1章 エビカニ怖い

 

 

 土曜日の午前十時過ぎ、遊漁船・鈴久丸は波しぶきを上げながら、三浦半島の東岸を沿うように東京湾を北上していた。目指すは、東京湾の入り口付近にあるこの日三つ目のポイントだ。

 情報システム会社の営業部員、田守舜は右舷中央付近の甲板のベンチに座り、缶コーヒーを飲みながら、眺めを楽しんでいた。船釣りは今日が初めてだ。釣果は今のところゼロだが、景色を見ているだけでのびやかな気持ちになる。

 波はやや高いが、見事な秋晴れだった。このあたりは、国内有数の海上交通の要所である。大型タンカーや自衛隊の艦船がゆったりと行き交う。海原の向こうには、房総半島のなだらかな山並みが広がり、視線を上げると、羽田空港へ向かう機影が目に入る。

 これまで舜にとって海といえば、太平洋だった。母方の祖母が紀伊半島の海辺に住んでおり、夏休みに遊びに行っていたのだ。

 東京湾には太平洋のような荒々しさはない。自然より人工物のほうが目立つぐらいだが、東京育ちの舜には、こちらの海のほうが親しみを覚える。

 一メートルほど離れた座席では、広岡勉が小太りの身体を丸めるようにして魚肉ソーセージをかじっていた。

 広岡は、墨田区にある金型メーカー、広岡精工の社長だ。最近、舜の会社に生産管理システムを発注してくれた。社長室で打ち合わせをした際、魚拓が何枚も飾ってあったので、「すごいですね。僕も釣り、やってみたいんです」と言ったら、「ぜひ行きましょう」とハイテンションで誘われた。今の時期は、エビで鯛を釣る昔ながらのシンプルな釣法、「一つテンヤ」で真鯛を狙うのがお勧めだそうだ。ロッドはもちろん、クーラーボックスやライフジャケットなど必要なものはすべて貸してくれるという。

 釣りに興味があるのは本当だ。しかし、広岡の行きつけだという横浜の金沢漁港の船宿を目指して、始発電車に乗り込んだときには、御愛想を口にしたのを悔やんだ。仕事ならともかく、遊びで午前四時台の電車に乗るなんて、正気の沙汰ではない。でも、この景色を見られただけでも、来てよかったと今は思う。

 広岡は少し前にはイカの燻製を食べていた。舜の両親と同年輩なのに、二十七歳の舜より食欲旺盛だ。ちなみに魚ソーもイカ燻も釣り餌代わりに使えるので、釣行にうってつけの行動食だそうだ。

 広岡が食べ終えるのを待って、声をかけた。

「お誘い、ありがとうございました。海の上って最高ですね。房総半島が意外に近くてびっくりしました」

 広岡は人の好さそうな笑顔でうなずいた。大手釣り具メーカーのロゴが入ったキャップをかぶり直すと言った。

「このあたりは湾の幅が十キロもない。その分、潮の流れが速くて海底も起伏に富んでる。真鯛の絶好のポイントなんだ。次のポイントでは、田守さんもきっとヒットするよ」

「だといいんですけどね。僕、実家に住んでるんですが、鯛は母の好物なんです。昨日、出刃包丁と刺身包丁を引っ張り出して研いでました」

「お母さん、すごいじゃない。今どき、鯛をさばける人は珍しいよ」

「今は専業主婦ですが、少し前まで某企業の社食で調理士をやってたんです。和歌山の海辺出身でもあるので」

「ああ、それで。あのあたりの鯛は旨いんだ。でも、東京湾のも美味しいよ。ぜひ釣ってお母さんに食べてもらおう。ところで、当たりは来てるよね?」

「はい、たぶん」

 魚が餌を触っているような感触は何度かあった。そのたび逃げられた。

「合わせるタイミングが悪いんですかね?」

「それもあるけど、餌のつけかたに問題があるのかもしれない。エビ、新しいのをつけてみようか」

 レクチャーしてくれるようだ。舜は船べりの下の棚に置いてあったテンヤを手に取った。

 テンヤとは、重りと針が一体化した仕掛けである。針の部分に八センチほどのエビをつけて海中に落とす。ロッドを動かし、エビが泳いでいるように見せかけ、鯛を食いつかせるのが東京湾の「一つテンヤ」だ。

 餌箱から頭付きのエビを取り出していると、広岡が言った。

「手袋をはずしてやってみなよ。手が汚れたら、バケツで海水汲んで洗えばいい」

 確かに素手だと、細かい作業が断然楽だ。さっきより、ビシッと針につけられた気がする。

 エンジンの音が変わり、船がスピードを落とした。目指すポイントは近いようだ。右舷、左舷合わせて二十人ほどの釣り人たちが、ベンチから次々と腰を上げる。舜も立ち上がり、船べりのホルダーに立てておいたロッドを手に取った。

 操舵室の船長が、拡声器を通じてだみ声を張り上げる。

「はい、どうぞー!」

 舜は、他の釣り人たちに負けじとテンヤを海に投入した。

 ロッドの先から垂れる糸がフワッと緩んだ。テンヤが海底に着いたのだ。リールを巻いて糸のたるみを取り、ロッドの先を海面と平行になるまで持ち上げたそのときだ。コツコツというかすかな感触が伝わってきた。すぐにゴツンという感触があった。もしやこれは……。

「来てるよ、合わせて!」

 広岡に言われ、竿先をぐっと持ち上げる。糸の先で魚が暴れているのがはっきりと分かった。思いのほか強い力である。気を抜いたらロッドを持っていかれそうだ。リールを巻こうとしても、ハンドルが動かない。

「田守さん、落ち着いて。魚の動きには波がある。引きが弱まったタイミングで巻くんだ」

「はいっ!」

 引きがフッと弱くなったら、すかさずリールを巻く。魚が暴れているときはひたすら耐える。何度か繰り返しているうちに、要領が分かってきた。腕が疲れてきた頃、ようやく赤い魚が海面付近まで上がってきた。

「よーし、そのまま」

 広岡が、長い柄のついた網を海中に差し入れ、魚をすくい上げた。同時に、ロッドにかかっていた重さが消える。

 舜は肩で息をしながら、甲板ではねている赤い魚を眺めた。こんなに大きくて美しい魚を見るのは初めてだ。自分はこいつと戦って勝ったのだと思ったら、誇らしい気持ちがこみ上げてきた。

 広岡は魚から針をはずし、口元をフィッシュグリップでつかんで持ち上げる。

「二・五キロ、五十センチってところかな。標準よりも大きくて立派な良型だ」

「目の上が青いんですね。アイシャドウみたいだ」

「新鮮で美味しい天然真鯛の目印だよ。僕が締めて血抜きをしておくから、田守さんは餌をつけて。まだ時間はあるから、どんどん釣ろう。お母さんをびっくりさせてやれ」

「ありがとうございます」

 なんだか手が痒いなと思いながら、舜は餌箱からエビをもう一本取り出した。

 

 その日の釣果は、最初に釣った鯛のほか、一キロ弱の鯛、良型のカサゴ、メバル各一匹だった。初めての船釣りにしては上出来だろう。船宿でクーラーの中身の写真を撮って母に送ったら、驚いた表情のウサギのスタンプの連打が返ってきた。

 車で自宅まで送るという広岡の申し出を固辞した。今日はプライベートの付き合いだが、取引先の社長にそこまでしてもらうわけにはいかない。クーラーとキャリーカートは、後日、広岡の会社に持参して返却することにして、京浜急行で帰路に就いた。

 夕方の上り電車は、比較的空いていた。やれやれと思いながら、赤くなっている両手の指を見た。どうやら、海水にかぶれてしまったようなのだ。広岡によると、よくある現象だという。

 船宿の洗い場で真水でよく洗ったのがよかったのか、痒みはかなり和らいだが、じっとしていると気になる。

 気をそらすために、スマホを取り出し、広岡に教えてもらった釣り愛好家向けの情報サイトを検索する。今日は、本当に楽しかった。ぜひ、また行きたいし、道具もいくつか揃えたい。

 サイトはすぐに見つかったが、読み始めてすぐに強烈な眠気が襲ってきた。キャリーカートの持ち手を握ったまま、舜は眠りに落ちた。

 

 山手線と総武線を乗り継いで自宅がある東中野駅に着いたのは、午後五時少し前だった。視界や足元がふらつくのは、船に乗っていたときの感覚が残っているからのようだ。舜は慎重な足取りで、上落合方面に向かって延びる生活道路を歩き始めた。

 舜の父、滋が営む理容室、「バーバータモリ」はこの通り沿いにある。二十年ほど前、理容師だった祖父が亡くなったのを機に、別の店で働いていた父が建て替えて店を継いだ。

 この辺りは、新宿に近い。場所によっては西新宿の高層ビル街が見えるのに、のどかな雰囲気である。

 少し先にあるカフェ、「カミナーレ」から、マドラスチェックの半袖シャツにカフェエプロンをつけた丸っこい体形の男性が出てきた。立て看板を畳もうとしているが、留め具が固いのか、うまくいかないようで、歩道にしゃがみこんでしまった。

 どんくさい人だな、さっさとどいてくれと思いながら、足を止めた。見るともなく看板を見る。

 ――お医者くんのカフェタイム。火、木、土、14時~17時。お好きなドリンク(1500円)を楽しみながら、カウンターの中にいる「お医者くん」と健康管理や気になる症状について、お話ししませんか? お医者くんは、医師免許を持っている医師です。健康に関するよもやま話はもちろん、簡単な質問ならその場でお答えできます。個別相談をご希望の方には、後日別料金で対応します。詳しくは店主またはお医者くんにお尋ねください。

 この店には何度か入ったことがある。上品な雰囲気の女性バリスタが入れてくれるコーヒーが美味しいのだ。でも、このカフェタイムについては知らなかった。

 男性が弾かれたように立ち上がった。

「あっ、すみません。道をふさいじゃって。どうぞ、どうぞ」

 軽く会釈をして、通してもらった。

 父の店の前には、お客さんのものと思われる自転車が二台停まっていた。商売繁盛で何よりだと思いながら、舜は店の入り口の右手にある階段を上り始めた。店の二階と三階が、自宅になっている。

 階段は、この日最後の難関だった。クーラーがとにかく重いのだ。船上では、クーラーに海水と氷を入れて魚をキンキンに冷やしていた。海水は船宿であらかた捨てたので、クーラーに入っているのはビニール袋に入れた魚四匹と氷だけだが、カートの重さもあるから、十数キロはあるはずだ。

 どうにか運び上げて玄関の鍵を開ける。中に入ると、キッチンのほうから、フリルつきのエプロンを着用した母の容子が、満面に笑みを浮かべてやってきた。

「真鯛様ご一行、お待ちしておりました!」

 節をつけて言うので、舜は思わず苦笑してしまった。

「クーラーボックス、どこに置こうか」

「キッチンに運んで。床に新聞紙を敷いておいたから」

「了解」

 カートからクーラーを下ろした。キッチンへ運んで開き、一番大きな鯛が入ったビニール袋を母に手渡した。母はシンクの中で袋を広げた。鯛の尻尾のほうを掴んで持ち上げると、感嘆の声を上げる。

「わっ、すごい。優勝したお相撲さんが持ってる鯛みたい」

「何を作ってくれるの?」

「三枚に下ろして半身はお刺身、半身は塩焼き。兜とアラで鯛飯。そんなところでどう?」

「揚げ物もお願い。連れて行ってくれた釣りマニアの社長によると、釣ったその日の揚げ物は、フワフワで絶品らしいんだ。カサゴの唐揚げが特にお薦めだって。なんなら、俺も手伝う」

「揚げ物はカロリーがねえ……。でも、まあ、たまにはいいか。じゃあ、鯛の塩焼きは明日にして、カサゴの唐揚げと鯛の天ぷらにしよう」

「完璧です」

「手伝い、よろしくね。その前にシャワーを浴びてサッパリしておいで」

 母は張り切った様子で、鱗引きを手に取った。

 

 シャワーの後、Tシャツと短パンに着替えてキッチンに戻った。キッチンと続きになっているダイニングのテーブルに新聞紙が広げられ、解体された鯛がキッチンペーパーに載せて置いてあった。母は、調理台でカサゴと格闘している。

「うまいもんだね」

 得意そうに鼻をひくつかせると、母はテキパキと指示を出した。

「シンクの中でもう一匹の鯛とメバルの鱗を取ってくれる?。鱗引きでガサガサやるだけだから簡単よ」

「分かった」

 魚をシンクに移して、鱗引きで鱗をかき落とした。なんとなく手が痒いのは、クーラーに手を突っ込んだ時、海水が混じった氷に触れたせいだろう。

 鱗を引き終えると、シンクに散らばった鱗を片づけ、母が用意した大きなバットに魚を入れた。クーラーを持ち上げて傾け、シンクに氷を捨てる。痒みがだんだん強くなってきた。赤く腫れてきたようだ。

 氷を捨て終え、クーラーを床の新聞紙の上に戻した。シンクの前で両手を広げてチェックしていると、母が声をかけてきた。

「その手、どうしたの?」

「海水にかぶれたみたい」

 母は懐疑的な様子だった。

「去年、海にバーベキューに行ってたよね?」

 そう言えばそうだ。バーベキューの前に軽く泳いだが、特に問題はなかった。まあ、釣りで手が腫れる原因なんて、いくらでもあるだろう。

 母がシンクの中に手を伸ばした。氷の間に挟まっていたエビの切れ端を摘まみ上げる。魚がかじったものが、クーラーに紛れ込んでいたようだ。

「これ、餌だよね。素手で触った?」

「ああ、うん」

「だとすると、コウカクルイアレルギーかもしれない」

「コウカクルイ?」

「エビやカニのこと。同僚に、そういう人がいたのよ。エビやカニに素手で触ると、手が腫れるんだって。もちろん、食べるのもダメ」

「うわっ、気の毒だなあ」

「他人事じゃないでしょ。舜ちゃんも、もしかしたら……」

「それはない。これまで散々食べてきたけど、なんともないもの」

 先週だって、会社帰りに同僚と行った居酒屋で川エビの唐揚げを食べた。昨日のランチは、中華料理店のエビチリ定食だ。エビやカニは、舜の好物なのだ。

 しかし、母は深刻な表情だった。

「これまで何もなかったから、大丈夫とは言えないわ。アレルギーって、原因になる物質を摂取し続けて、あるところで限界を超えたら、発症するって聞くよ。コップから水が溢れるイメージだって」

「花粉症のヤツがそんなことを言ってたな。でも、じゃあなに? 俺にエビやカニを食べるなって言うの?」

 母は、重々しくうなずいた。

「前の勤め先ではエビ、カニ、小麦、そば粉なんかを使うときには、メニューにしっかり表示してた。気づかないで口にしたら、命に関わるらしいよ」

「それは大変だね。でも、俺の場合、そういうことじゃないから」

 エビを食べて体調を崩したのであれば、舜だってアレルギーを疑うし、場合によっては食べるのを諦める。でも、たった一度手が腫れたぐらいで、エビもカニも食べてはいけないなんて、過剰反応にもほどがある。そもそも、原因がエビと決まったわけでもない。

「でも……」

 なおも言い募ろうとする母を舜は遮った。

「大丈夫だから」

 母がジトっとした目で自分を見ているのに気づき、舜は心の中でため息を吐いた。

 母は朗らかな性格なのに、舜の健康に関してだけはなぜか神経質だった。そして、母の「心配スイッチ」が入ってしまうと、何かと面倒くさいのだ。

「じゃあ、こうしよう。今後、食べて何かあったら、病院に行ってアレルギーの検査を受ける。それで決まりだ」

 強引に話を切り上げると、手を石鹸で洗った。

 玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたのだ。

 一日の仕事を終えた父は疲れた様子だったが、キッチンに入ってくるなり、嬉しそうな声を上げた。

「こりゃあ、美味そうだ。日本酒の買い置きってあったっけ?」

 母が首を横に振る。

「ビールしかない」

 舜は床に置いたクーラーを再び持ち上げた。

「俺も今日は日本酒が飲みたいな。これを洗ったら、酒屋さんに行ってくるよ。鯛の刺身には純米吟醸が合うんだって。お父さんも、それでいい?」

「もちろんだ。じゃあ、着替えてくる」

 父は上機嫌でキッチンから出て行った。

 硬い表情で包丁を手に取る母を横目に、舜は浴室へと急いだ。

 

(第2回につづく)