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 丸山のカフェに行った翌日の金曜日から、薬の服用を中断した。諦めきれなかったが、丸山の忠告を無視する度胸はなかった。新たな情報が出てくるかもしれないので、とりあえず様子を見ようと思ったのだ。

 その後、続報はなかった。そして、薬を止めて三日目の日曜日、顔はすっかり元に戻ってしまった。すべすべだった時期があったのが信じられないぐらい脂ぎっている。

 憂鬱な気分で出社し、どんよりとした気分で勤務についた。

 やる気は出なくても、客は来る。日曜だということもあり、順番待ちの客が待機するベンチは、常に満席だった。

 離席して顔をなおす時間は取れなかったが、もうどうでもいいや、という投げやりな気分である。効果絶大な薬があるのに、周りに気兼ねしながらこまめに顔をなおすのが、バカらしくなってしまったのかもしれない。

 それにしても、これからどうしたものだろう。特に、気がかりなのが土曜日のパーティーだ。

 前回は、薬を飲み始めてから二日後に明確な効果が現れた。土曜のパーティーに間に合わせるなら、前々日の木曜、余裕をみるなら水曜から、薬を再び飲み始めたほうがよさそうだ。その勇気が自分にあるのかどうか……。

 小さなミスを繰り返しながら、なんとか午前中をやり過ごした。昼食はコンビニで買ってくることにして、建物の二階にあるロッカールームに財布やバッグを取りに行く。

 スマホをチェックすると、日菜子から「時間があるときに電話がほしい」とメッセージが入っていた。ロッカールームに他に誰もいなかったので、さっそく電話をかけてみた。日菜子はすぐに出た。

「パーティーの席だけど、参加者の増減があって、変更したいんだ。しほりを例のカメラマン氏と同じテーブルにしていい?」

 当初の予定では、専門学校のときの同級生数人で同じテーブルを囲むはずだった。きれいな肌で出席できるなら、カメラマン氏とのテーブルでも構わないが、薬が使えるかどうか分からない今の状況では……。

「この前、前向きなことを言っちゃったけど、やっぱりいいや。他の子たちと一緒のテーブルにして」

「どうして? 薬が効いて肌もきれいになったんでしょ? そういうときこそ、攻めなきゃ」

 日菜子は、SNSの投稿を目にしていないようだ。たいして話題にもなっていないのだろう。あれ以来、ニュースも気にして見ているが、厚生労働省が調査に乗り出したとか、そういう情報はまったくなかった。

「でも、私なんか……」

 言葉を濁していると、日菜子が珍しくため息をついた。

「しほり、最近よく言うよね。私なんか、って。それ、やめたほうがよくない? っていうか、そういう人じゃなかったよね」

 思いがけない苦言に、心臓が縮みあがるようだった。次の瞬間、怒りが湧いたが、すぐにそれは萎んだ。

 確かにそうだった。

 ――私なんか、自分なんか……。

 口癖になっているどころか、いつも脳内で渦巻いている。そんなウジウジした自分が、自分も嫌いになりそうなのだ。

 この際、思い切って、あの薬を使ってしまおうか……。肌の悩みさえなくなれば、自分は変われる。

 多少リスクはあるだろう。でも、人生を変えられるのであれば、割に合わないなんてことはないはずだ。

 しかし、次の瞬間、ハッとした。

 薬をお土産としてくれたのが、日菜子だったのを思い出したのだ。個人輸入を勧めてくれたのも彼女だった。

 万一、しほりが薬の副作用で重症に陥ったら、日菜子は責任を感じて苦しむのではないだろうか。その必要があるとは思わない。でも、日菜子はそういう人だった。

 揺れていた気持ちが、ピタッと制止した。

 日菜子を巻き込む恐れがあると気づいた以上、あの薬は使えない。日菜子を苦しめてしまったら、それこそ割に合わない。

「ごめん。席はみんなと同じテーブルにして。久しぶりにみんなとおしゃべりしたいから。食事の後、ガーデンでお茶を飲むんだよね? カメラマン氏は、そのときに紹介してもらえると嬉しいな」

 脂ぎった顔に幻滅されてしまうだろう。でも、自分を気遣ってくれる親友を悲しませるようなことをしてはいけない。

 

 電話を切ると、ダウンジャケットを羽織った。財布とスマホだけ持って外に出る。コンビニを目指して歩き出そうとしたときだ。

 電柱の陰から、紺色のダッフルコートを着た丸っこい体形の男性が出てきた。気まずさをごまかすように、不自然な笑みを浮かべている。

 しほりは眉を顰めた。

 なぜ丸山がここにいるのだ。

 唖然としていると、丸山は、何度も頭を下げた。

「すみません。蒼空くんに、勤務先を教えてもらったんです。どうしても、もう一度、お話をしたくて」

 待ち伏せをしていたようだ。人の好さそうな顔をしているくせに、やることが度を超えている。ストーカーじみていて、かなり不愉快だ。

 それに、自分はもう心を決めたのだ。丸山の話を聞く必要はなかった。

「僕、ちょっと調べてみたんですが……」

 丸山が言いかけるのをしほりは遮った。

「薬はやめました」

「えっ、あの……」

「この脂ぎった顔を見れば、分かりますよね?」

 いい年のくせに、言葉を探すように、目を白黒させているのが無性にイライラする。

「やめたんです」

「本当に?」

「嘘じゃありません。今日、帰ったら薬を全部処分するつもりです」

「あの、それを確認する方法は……」

「いい加減にしてください。あの薬の情報は、今後、一切必要ありません」

 毅然とした口調で言う。口に出したことで、完全に吹っ切れたようだ。しほりは丸山を無視して歩き始めた。

 少し歩いたところで、苦いものが胸にこみ上げた。

 丸山は、心配して様子を見に来てくれたのだ。なのに、我ながらひどい対応をしてしまった。

 振り返ってみたが、丸山の姿はなかった。

 

3

 

 パーティーの二日後の朝、出勤の支度をしながらスマホをチェックすると、カメラマン氏からメッセージが入っていた。

 ――来週、横浜で昨日話したステンドグラス作家の個展があるんです。よかったら一緒に行きませんか?

 思わず画面を二度見した。信じられなかった。室内での食事が終わり、ガーデンでの歓談タイムが始まってしばらくして、日菜子が、「紹介するね」と言って、彼を連れてきたとき、しほりの顔は日菜子が絶句するほど脂ぎっていたのだ。

 ただ、話が思いのほか弾んだのも事実だ。カメラマン氏は、日菜子の作品に興味を持ってくれた。しほりがつけていたルビーのリングを褒めちぎり、「美しいもの」と「美しいものを作る人」への憧れを語った。

 彼が趣味で撮っている写真も、スマホで見せてくれた。

 ステンドグラスのランプシェード、漆仕上げの万年筆、江戸時代の職人の手による伊万里焼……。

 世の中には、人間の手で作り出された美しいものが無数にある。それを美しい形で写真に収めるのが、その人のライフワークだそうだ。

 彼の話を聞いていると、美しいものに対する憧憬の念が蘇ってくるようだった。

 もっと彼と話をしてみたかった。彼が好きだというステンドグラス作家の作品にも触れてみたい。

 長時間行動をともにしたら、脂っぽい顔を見られることもあるだろう。でも、すでに最悪の状態の顔をさらしているのだ。それが理由で嫌がられる心配は少ないと思う。

 ――お誘い、嬉しいです。ぜひご一緒させてください。私の休みは、火曜と水曜です。

 返事を送ると、すぐに既読がついた。

 ――ありがとうございます。では、火曜日にしましょう。よかったら、その後、中華街で食事でも。

 よりによって中華か……。油っぽい食事は避けたいところだが、注文する品を選べばなんとかなるだろう。

 

 ふわふわした気分で出勤し、いつもの通り、カウンターで接客の準備をする。

 その日、最初の客は、小谷だった。

「秦野ちゃん、聞いてよ」

「今日はどうされましたか?」

「その前にちょっと。揚水発電について話したとき、秦野ちゃんは、電気を使って電気を作るなんて、無駄だ、バカバカしいって顔をしていたよね」

「いや、まあ……。効率が悪そうだな、とは思いました」

 小谷は、小鼻を膨らませた。

「ところが、そうじゃない。電気って貯められないんだ。なのに、必要な分だけ作るのは難しい。そこで、揚水発電の出番というわけ。電気が余っているときに、水を汲み上げる。そして、電気が不足しがちな時間帯に、水を落とす。イメージとしては、巨大な電池だね」

 一昔前までは、原子力発電で作った夜間の余剰電力を貯めることを想定していたが、今は太陽光発電や風力発電などの再生エネルギーの貯蔵方法として、世界で注目されているのだという。

 そういうことだったのか。

「ありがとうございます。今のお話を聞いて、なんだか、すっきりしました」

 自分も、お金と時間を肌のケアにつぎ込んできた。でも、それが無駄だったとは限らない。苦しんだ月日は、きっとこれからの自分の糧になる。

 隣から咳払いが聞こえた。瑞月が注意喚起をしたのだ。確かに、雑談が長すぎである。

「それで、今日のご相談は?」

「SNSで知り合ったガールフレンドが、スマホの文字を拡大する方法を教えてほしいと言うんだ。設定のどこをいじればいいんだっけ?」

 アクティブ・シニアの積極性は見上げたものだなと思いながら、小谷に設定アプリを開くように言った。

 

 翌日は休みだった。しほりは、思い切ってお医者くんカフェに行くことにした。

 丸山に謝ろうと思ったのだ。待ち伏せされて鬱陶しかったのは本当だが、あんな態度を取ったことを後悔している。

 店に先客はいなかった。カウンターの中で、丸山が両目を大きく見開く。

「どうぞ、どうぞ。おかけください。それにしても、驚きました。最近、郵便は都内でも、二日はかかると思っていたから」

 意味が分からなかったが、とりあえずカウンターの中央付近の席に座った。丸山が申し訳なさそうな顔をして、頭を下げた。

「先日は、申し訳ありませんでした。職場に押しかけられたら怖いですよね。この店のオーナーの女性に、水島めぐみさんって言うんですけど、きつく叱られました。でも、どうしてもお伝えしたいことがあって、手紙を書いてお店に送ったんです。昨日の夜、ポストに投函しました」

「まだ手元に届いていません。そうではなくて、謝りたくて来たんです。この前は、ひどい態度を取ってしまって申し訳ありませんでした」

 顔を上げると、丸山は目をせわしなく瞬いていた。

「あっ、いや。謝らないでください。僕のほうが、ストーカー的だったわけで」

 しどろもどろになりながら言うのを見て、やっぱりちょっとイラっとした。

 でも、丸山は真剣にしほりのことを考えてくれたのだ。不器用だが、熱い人なのだろう。

「それで、お手紙というのは?」

「しほりさんが利用していた個人輸入業者の名前は分かりますか?」

「クラウンです」

「でしたら、問題はなさそうです」

「えっ?」

「あの薬は、複数の個人輸入業者が取り扱っていますよね。そのうち、最安値で出している業者の商品が、外国でも出回っている偽造品だったようなんです」

「偽造品……。なぜ分かったんですか?」

「しほりさんがカフェに来たのは木曜日でしたよね。その日の夜に、例の先生に連絡を取りました。薬を使用している人から相談を受けたので、もう少し詳しい状況を教えてほしいとメールでお願いしたんです。日曜日に、ようやくその先生と連絡がつきました。そして、最安値の業者の薬が偽造品かもしれない、という話を聞いたんです」

 そういう事情であれば、アメリカのドラッグストアで売られている薬や、日本の医療機関で自由診療として処方されている薬に問題がなかったのも納得だ。それにしてもである。

「その先生は、木曜日の時点で、なぜ記事にそう書いてくれなかったのでしょう」

「その時はまだ詳しいことが分からなかったようです。憶測で業者を叩くわけにもいかないだろうし」

 その後、指摘を受けた問題の業者が、自社が輸入した薬が偽造品だったと認め、自主回収に乗り出した。警察も、その業者を薬事法違反などで捜査中だという。

「手紙には、そうした経緯を書きました。ニュースでも報じられたようですが、気づきませんでしたか?」

「いえ……」

 薬を使わないと決めてから、続報を追いかけてはいなかったし、ニュースをまめにチェックするほうでもない。

「手紙には、僕の考えも改めて書きました。個人輸入の薬は、やはりお勧めできません。もし、あの薬を今後、また服用することを考えているのであれば、自由診療になりますが、医療機関で処方してもらうほうが安心です」

 しほりは、うなずいた。

 あの時、たまたまSNSの投稿が目に入らなかったら、自分は一連の動きをまったく知らずにいたかもしれない。それは、あまりにも恐ろしい。

 ただ、薬をまたぜひ使いたいとは思わなかった。自分は、美しくなりたいのではなく、美しいものを作り出したいのだ。醜いアヒルの子を脱しようと懸命になりすぎたせいか、それを忘れていた。

 明日も休みだ。専門学校の就職課を訪ねてみよう。OG向けの求人情報も来ているはずだ。

 丸山は、うつむき加減で独り言のように続けた。

「あと、僕も秦野さんに謝らなければなりません。脂性なんて、たいした病気じゃないという気持ちが、心のどこかにあったのだと思います。だから、秦野さんを怒らせてしまった。でも、人によって大事なことって違いますよね……。これからは、気をつけます。蒼空くんも、今日はいないのですが、言い過ぎたって反省していました」

 謝ったり、反省したり……。

 切れ者とは、ほど遠い印象である。でも、この人は頼りになるお医者さんだ。

「お詫びの印に、コーヒーをごちそうさせてもらってもいいでしょうか」

「えっ、ああ、いいんですか? すみません。じゃあ、今日はミルクティーをお願いします」

 丸山が、なぜか傷ついたような目をした。

 

(第9回につづく)