建物のエントランスを出ると、風が冷たかった。最近、日が暮れるのが早くなった。午後四時半を回ったばかりだが、空の雰囲気はすっかり夕暮れだ。そろそろ、クローゼットの奥からダウンジャケットを引っ張り出したほうがよさそうだ。
気分は、ずいぶんよくなったが、不安な気持ちは、消えていなかった。薬を使い続けていいのか、止めるべきなのか、そこが問題だ。
投稿のコメント欄には、質問が書き込まれていた。
――本当に危ないのか?
――根拠なく危険を煽りすぎでは?
どれももっともな疑問である。しかし、投稿者の医師は、「個人輸入したものはとにかく使うな」の一点張りだった。
そう言われても、である。
問題の薬は、アメリカのドラッグストアで広く販売されている。日本国内でも、自由診療を受ければ、処方してもらえる。そして、これまで急性肝不全の副作用が出たという報告はない。そのことは、投稿者の医師も認めている。
なのに、個人輸入したものだけ副作用があるなんて、理屈が通らないように思うのだ。
ネット上の医療や健康の情報は玉石混淆だ。今回の投稿者は医師だが、医師だってまともな人もいれば、極端な人もいるはずだ。投稿者が、大げさに騒いでいるだけではないだろうか。
そうは言っても、投稿を見なかったことにして、これまで通りに薬を飲むのは、ちょっと怖かった。急性肝不全が深刻な病気だというのは、しほりにも想像がつく。
地下鉄の駅に向かって歩道を歩き始めると、歩道の端にクロスバイクに手をかけて立っている男性がいた。蒼空だった。しほりと目が合うと、軽く手を挙げ、クロスバイクを押しながら近づいてきた。
「大丈夫っすか?」
「えっ、あっ、はい。心配をおかけして、すみませんでした。もうなんともないので」
「よかった。なんかすみません。俺が騒ぎにしちゃったみたいで」
「いえ、全然大丈夫です」
謝るためにわざわざ待っていてくれたのだろうか。不思議に思っていると、蒼空は続けた。
「俺も病院は得意じゃないから、行きたくないのは分かります。でも、かなり具合が悪そうでしたよ。この後、時間があるなら、医者と話してみたらどうかなって」
意味がよく分からなかった。
「もうなんともないんです。病院に行く必要もなくて……」
「病院じゃなくて、カフェに医者がいるんです。俺、その店でバイトをしてて、これから出勤するところで」
カフェに医者がいる? ますます分からない。戸惑っていると、蒼空が言った。
「説明を読んでもらったほうが早そうなんで、検索してもらえますか? お医者くんカフェ」
興味はなかった。しかし、わざわざ待っていてくれたのに、無下にするのも申し訳なくて、スマホを取り出す。
「お医者くんカフェ」のサイトはすぐに見つかった。「カミナーレ」というカフェで火、木、土の午後、医師が立ち、客の質問や相談に答えてくれるらしい。
体調について聞きたいことはなかった。でも、カフェで医師と気軽に話せるならば、行ってみてもいいかもしれない。医師であれば、さっきの投稿に、どの程度信憑性があるのか、見極めがつくのではないだろうか。東中野ならここから地下鉄で二駅だし、このモヤモヤを解消できるのなら、料金の千五百円を出してもいい。
ただ、投稿者のように頭ごなしに素人を説教したがる医師だったら、会うだけ無駄である。
「どういうかんじのお医者さんですか? 厳しいことを言う人はちょっと……」
蒼空は白い歯を見せて笑った。
「丸くんは、そういうタイプじゃないっす。おっとりしていて、ちょっと情けなくて。でも、みんな言うけど話しやすいみたいですよ」
そうか。であれば、心配は杞憂だろう。それに、診察を受けるわけではない。「友だちの話」ということにすればいいのだ。
「今からでも大丈夫でしょうか?」
「もちろん。秦野さんだっけ。俺、先に行って丸くんに伝えときます」
蒼空は片手を上げると、クロスバイクにまたがり、車道に出た。
そのカフェは、ちょっと懐かしい雰囲気の生活道路沿いにあった。中に入ると、クマのぬいぐるみっぽい雰囲気の、若めのおじさんがニコニコと笑いかけてきた。
「いらっしゃいませ。蒼空くんのご紹介の?」
「秦野です」
「初めまして。医師の丸山です。丸くんと呼んでください。カウンター席にどうぞ」
蒼空の言った通り、話しやすそうな人だった。四十歳を超えていそうだが、大人の男性が無意識に醸し出しがちな「圧」みたいなものを、まったく感じないのだ。小谷のように、変に馴れ馴れしいところもない。
カウンターの真ん中付近には、初老の女性が座っていた。しほりは、彼女と一つぶん離れた奥の椅子に腰掛けながら、蒼空がいると思われる厨房の様子をうかがった。物音は一つもしなかった。
「蒼空くんは、買い出しに行っています。ええっと、このカフェについての説明は蒼空くんから聞きましたか?」
「教えてもらってネットで読みました」
そこで先客の女性が、遠慮がちに丸山に声をかけた。
「そろそろ出なきゃいけないの。悪いけど、先にお会計、お願いしていい?」
女性は、「ごめんね」と言うように、しほりに向かって手を合わせると丸山に料金を渡した。
「めぐみさんに、よろしくね」
「こちらこそ、シュンさんによろしくお伝えください。引っ越す前にランチに来てほしいなあ。新ランチメニューの『サーモンとアボカドのいぶりがっこタルタルバーガー』が絶品なんです」
「美味しそう。私も食べてみようかな」
「ぜひぜひ」
女性客が店を出ていくのを待って、しほりはコーヒーを頼んだ。三種類の豆の中から、爽やかな酸味があるタイプを選んだ。
「コーヒー、大丈夫ですか? 蒼空くんから、勤務中に具合が悪くなったと聞いているので」
「もう治ったので平気です」
「そういうことがよくあるんですか?」
「ないです。本当に大丈夫です。ここに来たのは、別の相談があるからなんです」
丸山が「ほう」というように、唇を丸くすると言った。
「うかがいましょう。でも、ちょっと待ってください。コーヒーに集中したいので」
丸山は、慎重な手つきでコーヒーをドリップすると、しほりの前にカップを置いた。
「どうぞ」
感想が欲しそうだったが、しほりは猫舌である。少し冷ましてから飲むことにして、自分の話を始めた。
「私の友だちに、脂性を改善するアメリカの薬を個人輸入して使っている子がいるんです」
「すみません、薬の名前は分かりますか?」
薬の名を告げると、丸山はカフェエプロンからスマホを取り出して調べ始めた。
「ああ、なるほど。向こうでは広く使われている皮脂抑制薬ですね。続きをお願いします」
「はい。今日、SNSを見ていたら、たまたまその薬に関する投稿を見つけてしまったんです。副作用があるらしくて。でも、よく分からないところもあって、友だちに伝えるべきかどうか、迷っています。読んでいただけますか?」
保存しておいた投稿を画面に表示すると、スマホを丸山に差し出した。丸山はそれを受け取ると、丸っこい身体を縮めるようにして画面を覗き込んだ。
ますますぬいぐるみっぽいと思いながら、しほりは、爽やかな香りがするコーヒーに口をつけた。いつも飲んでいるチェーン店のコーヒーとは別ものである。ただ、美味しいかと言われると、微妙だった。なんだか少し薄いのだ。
入り口のドアが開く音がした。膨らんだレジ袋を提げた蒼空が入ってきた。しほりに会釈をすると、厨房の中に消える。それと同時に丸山が顔を上げた。さっきまでの笑みは消えていた。
「お友だちに、ただちに薬の使用を中止するように伝えてください。それと、念のために医療機関を受診したほうがいいかもしれません。いや、それより僕から話しましょう。そのほうが確実です」
「勝手に連絡先を教えるわけには……」
「では、秦野さんからその人に連絡を入れて、許可を取ってください」
なんだか面倒な話になってきた。でも、今さら友だちではなく自分の話だとは言えない。
「それより、教えてください。リスクって、そこまで高いのでしょうか。投稿者のお医者さんが、大げさに騒いでいるだけだったりしませんか?」
丸山が苦笑した。
「秦野さんがそう感じた理由は、なんとなく分かります。読んでいて、頭ごなしに叱りつけられているような気持ちになりました。自分の正義を押しつけられているようでもあった。そういう人の言うことって、素直に信じられなかったりしますよね」
まさにその通りだった。しかし、丸山がしほりに共感してくれたのは、そこまでだった。
「その先生と面識がないので、断言はできません。でも、極端な考えを持つ、いわゆる『トンデモ医』ではないと思うんです。肝臓の専門医の資格を持っているし、関連学会の理事を務めています。勤務先は有名な病院です」
「でも、投稿の内容に納得できなくて……。あの薬はアメリカでたくさんの人が使っていますよね。日本でも、自由診療で処方されていて、これまで何も問題はなかったわけですよね」
「その点については、僕も不思議だな、と思いました。でも、専門医が何かおかしいと感じているんです。そして、急性肝不全は下手をすれば命に関わる病気です。少なくとも状況がはっきりするまでは、服用をやめるべきでしょう。メリットと比べて、リスクが大きすぎます。割に合わないんです」
「割に合わない……」
「はい。たとえば、お友だちが深刻な病気にかかっていて、その薬を飲まないと、命が危ないのであれば、リスクを取るという判断もあるかもしれません。でも、服用を中止しても顔が脂ぎったり、ニキビができたりするぐらいですよね。安全を優先するのが、当然ではないかと」
しほりの胸にシンとしたものが広がった。「たかが脂性」と思える人なら、そうだろう。でも「されど脂性」なのだ。自分の人生は、それに振り回されている。
黙っていると、丸山が続けた。
「実は僕も脂性なのです。高校の頃は苦労しました。女子にキモいと言われて、毎日がきつかったです。小遣いはニキビ治療薬ですぐになくなるし、皆とファストフード店に行っても、ハンバーガーもコーラも頼まず、ウーロン茶しか飲めないし。だから、お友だちの気持ちは分かるんですが……」
過去の話をされても響かない。こっちは、現在、そして未来について悩んでいるのだ。
往生際が悪いなと自分でも思いながら、しほりは聞いてみた。
「短期間だったら、リスクは低かったりしませんか? もうじき、そのお友だちが楽しみにしているパーティーがあるんです」
来週の土曜日である。せめてその日は、きれいな顔で出かけたかった。
丸山は、しばらく唇を噛んでいた。そして、思い切ったように言った。
「お友だちに、止めるように言っても、聞いてくれない可能性があるんですね……。だったら、やっぱり僕にその人と話をさせてもらえませんか? どうしても薬を使い続けたいのであれば、医療機関を受診して医師の処方を受けるように勧めてみます。自由診療になるので、個人輸入よりお金はかかりますが、医師が関与することで、リスクは低減できそうです」
自由診療か……。でも、服を買ったうえに、今月は薬をまとめ買いしてしまったから、お金に余裕がない。
それはともかく、丸山の意見は分かった。あとは、自分で決めるしかなさそうだ。
しほりは、少し残っていたコーヒーを飲み干した。
「いろいろありがとうございました。今聞いた話をその子に伝えます。お会計をお願いします」
そのとき、厨房から蒼空がのっそり出てきた。丸山との話に夢中で、すっかり彼の存在を忘れていた。
蒼空は、物憂げな表情だった。厨房の入り口に近いところに立つと、腕を組んだ。
「すみません。話、聞こえちゃって」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。私の体調を心配して、このカフェを紹介してくれたのに、まったく違う内容の相談をしてしまって……」
そう言いながら、自分の迂闊さに気づいた。蒼空と最初に会ったとき、しほりの顔は脂ぎっていた。蒼空は、しほりの嘘に気づいている可能性がある。
蒼空はボソッとした口調で言った。
「別にいいっすよ。ただ……なんでその友だちは、顔にそんなにこだわってるんっすか?」
「顔じゃなくて、清潔感の問題だと思います」
「じゃあ、言い換えます。なんで外見にそんなにこだわるんっすか。俺、役者なんです。役者って他の仕事以上に顔が大事だって思われているでしょ。でも、実際には技術や才能のほうが大事です。彼氏彼女を作るときだって、外見だけで決める人なんかいないっすよね。むしろ、いくら顔がきれいでも、副作用の危険がある薬を平気で飲んじゃうヤバい人と交際したい人なんかいるんですかね?」
ヤバい人呼ばわりされて、ムッとした。次の瞬間、白けた気持ちが胸に広がる。
外見に恵まれている人に、そうでない人間の辛さは分からないのだ。
丸山が、彼に似つかわしくないきっぱりとした口調で言った。
「蒼空くん、僕のお客さんにお説教はやめてほしい。それに、こだわってるのは秦野さんじゃなくて、彼女の友だちでしょう」
蒼空は丸山の顔を見ると、呆れたような表情を浮かべた。
蒼空には、完全に嘘がバレているようだ。しほりは、自分の顔が引き攣るのが分かった。丸山が気づく前にと思って、会計をもう一度頼んだ。
それがかえっていけなかったようだ。丸山は思案するような表情を浮かべると言った。
「ええっと、もしかしてお友だちというのは?」
最悪だ。しほりはみじめな気持ちをこらえ、千五百円ちょうどをカウンターに置いた。
「すみません。今日はこれで失礼します」
丸山は何か言いかけたが、しほりの頑なな表情を見て、これ以上話を続けるのは難しいと感じたようだ。
「僕にあなたを止める権利はありません。でも、ぜひよく考えてください。そして、体調が少しでもおかしければ医療機関に行ってください」
しほりは、丸山の目を見ずに、頭を下げた。