も、ずっと桜を一緒に見たいんだ」