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 カミナーレでの用事が思ったより早く済んだので、プールでひと泳ぎした。一心不乱にバタフライに取り組んだせいか、右肘に軽い違和感があった。

 帰宅後、いつものように向かい合って万由子の作った夕食を食べた後、直哉は食器洗いを買って出た。と言っても、ざっと洗って食洗器にセットしただけだが。

 その後、電気ポットでお湯を沸かして、二人分の緑茶を淹れた。ソファに座ってテレビを見ていた万由子の前のテーブルに湯呑を置く。

「あら、ありがとう」

 直哉は万由子の隣に座った。

「ちょっといいかな。話があるんだ」

 万由子は、驚いたように直哉を見た。まつ毛の先が不安そうに震えている。直哉はテーブルに置いてあったリモコンを取り上げてテレビを消した。

 万由子は、唾を飲みこむように喉を動かすと言った。

「いったい何?」

「うん。整体の件なんだけど……」

 万由子の表情から緊張が消えた。呆れたようにため息をつく。

「またその話? 前にも言ったでしょ。整体が気に入ってるの」

「でも、危険なんだぞ」

 丸山から聞いた話をしようとする直哉を万由子は激しい口調で遮った。

「自分の身体のことは、自分が一番よく分かってる」

 あまりの剣幕に戸惑った。喧嘩は何度もしてきたが、万由子が怒りをここまで露わにしたことはなかった。

 戸惑いはすぐに情けなさに変わった。

「胡散臭い整体師や、晴代さんのほうが、僕より信用できるのか?」

「逆に聞きたいわ。なんで信用しちゃいけないの? 他にもお客さんがたくさんいて、予約を取るのが大変なのよ。人気があるのは、実力がある証拠」

「整体師は医者じゃない。検査も診断もできないんだ。経験や勘を頼りに、人の身体をいじっているだけだ。一時的に痛みが和らぐこともあるんだろう。でも、見当違いなことをして、症状を悪化させる場合もある。実際、がんや骨折を見落とされて、手遅れになった人もいるってその医者も言ってる。そんな危険な施術を受けさせるわけにはいかない。いい加減に目を覚ましてくれ。神の手なんて、この世に存在しないんだ」

 万由子は怯まなかった。

「整体師もピンキリなんでしょ。涼先生は本物。晴代さんもそう言ってた。整形外科なんかじゃ治らない痛みをとってくれる」

 何を言っても聞いてくれる気がしなかった。

「実は、今日、医者と話をしたんだ。カフェで健康や医療にまつわる相談を受けている人なんだけど、その医者も、整体より整形外科がいいと言ってた。一度、万由子も会ってみないか?」

「あなたの指図は受けません」

「いい加減にしないか!」

 思わず声を荒らげた。万由子は反射的に身をすくませたが、すぐに顔を上げ、冷ややかな目で直哉を見た。

「私たち、いい年よね。長生きしてもあと二、三十年ってとこかしら。これまでのことは感謝してる。でも、この先は自由にさせて。あなたも自由にどうぞ」

 なんだか不穏な雰囲気である。

「何を訳の分からないことを……」

 万由子は硬い表情のまま席を立った。

「今日から、書斎で寝てください。後で布団、運んでおくから」

 啞然とするほかなかった。直哉は、ソファの背もたれに身体を預け、天井を仰いだ。

 

3

 

 次の週の火曜の午後も、直哉は丸山に会うためにカミナーレに足を運んだ。

 今日も開店と同時に来たせいか、客は他にいなかったが、丸山の隣にすらりとした中年女性が立っていた。グレーがかった髪が上品な雰囲気の人である。コーヒーも今日は彼女が淹れてくれた。前回と違う豆を選んだせいか、抜群に美味しかった。

 コーヒーを飲みながら、直哉は切り出した。

「お恥ずかしながら、どうしたらいいのか分からなくて」

 情けない話だが、今の直哉には丸山以外に相談できる相手がいなかった。

 前回のアドバイスを踏まえ、万由子の説得を試みたが失敗したと打ち明ける。

「口も利いてくれないような状態なんです」

 万由子は食事の支度や洗濯はするものの、それ以外の時間は寝室に引きこもっている。食事の時間も直哉とずらしていた。家庭内別居とは、こういう状態を指すのだろう。

 しかし、万由子の態度は落ち着いたものだった。これまでと変わらず、趣味の絵画教室に通ったり、晴代と二人でウォーキングに行ったりしている。整体にも通っているようだ。

「奥様に、ここに来てもらうのが難しいのであれば、僕がお宅にうかがいましょうか。その場合、個別相談料をいただくことになりますが」

 少し考えて首を横に振った。

「妻は、部屋から出てこないと思います」

「そうですか……。うーん、どうしよう。例えば偶然を装って外で会うことはできませんか?」

 そういうことなら、ウォーキングのタイミングを狙うのがよさそうだ。そのとき気づいた。この騒動の元凶は晴代だ。今からでも遅くない。万由子を晴代から引き離すべきだ。そうすれば直哉の言葉に耳を傾けるようになるのではないか。万由子は、もともと素直な性格なのだ。

「妻は友だちと川沿いをウォーキングしているんです。そのときにお願いできますか?」

「ご友人が一緒のときで大丈夫ですか?」

「むしろ、好都合です。その人が妻に整体を勧めたんです。オカルト好きのおかしな人なんですよ。ピラミッドパワーで空気を浄化できると信じているような。妻は彼女の影響を受けています。彼女の目の前で、神の手なんかいないとはっきり言ってやってください」

「うーん、それはどうでしょう。僕はオカルトについて詳しくないので、ピラミッドパワーについて議論を挑まれたら負けてしまうかも」

「ええ?」

 医者なのだからバリバリの理系のはずなのに、情けないことを言うものだ。

 それまで黙っていた女性が口を開いた。

「この店の責任者で、水島めぐみと申します。中村さんにうかがってもいいですか?」

「ああ、はい」

「奥様は、なぜその整体師にそこまで惹かれているんでしょう」

「一時的な効果はあるんじゃないですか。気分的なものかもしれない。どっちにせよ、騙されているんです」

「たとえ一時的であっても、楽になったら嬉しいでしょうね。それを騙されていると言うのは違うんじゃないですか?」

 ちょっと驚いた。優しそうな見かけによらず、はっきりものを言う人のようだ。でも、同意はできなかった。直哉は、曖昧に首を振った。

 水島は丸山に向き直った。

「それと、これは丸くんに聞きたいわ。整形外科の先生が、整体やマッサージといった民間療法に否定的な考えをお持ちなのは、分かりました。確かに、症状が悪化したり、治療の機会を逸したりしたら怖いわよね。でも、整体院やマッサージ店、整骨院って、世の中にたくさんあるでしょ。うちの前の通りにだって、何軒かあったはず。お医者さんたちから見たら、医学的根拠に乏しくてお勧めできないのかもしれない。でも、ニーズがあるのは確かだわ。それはなぜ?」

「一時的であっても痛みが和らぐから、でしょうか。確かに、単なる肩こりや、慢性的な腰痛なら、目くじらを立てる必要はないかもしれません。でも、やっぱり僕は……」

 難しい表情で黙り込んだ丸山に代わって、直哉が答えた。

「残念ながら、科学的思考ができない人が多いんですよ。血液型占いなんていうバカバカしいものを信じる人が少なくない現状をみれば明らかです。だから、民間療法やインチキな健康法が蔓延する。まさか、自分の妻がそんなものに引っかかるとは思っていませんでしたがね」

 水島は考え込むように唇を噛んでいたが、ふっと肩の力を抜くと、低い声で言った。

「私も理科はさっぱりでした。中村さんがおっしゃるようなところがあるんでしょう。痛い目にもあいました」

 意外だった。水島は万由子と違って落ち着いた雰囲気で、人に流されるようには見えなかったのだ。

 丸山が咳ばらいをした。

「めぐみさん、その話はよしましょう。でも、めぐみさんの話を聞いてハッとしました。これまで僕は、医者の立場でどうすればいいのか考えていました。整形外科の先生たちの言葉を思い出しながら。でも、患者さんには患者さんの考えがありますよね」

 そう言うと、丸山は直哉を見た。

「奥様が通っている整体は、この近くでしたよね。もう一度名前を聞かせてください」

「癒し空間・涼ですが」

 丸山はメモを取った。

「ありがとうございます。行ってみます。そのうえで、改めて二人で作戦を考えましょう。ご連絡先をうかがってもいいですか?」

 そんなまどろっこしいことを……。直哉としては、さっさと家庭内別居を解消したかった。万が一にも、熟年離婚なんてことになったら、たまったものではない。

 昨夜も書斎で煎餅布団に寝そべり、不安に駆られた。離婚して一人暮らしになったとしても、生きてはいけるだろう。掃除洗濯は自分でできるし、食事は惣菜を買ってくればいい。それより、他愛のない話ができる相手がいなくなるのが怖かった。病気になったときも心細い。

 もちろん、夫婦はどちらかが先に死ぬ。相手に先立たれたり、独身だったりする高齢者は珍しくない。でも、それとこれとは話が別である。

 直哉は、丸山が差し出したメモ用紙に、携帯電話の番号を書いた。

 

 この日もプールに行った。身体を動かして、不安を頭から追い出したかったのだ。

 人が少なかったので、一般レーンでバタフライで泳いだ。二十五メートルを泳ぎ切ることはできるのだが、そこで一息入れないと、体力が続かない。

 疲れてきたので、そろそろ終わりにしようと思ったときだ。右の肘に鋭い痛みが走った。一昨日から違和感があったところが、本格的に痛み始めたようだ。

 泣き面に蜂とはこのことだと思いながら、直哉はプールから上がった。

 ドラッグストアに寄って湿布を買って自宅に帰った。今日も万由子は寝室に引きこもっていた。スマホで動画でも見ているのだろう。ドア越しに音楽が聞こえてくる。

 右肘の痛みはいよいよ強くなってきた。湿布を貼っても、ズキズキとする。水泳がオーバーワーク気味になっているのが原因だとは思うが、このまま様子を見ていていいものかどうか。

 そのときふと思いついた。立花整形外科に行って、治療のついでに、万由子についても相談してみるのはどうだろう。

 立花は整形外科の専門医である。自分でクリニックを経営してもいる。カフェで客の相談を受けている丸山なんかより、よほど頼りになりそうだ。

 さっそくスマホで予約を取ることにした。幸い、明後日、木曜の朝一番が空いていた。

 少し気持ちが楽になった。直哉は、洗面所で水着を洗い始めた。

 

4

 

 ノックして診察室に入ると、立花整形外科の立花院長がにこやかに迎えてくれた。半白髪をきちんと整え、清潔そうな白衣を着ている。

「どうぞおかけください。今日は……。肘の痛みですか」

 デスクのモニターを見ながら確認する。直哉が記入した問診表の内容が、電子カルテに転記されているようだ。

 ――先週から右肘に違和感がある。一昨日、バタフライで泳いでいるときに、ズキッとした。市販の湿布で様子を見たが、今も痛みが続いている。水泳がオーバーワーク気味だったのかもしれない。

「ちょっと失礼しますよ」

 立花は直哉に右腕を出すようにと言うと、肘の複数個所を慎重な手つきで触診した。

「ふむ。では、レントゲンを撮ってみましょう」

 診察室を出ると、看護師の案内でレントゲン室に向かった。撮影を終えてしばらくすると、再び診察室に呼び入れられた。

 立花は撮影したばかりのレントゲン画像をモニターに表示して見せてくれた。これが、丸山の言っていた『見える化』というものだろう。

「骨に異状はありません。関節のすり減りもない。水泳肘でしょう」

 上腕骨の下部にくっついている筋肉の腱に炎症が起こっているようだという。スポーツ障害の一種で、テニス肘の水泳版だそうだ。

「炎症が起きている場所は画像で分かりますか?」

 立花はペンのお尻で画像を差した。

「このあたりですね。でも、腱のような軟部組織は写らないんです」

「あ、なるほど」

「痛みと炎症を抑える薬を出します。二、三週間で自然によくなりますよ。当分泳ぐのは控えてください」

 的確な診断とアドバイスだと思う。万由子は、彼のどこが気に入らなかったのだろう。

「ありがとうございました。それと、別件なんですが一か月ほど前に妻の万由子が腰痛でお世話になりまして」

 立花は軽く眉を寄せた。

「すみません、ちょっと記憶にないですね。その後、いかがですか?」

「それが整体に通い始めたんです。民間療法はよくないと何度言っても、聞く耳を持ってくれなくて」

 立花が顔をしかめる。

「それはいけませんね。痛みが長びくようなら、再受診を勧めてください」

 立花は腕時計に目をやった。

「お大事に」

 どうすればいいのか相談したかったのだが、立花に話を聞く気はなさそうだ。直哉は、会釈をして診察室を出た。

 直哉がドアを閉めるのとほぼ同時に、診察室前の廊下の長椅子で待っていた患者の一人が呼ばれた。万由子と同年輩の女性だった。丸々とした体型を悪目立ちさせるようなぴったりとしたデニムのパンツをはいている。女性は、右足を軽く引きずりながら診察室に入っていった。

 直哉は会計カウンターの前の待合所に向かったが、あいにく席はほぼ埋まっていた。しかたなく診察室のほうに引き返す。診察室前の長椅子には、空席があった。そこで待とうと思ったのだ。診察室と待合所は目と鼻の先の距離なので、呼ばれたら聞こえるはずだ。

 腕をギプスで固めた中年女性の隣に座り、受付の女性に名前を呼ばれるのを待った。

 肘の痛みの原因が分かったのはよかったが、複雑な気分だった。

 立花はかんじがいい。説明も明快だった。直哉としては、何かあったら、次も彼にぜひ診てもらいたい。ただ、万由子の問題について助けの手を差し伸べてくれる気がないようだ。立花は「整体はよくない」とはっきり言ったのだ。なのに、何もする気がないのは、無責任ではないか。

 立花に対して過大な期待を抱いている、もっと言えば八つ当たりをしている自覚はあった。万由子は自分の意思で通院を止め、整体に通っている。

 そこまで分かっていても、胸の中のモヤモヤは晴れなかった。

 目を閉じると、丸山のふくよかな顔が脳裏に浮かんだ。

 要領が悪そうな医者だった。彼の診察を受けたら、回りくどさに不満を抱くかもしれない。少なくとも、立花のほうが頼りになると感じるはずだ。

 しかし、丸山は直哉を突き放さなかった。答えが見つからなくても、一緒に考えようとしてくれた。問題の店の様子も見に行ってくれるとまで言っていた。

 折りを見てもう一度、相談に行ってみようか。あるいは、電話をかけてみるか。

 そのとき、診察室のほうから、苛立った声が漏れてきた。

「なんでそんなピチピチのズボンをはいてくるんですか。前回、ゆったりしたズボンかスカートで来るように言いましたよね? そのままでは診られません。着替えの時間がもったいないでしょう」

 女性患者の返事は聞き取れなかったが、それは立花をさらに苛立たせたようだ。

「裾が引っかかるのが気になるのなら、丈を詰めればいいでしょう。それと、体重、まったく落ちていないようだけど、どういうことですか? ヒアルロン酸注射をやってほしいと言うなら、やりますよ。でも、膝の負担を減らさないと、根本的な解決にはなりません。分かります? 僕の言ってること」

 直哉は落ち着かない気持ちになった。立花は、さっきとはまるで別人である。

 隣に座っていた女性が大きなため息をついた。直哉が自分に視線を向けたのに気づいたのだろう。女性は小声で話しかけてきた。

「先生、ご機嫌斜めみたいですね」

「そのようですね。でも、意外だな。僕にはとてもかんじがよかったんです。説明も分かりやすかったし」

 女性は、薄く笑った。

「ここの先生、指示を守らなかったり、問診でモタつく患者に厳しいらしいですよ。ネットの口コミにそう書いてありました。特に女性やお年寄りから、評判がよくないみたい。どうしても、話がくどくなりがちでしょ。私もこの前、的外れな質問をするなと怒られちゃいました。知り合いから腕がいいって先生だと聞いて来たんですが、来る前に口コミをチェックすればよかったわ」

 そうだったのか……。すぐに疑念が浮かんだ。万由子もさっきの女性のように立花から罵声を浴びたのではないだろうか。万由子が自分の症状を理路整然と説明できたとは思えない。屈託のない性格だから、的外れな質問をした可能性もある。

 そういえばカフェ店主の水島に、万由子が整体に惹かれる理由は何かと尋ねられた。そのときは答えられなかった。でも、さっきの想像が当たっているなら、万由子には、立花整形外科にかかりたくない理由があったのだ。

 ひょっとして、万由子が整体にハマったのはそのためだろうか……。だとしたら、自分にも責任の一端があるのかもしれない。万由子は「立花先生は、私には合わないかも」と言っていた。なのに、まともに取り合おうとしなかった。

「中村さん、中村直哉さん」

 受付のスタッフに名前を呼ばれた。直哉は隣の女性に会釈をすると、腰を上げた。いつのまにか喉がカラカラだった。

 帰ったら、万由子に話を聞かなければ。

 

(第12回につづく)