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仕事がない火曜日、昼食を終えると、直哉は早稲田通り沿いを高田馬場方面に向かった。万由子が通っている「癒し空間・涼」がどんな店か、チェックしようと思ったのだ。万由子には、散髪に行くと言って家を出てきた。実際、行きつけの理髪店に午後二時に予約を入れている。その前に、チラッとのぞいてみるつもりだった。
先週、あんなにきつく言ったのに、万由子は整体院通いを止めようとしなかった。ちょっと驚いた。
整体には、直哉に内緒で通うつもりだったようだ。しかし、万由子には抜けたところがある。固定電話の前の壁に貼ってあるカレンダーに「涼先生 二時」と書き込んであった。
問い詰めたら、万由子は整体の予約を取ったと認めた。そして、開き直ったのだ。
「家計からお金は出しません。自分の貯金を使うから、好きにさせてもらいます」
貯金というのは、四年前に亡くなった実母の遺産だろう。千五百万ほどもらったと聞いている。貴重な老後の資金になるはずの金を整体の施術代として溶かしたら、義父母が草葉の陰で泣く。
しかし、直哉が何を言っても、万由子は肩をすくめるばかりだった。そして「自分の身体のことは自分で決める」と宣言し、話を打ち切ったのだった。
驚きを通り越して、ショックを受けた。
万由子は八歳年下だということもあり、自分たち夫婦は、直哉がリードする形で四十年やってきた。マンションの購入、転勤といった大きな決断をするとき、万由子はいつも直哉の意見に従ってくれた。古い言葉で言えば夫唱婦随だ。
ただ、小さな問題、たとえば洗濯洗剤の使い分けなどについては、自分の流儀にこだわるところがあった。本人としては、整体通いも、それと同じと考えているのかもしれないが、洗剤と違って身体のことである。なんとか翻意させたかった。
しかし、その日以来、整体の話をしようとすると、万由子はすっと席を立ってしまう。それ以外のときは、普通に接してくれるので、家に居づらいわけではないが、直哉としては不本意だし、何より万由子の身体が心配だ。
かくなる上は、神の手の正体を暴くしかないと思った。そんなものは存在しない、まやかしだという事実を突きつければ、万由子も目を覚ましてくれるだろう。そのためには、まずは、敵を知る必要がある。
万由子は店の名を口にしなかったが、「整体」「涼」で検索してみたら、「癒し空間・涼」という店が見つかった。自宅から徒歩で十分ほどである。責任者の名前は、木下涼太郎。ホームページもあったが、そっけないもので、整体とハンドケアを行っていることぐらいしか分からなかったので、行ってみることにしたのだ。
その店はマンションの一階にある路面店だった。外観を見て、女性受けしそうだと思った。よくある整体院や整骨院のように、店名をデカデカと掲げておらず、まるで隠れ家風レストランかカフェのような雰囲気なのだ。ガラスのドアの脇には、ハーブを寄せ植えしたプランターが飾ってある。
万由子は「整体」と言っていたが、実態はリラックスが目的のサロンのようなものなのだろう。なのに、「腰痛が消える」だなんて、ますます胡散臭い。
ドアから中の様子をのぞいてみた。ちょうど施術が終わったところのようで、木下涼太郎と思われる男性が、女性客からお金を受け取っていた。色白で長身。年は五十前後のようだ。薄くなった長い髪を後ろで一つにしばり、薄いベージュのリネンの服を着ている。上着の胸元にはドレープが寄り、パンツはやたらと幅が広い。「お前はギリシャ神話の登場人物か」と言いたくなるような服だった。腕には、パワーストーンと思われるブレスレットをしている。
店内も、スピリチュアル感が満載だった。観葉植物の鉢が天井からぶら下がり、飾り布があちこちに垂れ下がっている。ドアの隙間からかすかに漏れてくるのは、ハープの音だ。癒されるどころか、むずがゆくなってくる。
直哉の視線に気づいたのか、涼太郎が顔を上げた。慌ててその場を離れた。心臓がバクバクしている。そして、苦いものが胸にこみ上げた。
直哉の目から見ると、あの男も店の雰囲気も、分かりやすいこけおどしだ。でも、ああいう雰囲気を女性が好むのは、なんとなく察しがつく。
どうやったら、万由子の目を覚まさせることができるのだろう。
その足でバーバー・タモリに向かった。上落合から東中野に通じる生活道路沿いにある個人店である。髪を切ってもらいながら、店主の田守に話しかけた。
「マスターは、『癒し空間・涼』っていうお店を知ってる? 整体をやっているところで、早稲田通りを高田馬場のほうにちょっと行って、脇道に入ったところにあるんだけど」
理髪店の店主は、地元の店の情報に詳しい。噂の一つでも聞けるのではないかと期待したのだが、田守に心当たりはないという。
「距離は近くても、所属する商店街が違うと、付き合いがないんですよ。お客さんからも、聞いたことないですねえ」
「ああ、そうか。考えてみたら、この店のお客さんが行くような店じゃないな。女性をターゲットにしているみたいで、とにかく胡散臭いんだ。さっきチラッと外から様子を見てきたんだけど、整体師が教祖みたいな格好してるの」
「教祖?」
「神話とかに出てきそうな服を着てるんだ。髪は伸ばして後ろでしばってる」
「ずいぶん個性的ですね」
「個性というより、演出だろ。実はうちのかみさんが、スピリチュアルに傾倒している友だちの紹介でそこに通っているんだ。整形外科にしろと言っても、聞く耳持たずで弱ってる」
「腕がいいんですかね?」
「かみさんによると、神の手だそうだ。本当にそうなら、腰痛なんか一発で治せると思うんだけどねえ」
鏡の中の田守と目があった。困ったように笑っている。
「もし、本格的な整体院をお探しでしたら、この通り沿いにもありますよ。僕もたまにお世話になってます。凄腕というわけでもないけど、リーズナブルな料金ですよ」
「いや、かみさんには整形外科に行ってほしいんだ。それはそうと、マスターも、整体を受けてるの?」
「立ち仕事は、腰にきますから」
「でも、整体って本格的であっても民間療法だよね。整形外科で診てもらったほうがよくない? このへんなら立花整形外科がいいよ。骨折したとき世話になったんだけど、とても丁寧に診てくれた」
「骨折や捻挫なら整形外科がいいんでしょうけど、僕の場合、慢性の腰痛ですから。それに、病院やクリニックは予約しても待たされるでしょ。整体院は完全予約制だし、夜もやってるから行きやすいんですよ」
通いやすいのはその通りかもしれないが、医者でもない人間によく身体を任せる気になるものだ。しかし、赤の他人にそこまで言う必要はない。直哉は曖昧にうなずくと、目を閉じた。
直哉の反応を見て、田守はおもむろに話題を変えた。
「この近くにあるカミナーレというカフェをご存じですか?」
「場所は分かるけど。いい店なの?」
「コーヒーが美味しいし、夜は軽く飲めます。それと、火、木、土の午後に『お医者くんのカフェタイム』というのをやっていて、カウンターの中にいる医者が、医療や健康にまつわる相談に乗ってくれるんです。実は先月、妻と息子がお世話になりまして」
妻が息子を甲殻類アレルギーだと決めつけ、エビやカニを食べるのを禁じた。息子はそんなはずはないと言って譲らず、家の中が険悪な空気になった。
「お客さんから、いい医者だと聞いていたので、行ってみろと妻に勧めてみたんです。結果的に大正解でした。息子は、アレルギー専門の医療機関を受診して詳しく検査をしてもらった結果、甲殻類アレルギーではないと分かったし、妻も自分が息子を構いすぎだと気づいたようです。医療や健康のことは、専門的な知識を持ってる人に相談すると、すっきりするかもしれませんよ。この前、僕も店に行きましたが、偉ぶったところのない、いい人でした」
万由子の件についても、その医者に相談してみてはどうかと提案してくれているようだ。
「カフェの医者ねえ……。経歴はまともなの?」
「さあ、それは……。でも、カフェに来る前は、クリニックの雇われ院長だったそうです。名前は丸山けんた。賢いに太いという字です。店のスタッフもお客さんも、丸くんって呼んでいますが」
ずいぶん軽薄な人間のようである。頼りになるとも思えなかった。とはいえ、せっかく紹介してくれたのだ。
「ありがとう。調べてみるよ」
仕事がない火曜と木曜日の午後は、プールに行く習慣にしているが、火曜日は髪を切りに行ったので、木曜の今日こそ泳ぎに行くつもりだった。バタフライのコツをつかんだばかりである。集中的に練習したかった。
しかし、今朝、気が変わった。というのも、万由子が整体に行ったようなのだ。週に一度というハイペースで通っているのを放っておくわけにはいかない。
プール用のバッグに水着やキャップなど用具一式を詰めて家を出たものの、新宿スポーツセンターではなく、カミナーレに向かった。
昨日、丸山賢太という医師について調べてみたら、思いのほか立派な経歴の持ち主だったのだ。呼吸器内科が専門で、前にいたクリニックの肩書は院長。その前には都内の大きな病院に勤めていたこともあるようだ。そういう人物ならば、会ってみてもいい。
午後一時五十分に家を出て、二時ちょうどにカフェ・カミナーレに着いた。先客はいなかった。
カウンターの中にいたふくよかな男性が「いらっしゃいませ」と頭を下げる。年は四十前後だろうか。のんびりとした雰囲気である。伊豆大島に移住した友人の美術教師とどことなく似ていた。
「ええっと、丸山先生ですか?」
「僕の名前を知っているということは、相談があっていらっしゃったんですね。どうぞお座りください」
カウンターの中ほどの席に着き、プール用具の入ったバッグを隣の空席に置いた。
「お名前かニックネームをうかがっていいですか?」
「中村です」
「中村さん、初めまして。丸山賢太です。この店では、丸くんでお願いします」
「失礼ですが、なんでその呼び方を?」
「ここでは診察はしません。患者と医師という関係ではないので、先生と呼ばれるのは違うのではないかと」
「そういうことでしたか。僕も現役時代、同じように感じていました」
「と、おっしゃいますと?」
「理科教師だったんです。同僚や出入りの業者さんに先生と呼ばれるのに違和感があって」
「分かります。僕はあなたの先生ではないと言いたくなりますよね。まあ、余計な波風を立てるのもナンなので、同業者には先生をつけるようにしていますが」
大真面目な顔で言うのがおかしかった。
「僕も同じです」
なんだか楽しくなってきた。こういうどうでもいい話を万由子以外の人間とするのは久しぶりだ。それはともかく、そういう理由ならば、「丸山さん」でいいはずだ。
「今日は、整体と整形外科のどちらに行くべきか、という問題について丸山さんの意見をうかがいたくて来ました」
丸山は一瞬、怪訝な表情を浮かべたが、呼び名を訂正する必要はないと思ったようだ。うん、うんと二度うなずいた。
「整形外科は専門ではありませんが、分かる範囲でお答えしましょう。その前に、注文をお願いします。コーヒーがお薦めなので、三種類の豆からお好みのものを選んでください」
メニューには紅茶やソフトドリンクも載っているのに、コーヒーにしろと言わんばかりだ。押しつけがましいと思ったが、コーヒーは嫌いではなかった。メニューを読んで、浅煎りで酸味があるタイプを選ぶ。
丸山は、早速ドリップを始めた。できれば他の客がいない間に話をしたかったが、丸山の全身から「話しかけないで」というオーラが出ていた。コーヒーを薦めたくせに、ドリップが苦手なようだ。
しかたないので、用意してきたノートとペンをバッグから取り出し、丸山がコーヒーを淹れ終わるのを待った。カップが目の前に置かれるや否や、直哉は話し始めた。
「妻が腰痛持ちなんです。最近、痛みがひどくなってきたようで、友だちに紹介された整体に通い始めました。痛みが嘘みたいに消えた、神の手だとか言って喜んでいるけど、整体って民間療法ですよね。そんないい加減なものに頼るより、整形外科できちんと診てもらったほうがいいと思うんです。何度そう言っても、聞く耳を持ってくれなくて」
丸山はドリップの道具を片づけながら言った。
「奥様についてのご相談でしたか。おっしゃる通り、整体は民間療法の一種です。医者の立場としては、勧めたくないですね。僕の患者さんでも、標準治療で治る可能性が高いのに、民間療法に頼って症状を悪化させた人がいました」
やはり、そういうことは珍しくないのだ。
「失礼ですが、ご近所にお住まいですか? もしそうなら、奥様をここに連れてきてもらうのがよさそうだなあ。一度整形外科を受診するよう、僕から勧めましょう」
少し考えた後、断った。妻を説得するのは、夫である自分の役割である。ただ、今のままではうまく説明できない。そこで、「虎の巻」が欲しかった。
「整体ではなく、整形外科に行くべき理由を妻に伝えたいんです。どんなふうに話せば、分かってもらえるでしょうか?」
「ああ、なるほど。そうだなあ……」
丸山は腕を組み、目を閉じた。考えを整理しているようだ。目を開けると言った。
「まず、確認させてください。整体院、整体サロンといった場所は、病院や診療所のような医療機関ではありません。そのことを奥様はご存じでしょうか?」
「それは大丈夫だと思います。名前が『癒し空間・涼』なので」
「なるほど。でも、珍しい話ではないですよ。『院』ってついてると病院っぽいし、整体師は『先生』と呼ばれることもありますからね。でも、医療機関ではない。整体師は医師免許を持っていないので、医療行為ができない。まずは、そこを押さえる必要があります。あ、コーヒー、冷めないうちにどうぞ」
丸山に促され、ペンを置いてカップに口をつけた。酸味のある豆を選んだのに、酸味より苦味が強いような気がする。なぜだろうと思ったが、それより、話の続きが聞きたかった。直哉は尋ねた。
「医療行為といえば、投薬や手術ですよね。整体師はそれができないから、揉んだり叩いたり、骨を鳴らしたりといった、野蛮なことをするんですよね?」
丸山は困ったような顔をした。
「野蛮とまで言うのは、乱暴すぎるのではないかと……。ただ、医療行為ができないというところが、ポイントではあります。医療機関を受診するときの流れを思い出してください」
「ええっと、まずは診察を受けます。問診に答えたり、聴診器を当てられたり……。その後、必要に応じてレントゲンやMRIを撮ったり、血液検査のために採血されたり」
「はい、そこがポイントです」
「えっ?」
「画像検査や血液検査は、身体の中を『見える化』します。医師はその結果に基づいて病名をつけたり、症状の重さを判定します。そして、実は、検査も医療行為の一種なんです。血圧測定のような、誰でもできる簡単な検査は別ですが」
「ああ、なるほど」
医療と整体の違いが、一気にクリアになった。
「『見える化』の手段を持っているのが医療、そうでないのが整体なんですね」
「ええ。一番分かりやすい違いは、そこだと思います。神の手と呼ばれるような評判のいい整体師さんは、経験豊富だったり、勘がよかったりで、身体の中の様子を推測する能力が高いのかもしれません。でも、本人が『見える』と言っても、本当に見えているのか、周りの人間が確認する術はありませんよね。それに、最近の検査装置の精度はすごいですよ。経験や勘で太刀打ちできるとは思えません」
丸山の説明は、おおいに納得できた。経験や勘には限界がある。科学のほうに軍配が上がるのだ。
「実際、こんなケースもあったようです」
――本人も整体師も、よくある腰痛だと思っていた。ところが、実はがんや背骨の骨折に由来する痛みだった。
「治療開始が遅れれば、その分、治療は難しくなります。症状が悪化する場合もあるでしょう」
「実は僕の知り合いにも、まさにそういう人がおりまして……恐ろしすぎます」
「まあ、そこまでひどい勘違いが、頻繁に起きているわけではないでしょう。良識のある整体師さんであれば、少しでもおかしいと思ったら、施術を中止して医療機関を受診するように勧めるでしょうから。でも、自分の経験や勘を信じて、自己流の施術を続ける人も、いないわけではありません。そんなわけで、整形外科医の多くは、整体院に否定的な考えを持っている人が多いようです」
似たような民間療法を提供する機関には、マッサージ店や整骨院がある。マッサージ店は、あん摩マッサージ指圧師という国家資格を持つ人が、患部を押したり揉んだりして、症状の改善を図る。整骨院は、柔道整復師という国家資格を持つ人が施術をする。怪我など急性の症状であれば、健康保険が適用されるケースもあるが、医療行為は認められていない。
「民間療法を受けたいという人を止める権限は、医師にもありません。でも、今話したようなリスクがあるので、お勧めはできません。リラックス目的ならともかく、はっきりした症状があるなら、まずは医療機関に行ってほしいです」
万由子は一度整形外科に行っている。でも、要するに民間療法に頼るのは危険なのだ。
「ありがとうございます。よく分かりました。妻と話してみます」
「ええっと、差し出がましいようですが、まずはゆっくり奥様の言い分を聞くのが、説得のコツかもしれません」
「……はあ」
「この店でいろんな人と話をして、感じたんです。頭ごなしに否定すると、脊髄反射的に反発したくなるようなんですよ。もし、説得が難しいようでしたら、ぜひ奥様をこの店にご案内してください」
その必要はない。ここから先は夫婦の問題だ。
「それはそうと、いかがでしたか?」
丸山に聞かれ、直哉は首を傾げた。さっきお礼を言ったばかりである。
「ありがとうございます。とてもよく理解できました」
「そうではなくて、コーヒーのお味は?」
「ああ、そっちでしたか。メニューを読んで想像したのとは違っていたけど、美味しいと思いますよ」
褒めたつもりだったが、丸山は複雑な表情だった。