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カワハギの船釣りは「一つテンヤ」以上にスリリングでゲーム性が高かった。餌を取られるばかりの舜の隣で、広岡は次々とカワハギを釣り上げた。
舜は最終的に五枚で終わった。船に乗っていた十五人の中で一番少ない。ちなみに、カワハギのように平たい魚は、「一枚、二枚」と数えるそうだ。
その日は、そこそこ潮がよかったようで、十枚以上の「ツ抜け」ができなかったのは、舜だけだった。数える際、「十」以上は「つ」がつかないので、そう呼ぶそうだ。釣果が船中最高の「竿頭」は広岡で二十八枚だった。小型のワッペンサイズはリリースしていたので、その一・五倍はたぶん釣っている。
広岡が、「家内と二人では食べきれないから」と言って、釣果の半分を譲ってくれた。
前回と同様、電車で帰路に就いた。この前もそうだったが、この時間の京浜急行は、釣行帰りの人がポツポツいる。新品のクーラーが、なんとなく気恥ずかしかった。歴戦の猛者のクーラーは傷がついているのはもちろん、有名な船宿のステッカーや、一定サイズ以上の魚を釣ったときにもらえるステッカーが燦然と輝いている。
手は、今日もちょっとかぶれた。やはり海水が原因だと思う。下船後、真水でよく洗ってハンドクリームを塗ったから、今はもう痒くない。
自宅に近づくに連れて、心が重くなった。母とは、検査結果を見せた夜以来、ろくに口を利いていない。
父には、一人暮らしをするために、部屋を探しており、年内に引っ越す予定だと伝えた。父は、一瞬複雑な表情を浮かべたが、すぐに「そうか。しっかりやれ」と言って、背中を叩いてくれた。父を通じて母にも伝わっているはずだが、母は何も言わない。ひたすら、舜を避けるようにしている。
自分が悪いわけではないと思う。でも、そんな母を見ていると、罪悪感がこみ上げてくる。実際、母は舜が悪いと思っているはずだ。でも、ここで怯んだり弱腰になったりしたら、いつまで経っても自立できない。
それはそうと、カワハギを捌けるか心配だ。この状況で、母に頼むわけにはいかないから、自分でやるしかない。
捌き方は動画で予習した。皮は引っ張れば簡単にむけるようだ。その性質が、カワハギという魚名の由来にもなっているという。目の後ろあたりに切れ込みを入れて、頭をちぎり取るのがうまく捌くコツらしいが、うまくいくかどうか。
父には、今日の釣行を伝えてあった。カワハギの肝醤油が絶品らしいと話したら、とても楽しみにしているようで、「何時ごろ家に着くのか?」と、さっきメッセージアプリで問い合わせてきたので、おおよその到着予定時間を返信しておいた。前回と同様、午後五時前後である。
できれば、母も一緒に食卓に着いてくれるといいのだが……。喧嘩別れのような形で、実家を出たくはなかった。
舜はスマホを取り出した。動画を見て、捌き方をおさらいしておこう。
東中野駅に着くと、ずっしり重いカートを引いて自宅に向かった。カフェ・カミナーレの近くまで来たときだ。舜は思わず足を止めた。
丸山が店の前に立っていたのだ。舜と目が合うと、嬉しそうに笑った。
「シュンさん、寄って行ってください。この前の話の続きをさせてもらいたいんです」
「結構です。僕の問題は解決したし、ご覧のとおり、釣り帰りで疲れているんです」
「お疲れのところ申し訳ありません。でも、ショウコさんも、自分が中途半端に情報を提供してしまったことを、悔やんでいます。彼女にも頼まれているので、ぜひお話しさせてください」
「はあ……」
それにしても、なぜ丸山は、自分がこの時間に通りかかることを知っているのだろう。
不思議に思いながら店の中をのぞいて、言葉を失った。カウンター席に、母が座っており、こっちを見ていたのだ。今日は、バリスタの女性もいた。淡々とした様子で、コーヒーカップをクロスで磨いている。
「丸山さん、これはどういう……」
「火曜日に、お母さんが僕のカフェタイムにいらっしゃって、相談を受けたんです。今日、釣りの帰りにここを通るはずだと言うので、待っていました」
父を通じて、到着時間を確認したようだ。そこまでお膳立てをされているのに、突っぱねるのも大人げないような気がした。
それに、いつまでも母と冷戦を続けるわけにはいかない。話し合うなら、赤の他人がいたほうが、お互い感情的にならずにすみそうだ。
「わかりました」
「ありがとうごさいます。あと、僕は謝らなければなりません。シュンさんから相談を受けたことは、お母さんには言っていません。守秘義務がありますから。でも、話の流れで、お母さんは察してしまったようで……」
「いいですよ。カフェなんだから、そのぐらいのことはあるでしょう」
半ば投げやりな気分で、舜は言った。
舜は、クーラーとカートは、テーブル席の壁際に置かせてもらった。母は、両手でカップを抱え、飲み物を味わっている。バリスタのめぐみは我関せずといった感じで、カップを磨く作業を続けていた。
微妙な空気だなと思いながら、席を一つ挟んで母の隣に座ろうとしたら、丸山に制止された。
「その前にちょっと……。今日は、手はどうでしたか?」
「かぶれたけど、たいしたことはなかったです。やっぱり原因は海水なんですよ。エビとカニは、アレルギー検査で陰性だったし」
「今日の餌は?」
「アサリのむき身です。カワハギを釣ってきたので」
「なるほど。じゃあ、ちょっと確認してみましょうか。蒼空くん、例のものを頼む」
何を確認するのだろうと思っていたら、厨房からシュッとしたイケメンが現れた。手に大きなボウルを持っている。中には、殻付きの有頭エビが入っていた。
「丸くん、一匹でよかったですか?」
「十分だ。トイレの洗面台に置いてもらえるかな」
蒼空は軽くうなずき、ボウルを持ってトイレに入った。手ぶらで出てくると、厨房へ戻る。
丸山は舜に向き直った。
「シュンさんにエビをむいてほしいんです。痒くなったら、すぐに石鹸で手を洗ってください。こんなテストを専門医でもない僕がするのは、本当はよくないんです。なので、もちろんやりたくなければ、ノーと言ってください」
「いや、構いませんよ。郵送で受けた検査の結果は陰性だったので、普通に食べてるし。それに、来月オキアミを使う五目釣りに行くんです。そのとき、どうせ触ります」
そう言うと、トイレに入った。面倒なことは、さっさとすませてしまったほうがいい。
ボウルの中でエビの頭をちぎり取った。脚をちぎり取り、皮をむいていく。
あれっと思ったら、次の瞬間、チリチリとした痒みが両手の指に生じた。船上で感じた痒みより、かなりはっきりした痒みだ。
エビをむくのを途中でやめ、石鹸で手を洗った。冷たい水をしばらくかけていると痒みは治まったが、赤みは引かなかった。
アレルギー検査では陰性だったのに、いったいこれは……。
ボウルに触るのも怖かったので、舜は手ぶらでトイレを出た。
めぐみが淹れてくれたコーヒーは、こっくりした舌触りだった。とても贅沢な気分になる。しかし、同時に不安が胸に押し寄せた。甲殻類アレルギーだったらどうしよう……。
丸山がゆっくり切り出した。
「エビに触ったら、反応が出たということは、やはり何か問題があるのかもしれません」
「でも、僕が受けたアレルギー検査では、エビもカニも陰性でした」
「だからといって、問題がないとは言えないのが、難しいところなんです。血液を利用する一般的なアレルギー検査では、被験者がアレルギーの原因物質に反応する抗体を持っているかどうか調べます。シュンさんは、エビやカニに反応する抗体は持っていなかった」
「ええ。ですから、アレルギーではないですよね?」
「そうと決まったわけではありません。抗体の有無だけでは説明ができないアレルギーも存在するんです。抗体がなくてもアレルギーの人が世の中にはいます。検査の精度の問題で、正確に判定が出ない場合もある」
舜は思わず眉を寄せた。
「もしそうなら、検査なんて意味がないのでは?」
「そんなことはありません。検査はアレルギーかどうかを判断する材料の一つです。逆に言うと、判断材料の一つでしかない、と言えます」
ようやくわかってきた。検査一つでは、結論が出ないのだ。
「シュンさんの場合は、症状が出たという事実もあります。検査が陰性だったからと楽観視せずに、専門医の判断を仰ぐのが安心でしょう」
それはわかった。でも、そうなると心配だ。エビやカニを食べられなくなる可能性があるのだろうか。
よほど落ち込んだ様子だったのだろう。丸山が、舜を勇気づけるように微笑んだ。
「アレルギーと決まったわけでもないですよ。たとえば、原因物質に触れると肌が刺激されて、かぶれる場合があります。刺激性接触皮膚炎と言うんですが、その可能性もあるわけで……。いずれにしても、専門医と相談して、適切な検査を受けることをお勧めします。アレルギーの専門医がいるクリニックがお薦めです」
医者に行くのは気が重いが、ここまで聞いてしまったら、行くしかなさそうだ。
丸山は続けた。
「最近、手軽さをウリにした企業の検査サービスって多いですよね。全否定はしません。でも、気軽に受けて、病気についてわかった気になるのは、危険だと思います。検査結果は、解釈が必要です。他の検査の結果、患者さん自身の訴えなどを総合的に考えて、何が問題なのか導き出す。それが医師の仕事です。そのあたりのことを、前回、お伝えしたかったのに、うまくいかなくて申し訳ありません。お母さんが、相談にお見えになって、本当に助かりました」
軽く会釈をする母を横目で見ながら思った。母は、ここまで一言も発していない。
「お母さん、ごめん。今回は、心配性がすぎたというわけでもなかったね。お母さんの提案が正解だ」
母は目を伏せたまま、微笑んだ。
「そうでもないよ。丸くんに聞いたんだけど、原因物質をとりすぎると、水がコップから溢れるようにアレルギーが発症するっていう考えかたは、古いんだって。一グラムたりとも取ってはいけないって思ってたけど、今は、シーソー理論が主流みたい」
「なに、それ?」
「アレルギー物質を避けるのも大事だけど、発症は免疫力とのバランスで決まるから、栄養や食事なんかも大事なんだって」
「へえ、そういうものなんだ」
「それと、私も謝らなきゃ。舜ちゃんにガミガミ言いすぎてるのは、自分でもわかってるのよ。お父さんにも、散々言われてるし。でも、気になって気になってしようがなかったものだから……。お父さんの勧めでここに来てよかったわ。丸くんやめぐみさんに話を聞いてもらって、ようやくわかったの。これは自分の問題だって」
「どういうこと?」
母は首を傾げただけで、答えてはくれなかった。
「それより、いい部屋はみつかった?」
「まだなんだ。家賃がどこも高くてね」
母は、舜が実家を出るのに反対ではないようだ。
厨房から、蒼空が出てきた。
「外の看板、そろそろしまったほうがよくないですか。六時からバー営業が始まるんで」
「あっ、そうね」
めぐみが慌てた様子で外に出て行った。落ち着いた雰囲気の上品な人だが、案外そそっかしいところもあるようだ。
蒼空が舜を見た。
「それと、さっきから気になってたんですが、カワハギ釣ってきたんですか?」
「あ、はい」
「大漁だったりします?」
「僕は五枚だったけど、同行者に譲ってもらったから、二十枚近くあるかな」
「肝醤油、めちゃくちゃ美味いですよね」
遠慮がちな口調なのに、物欲しげな目をしているので、笑ってしまった。
「おすそ分け、しましょうか」
蒼空の目が輝いた。
「マジっすか? なんなら、僕がぜんぶ捌きますよ。小料理屋でバイトしてたときに扱ってたんで得意です」
店に戻ってきためぐみが言った。
「臭ったら困るから、換気扇を強で回してね。フードは私が担当するから、丸くん、残ってドリンクをやってくれる?」
「えっ、ああ、はい。コーヒー以外なら」
めぐみは、舜に尋ねた。
「おすそ分けしていただくカワハギは、希望するお客さんにお通しで出してもいいですか?」
「もちろんです」
「よかった。じゃあ、そうしましょう。お客さん、びっくりしそうだけど、せっかくだものね。ただ、一つ問題があって、魚用の包丁がないのよね。蒼空くん、牛刀で大丈夫?」
「うーん、捌くのは牛刀でいいけど、薄造りにしたいんで、刺身包丁はほしいところです」
舜は椅子から下りた。
「ウチから持ってきます。すぐそこなので。それと、せっかくだから僕たちも、ここでカワハギをいただいてもいいですか?」
めぐみがうなずく。
「ぜひ、そうしてください」
「楽しみだわ。お父さんも呼んできて」
母が嬉しそうに言った。
自宅に戻ると、店じまいをした父が、階段を上っているところだった。追いついて、一緒に自宅に入った。
「お父さん、いろいろ心配かけたね。母さんとも話した。それで、この後、お母さんも一緒にカミナーレでカワハギを食べることになったんだ。お店のスタッフが捌いてくれるんだって」
父は困惑したように目を瞬いた。
「話が見えないんだが」
「行けばわかるよ。着替えたらカミナーレに行って。俺は包丁を取りに来たんだ」
その前に父に確かめたいことがあった。三階の自室に行こうとしている父を引き留めた。
「お母さん、何か問題を抱えているの? そんな話をさっきしていたものだから」
父は振り返ると、穏やかに笑った。
「お母さんが、話したくなったら話すんじゃないか?」
それもそうだと思いながら、舜はキッチンに入った。