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3章 神の手の正体

 

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 人生で初めてバタフライで二十五メートルを泳ぎ切ることができた。

 中村直哉は高揚した気分で新宿スポーツセンターを出た。黄葉したイチョウの葉が、紙吹雪のごとくヒラヒラと舞い落ちる。羽田空港に向かう飛行機の轟音は、喝采だ。

 ブラボー! 世界に祝福されているような気分である。

 ナップザックを背負いなおすと、腕を大きく振りながら、北新宿の北端にある自宅に向かって歩き始めた。十一月も半ばに差し掛かり、日が落ちるのが早い。まだ五時前なのに、西の空が紅く染まっている。

 直哉は今年六十八歳になる元中学教師だ。都内の公立中学で理科を教えてきた。定年退職後、再任用制度を利用してさらに三年勤めたので、完全に辞めたのは三年前、六十五歳のときである。

 その後、新宿に本部がある大手学習塾で、教材開発のアルバイトを始めた。模試の問題やテキストを作成する仕事である。勤務は月、水、金の週三日。老後のことを考えれば、働けるだけ働いたほうがいいのかもしれないが、正直なところ、あまり面白くない。

 その一方で、家にいる時間が長いのも考えものだった。暇なので朝の散歩を日課にし、腰痛持ちの妻、万由子に替わって家のどこかを毎日掃除することにした。今日はトイレ、明日はリビングといった具合だ。料理は苦手だし、毎日三食万由子に作らせるのも悪いので、昼食は自分で買ってくるか、外で食べることにした。ランドリーバスケットに汚れものがたまっていたら洗濯機を回すし、観葉植物の世話も全面的に引き受けた。

 それでも時間が余ってしまう。そこで趣味を持つことにした。

 六十代半ばといえば、健康が気になる年頃である。身体を動かしたかったが、仲間とワイワイやりたい性格ではないし、ゴルフのようにお金がかかるものは困る。

 ああでもない、こうでもないと考えて選んだのが水泳だった。プールに入ったのは高校生の水泳の授業が最後だし、そもそもカナヅチに近かった。万由子は、「なんでわざわざ苦手なものを」と不思議そうだったが、年齢を理由に諦めずに、チャレンジすることに意味がある。

 無理なく通えるプールを探してみたところ、新宿スポーツセンターがよさそうだった。区の施設なので、民間のスポーツジムと比べて利用料が格段に安いのだ。水泳教室も開催されていたが、他人に教えを請うのは苦手である。初心者・歩行者用のレーンが設けられていると知り、ひとまず独力で取り組んでみることにした。

 とりあえず、火、木の週二日通うことにした。最初の二か月は、ウォーキングやビート板を使ってのバタ足に取り組み、水に慣れてきたところで、クロールに挑んだ。距離を伸ばすより、正しいフォームで泳ぐのを意識したのがよかったのだろう。メキメキ上達し、半年で五十メートル泳げるようになった。

 その後、平泳ぎの練習を始め、こちらも半年ほどで形になった。プールに通い始めて一年半後には、混雑する時間帯でも堂々と一般レーンで泳げるようになった。高校時代までほぼカナヅチだったのは、単にやる気がなかったせいのようだ。

 しかし、うまくいったのはそこまでだ。バタフライに取り組み始めてすぐに、壁に突き当たった。ネットで見つけた「正しい泳ぎ方」の動画を繰り返し見ても、上体をうねらすコツがつかめないのだ。バタフライのストロークは、水しぶきが派手に上がる。初心者・歩行者用レーンでは練習しづらいという問題もあった。

 それでも諦めず、人が少ない時間帯を狙ってプールに通い、コツコツ練習を続けたところ、少しずつ前に進めるようになってきた。そして今日、二十五メートルを泳ぎ切れたのだ。教師時代、「継続は力なり」と生徒に言ってきた。それを実証できたようで嬉しかった。

 

 二十分ほど歩いたところで、小滝橋が見えてきた。新宿区と中野区の間を流れる神田川をまたぐ橋で、交差点やバス停の名前にもなっている。

 自宅は、交差点からほど近い川沿いの分譲マンションである。二十年ほど前にローンを組んで新築物件を購入した。手狭ではあるが、子どもはいないし夫婦ともに都心で生まれ育ったので、広さよりロケーションを優先した。ベランダから川沿いの桜並木が見えるのも魅力だった。

 契約直後に、伊豆大島に転勤になり、新築物件を三年間、賃貸に出さざるを得なかったのは、残念だった。万由子もずいぶん悔しがっていた。断れないわけでもなかったが、結果的に行ってよかった。火山があり、自然豊かな大島での暮らしは、理学部地学科出身の直哉にとって夢のようだった。休日には、観光客相手に地層観察会のボランティアガイドをしたのもいい思い出だ。

 鍵を開けて家に入ると、玄関に万由子の靴がなかった。買い物に出かけたのかもしれない。八歳下の万由子は、今年還暦を迎えた。なのに、未だに抜けたところがある。夕飯の支度を始めてから、材料や調味料が足りないことに気づき、スーパーに買いに走ることもしょっちゅうだ。

 今日もどうせそうだろうと思いながら、洗面所のシンクで水着を洗った。奮発して高級スポーツブランドの水着を買ってから、自分で洗うことにしている。水着の生地はデリケートなので、プールから出てすぐに真水で塩素を洗い流し、帰宅後、中性洗剤で手洗いして陰干しするのが正しい手入れ法だ。なのに、万由子は他の衣類と一緒に洗濯機に突っ込み、弱アルカリ洗剤で洗い、直射日光が当たる場所に干してしまうのだ。デリケート衣類には中性洗剤を使うという知識すらなかった。指摘しても、「このやり方でずっと問題なかったし、太陽光で殺菌しないと不潔だ」と言って譲らない。

 洗い終えた水着を干しにベランダに向かう途中で、ダイニングテーブルにメモが置いてあるのに気づいた。

「整体の予約が急に取れたので行ってきます。帰りは五時過ぎになります」

 まったく、なんということだ。

 直哉はメモを握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。

 万由子は最近腰痛が悪化したようで、毎晩のように愚痴をこぼすようになった。そこで、近所にある立花整形外科クリニックで診てもらうように言った。直哉が以前骨折の治療を受けたクリニックで、院長の腕がいいのだ。

 ところが、万由子はそのクリニックに一度行ったきり、通うのを止めた。腰痛がよくなったわけではなく、その後もぐずぐず言っていた。

 ――痛いのなら、立花先生に診てもらえ。それが嫌なら我慢するしかない。

 そう言って再受診を促したが、万由子は首を縦に振らなかった。なのに、先週何を思ってか、整体を受けに行き、帰宅後、「痛みが嘘のように消えた」と言い出したのだ。

 眉唾だと思った。整体のような民間療法は、西洋医学と違って科学的根拠がない。「医療行為もどき」でしかないのだ。

 しかも、中にはとんでもない整体師もいる。直哉の元勤務先の校長は、腰痛で整体院に通っていたが、よくならないので「整形外科を受診したほうがいいでしょうか」と整体師に質問した。すると、「整形外科はどうなんでしょうねえ」と言って言葉を濁したそうだ。違和感を覚えた校長は、整形外科を受診した。すると、骨に腫瘍ができていたというのだ。整体に通い続けていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれないと言っていた。

 整体には健康保険も適用されない。万由子が行ったところも一時間の施術で七千円も取るそうだ。「二度と行くな」と伝えた。なのに、無視するとは何事だ。

 憤慨しながら、ベランダで水着を干していると、玄関のドアが開く音がした。膨らんだレジ袋を提げた万由子がリビングと続きになっているキッチンに入ってくる。

「ごめん、遅くなっちゃった。すぐに夕飯作るから」

 レジ袋の中身を調理台に並べながら言う。万由子はショートカットで小柄だ。後ろ姿は、中学生のようだった。

 直哉はリビングに入り、ベランダの窓を閉めた。ダイニングテーブルの自分の席に着き、万由子に声をかける。

「そこに座って。話がある」

 万由子はエプロンをつけながら言った。

「後にして。あなたもお腹空いたでしょ」

 直哉は思わず声を荒らげた。

「そこに座りなさい!」

 万由子が驚いたように直哉を見る。

「何かあった?」

「整体になんか行くなと言ったはずだ。なのに、なんで……」

 万由子は両手を腰に当て、フラフープを動かすように回してみせた。

「軽いわー。でも、気をつけなきゃ。私、キッチンに立つときの姿勢が悪いみたい。テレビを見るとき、ついつい脚を組んじゃうし」

「この前も言っただろ。整体は民間療法なんだ。科学的根拠がない。校長がひどい目にあった話もしたよね」

「どんな職業でもおかしい人はいるのよ。教師だって事件を起こす人がいるじゃない。それに効くのよ。『このへんですか?』って言って、ひねったりゴリゴリしたりしてくれると、嘘みたいに痛みが消えるの。筋肉も柔らかくなるわ。ビーフジャーキーが生肉に戻るかんじ?」

「ジャーキーを水に浸しても、生肉には戻らない」

 万由子が苦笑した。

「ものの喩えでしょ。とにかく効くの。あの先生は『神の手』だと思う」

 直哉は顔をしかめた。

「そんなわけがないだろう」

「晴代さんも、頑固な肩こりが消えたって言ってたわよ」

 晴代の名前を聞いて、嫌な予感がした。三島晴代。同じマンションに住んでいる万由子の友人の一人だ。二人で神田川沿いの遊歩道をウォーキングしたり、新宿に映画を見に行ったりしている。たまに家にも来るので、直哉も彼女と面識があった。万由子と仲良くしてくれるのはありがたいが、晴代には問題もあった。科学で説明がつかない不思議な世界に興味を持っているのだ。

「もしかしてその整体院は、晴代さんの紹介?」

「そうだけど」

「だったら、なおさら止めとけ。インチキに決まってる」

 万由子が渋い顔をした。

「ひどいこと言うわね」

「万由子だって、あの人は変わったところがあると言ってたじゃないか」

「スピリチュアルなものが好きなだけよ。でも、おかしな宗教にハマってるとか、そういうんじゃないの。ライフスタイルとか趣味みたいなものね。あなたと同じでしょ」

「まさか。僕はスピリチュアルなんて興味ない」

「あるわよ。今年も一人で大島に出かけたじゃない」

「だから?」

「『あの島には人知を超えた何かがある』とか言ってた。何度も写真を見返してるのも知ってる」

 確かに言ったが、大自然への畏敬の念を口にしただけで、スピリチュアルとは関係ない。それに、大島には友人に会いに行ったのだ。大島勤務時代に仲が良かった同僚の美術教師で、直哉と同様、大島勤務を終えた後、都内に戻った。ところが二年前、定年退職を機に、妻を都内に残して向こうに移住したのだ。小さな畑を借りて野菜を作りながら、絵を描いているそうだ。直哉にとって、数少ない友だちである。大切にしたかった。

「友だちに会いに行ったり、自然を満喫したりするのは、スピリチュアルとは関係ない」

 そもそも、晴代がやっていることは、スピリチュアルというより、オカルトっぽいのだ。リビングには、ピラミッド型の水晶の置物があるそうだ。宇宙のパワーを集めて部屋を浄化するのだとか。前に会ったときは、数珠のようなブレスレットをつけていた。黄色い石は、金運を高めるシトリンだという。高価な品だと自慢するので、「金運が高まって元が取れましたか?」と聞いたら、露骨に嫌な顔をされた。そのほかにも、水素水を飲めば免疫力が高まるとか、観葉植物に毎日話しかけると、葉が生き生きしてくるとか、科学の素養がある人間には受け入れ難いことを晴代は口にする。

 万由子は、話半分に聞いているようだし、晴代から何かを買わされることもなかった。だからこれまで静観していたが、今回ばかりは黙っていられない。

「晴代さんみたいな人が推薦する整体に、バカみたいに高い金をかけ通うのは反対だ。立花整形外科に通院しなさい」

 院長の立花大は、信頼のおける医師である。整形外科専門医の資格を持っているし、直哉が骨折の治療で通っていたときに、どんな質問にも丁寧に答えてくれた。

「立花先生は、私には合わないかも」

「合う、合わないの問題じゃない。身体は信用できる人に診てもらわないと」

「うーん、でも、腰痛や肩こりは、整形外科に通っても、治らないって晴代さんが言うのよ。私もそう思う。整体はお金はかかるけど、しっかりみてもらえるし、効果も実感できるの。定期的に通うように勧められたから、そうするつもり」

「騙されてるんだ。その神の手に」

 万由子はムッとしたようだった。

「そんなことない。料金だって相場より特に高いわけじゃないし」

「法外な金額を請求したら、カモが逃げるからだろ。冷静に考えてみなよ。本当に神の手なら、一度の施術で治せるはずだ。また来いと言う時点で、眉唾だと気づかなきゃ」

「じゃあ、なんで今私の腰が軽いの? 神の手じゃないって証拠はある?」

 直哉が考えていた以上に、晴代の影響を受けているのかもしれない。

「とにかく止めて。たまの贅沢はいいけど、高い金を払って怪しげな施術を定期的に受ける余裕はウチにはないよ」

 万由子はまだ何か言いたそうだったが、直哉は夕刊を手に取った。

「この話はこれでお終いにしよう」

 万由子は、不満そうにため息をつくと、直哉に背を向け、料理を始める。

 バタフライで二十五メートル泳げたという話をするのを楽しみにしていたのに、とてもそんな雰囲気ではなかった。

 

(第10回につづく)