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 しほりは、高校卒業後、ジュエリー職人を目指して上京し、宝飾専門学校に入学した。

 子どもの頃から手先が器用で、アクセサリー作りが趣味だった。といっても、性格が女の子らしかったわけではない。自分を飾るよりも、美しいものを自分の手で作り出すことに興味があった。

 専門学校では、座学、実習ともに真摯に取り組んだ。成績もよかったので、担当教員の伝手で老舗ジュエリーメーカーに就職できた。

 順調だったのはそこまでだ。製作部に入れてもらうはずだったのに、配属されたのは、銀座にある直営ショップだった。社長の方針で、新人は全員販売の仕事を経験させることになったと言われては、拒否もできなかった。

 ショップ勤務が始まると、すぐに居心地の悪さを覚えた。スタッフの美意識がやたらと高いのだ。宝飾品に対する審美眼が鍛えられているのはもちろん、美容やファッションに対して貪欲な人が大半だった。髪は艶やかで肌は陶器のよう。そして、上品で完璧なメイクを施している。

 美容への関心が薄かったしほりも、自分磨きを意識せざるを得なかった。一人だけ浮いており、まるで「醜いアヒルの子」のようだったからだ。

 しかし、脂性の肌のせいで、変身はうまくいかなかった。いくら丁寧に化粧をしても、数時間経つと皮脂で汚らしく崩れてしまうのだ。

 脂性は昔からだが、そこまで気にしていなかった。専門学校時代は、忘れていたぐらいだ。現在の製作現場では、CADなど最新技術を使うことも多いが、学校で学んだのは、伝統的な彫金。優雅からはほど遠い肉体労働であり、金属を研磨する際に出る粉で顔も手も真っ黒になる。顔が脂っぽいなんて、些細な問題だった。

 しかし、高級ジュエリー店ではそうはいかない。令和の時代、ルッキズムはタブーだが、そういう問題ではない。脂で顔を光らせている人間は、ラグジュアリーで静謐な空間のスタッフにふさわしくないのだ。

 自分なりに努力はした。皮脂を抑える化粧品をあれこれ試したり、皮膚科に行ってみたり……。次々と買いそろえた化粧品も、皮膚科で出してくれる薬も効果は薄く、脂性はよくなるどころか悪化した。

 なんとかしたいと思って、飛びついたのが、今もローンを払い続けている百万円超の高級美顔器だ。祈る思いで三か月使ったが、効果はまったく感じられなかった。

 そして悟った。いくらお金と時間をかけても、肌質を根本的に変えるのは無理なのだ。

 それ以上借金を増やせないという事情もあり、しほりは発想を転換した。皮脂が出るのを防ぐのではなく、皮脂が出ても目立つ前に処理をするのだ。アイシャドウやチークなど、崩れやすいポイントメイクは省略し、ひたすら清潔感だけを追求した。

 上司や同僚の目を気にしながら、隙をみつけて顔をなおしにトイレに駆け込む毎日は精神的にきつかった。それでも辞めなかったのは、そのうち製作部に異動できると思ったからだ。

 ところが入社して三年目の春、社長が製作部を大幅に縮小すると言い出した。国内で製作をするのは、高額のオーダーメイド商品に絞り、それ以外は海外の提携会社に委託するという。しほりが、製作部に異動できる可能性は、限りなくゼロに近くなった。

 ――これまで何のために、耐えてきたのか。

 そう思ったら、すさまじい虚無感に襲われた。ある朝、起きられなくなったことをきっかけに、無断欠勤を繰り返した挙げ句、会社を辞めた。

 今働いているキャリアショップは、すっぴんでも多少制服に皺が寄っていても許される。店長の瑞月はほぼすっぴんで、眉毛はボサボサだ。指の剛毛を放置していたり、シャツがよれよれだったり、いつもちょっと汗臭かったりする男性スタッフもいる。

 そういう意味では、気楽なはずなのに、なぜか今も「醜いアヒルの子」だったときの習慣を捨てられない。

 

 日菜子が椅子の背に掛けてあったバッグから、小さな紙包みを取り出した。

「そうそう、忘れるところだった。お土産買ってきたんだ」

 結婚祝いのお返しは、すでにもらっている。お土産までもらうのはなんだか悪いなと思いながら受け取った。

「ありがとう。開けてもいい?」

「もちろん」

 紙包みを開くと、ガラスの小瓶が入っていた。ピンク色の錠剤が詰まっている。ラベルは英語で表記されており、しほりには読めなかった。

「これは?」

「余計なお世話だったら悪いんだけど……。ホテルでテレビを見ていたらこの薬のCMをやってたの。だんなに聞いたら、皮脂の分泌を抑える薬で、アメリカで大人気なんだって。日本では未承認で自由診療でしか処方を受けられないみたいだけど、向こうではドラッグストアで普通に売ってた。よかったら試してみて」

「えー? ありがとう。自由診療って興味があったけど、高くて私には無理だと思ってた。早速使わせてもらうね」

「合わない可能性もあるから、十日分が入ってる一番小さな瓶にしたんだ。合うようだったら、化粧品と同じでネットで個人輸入ができると思う。ちなみに、値段は風邪薬程度だったよ」

「ホント? それなら続けられそう」

「でしょ」

 それにしても、新婚旅行先でまで、しほりのことを気にしてくれているなんて……。

 そしてちょっと期待してしまう。

 白鳥なんておこがましいことは望んでいない。普通のアヒルになれますように。

 そう念じながら、小瓶を袋に戻し、大切にバッグにしまった。

 

 

 しほりの前の席についた小谷は、今日も自分のアクティブ・シニアぶりを饒舌に語り始めた。

「今日の午前中は、池袋で映画を観てたんだ。ものすごく泣けたよ。ベネチア映画祭で賞を獲っただけのことはあるね。実はこの映画の監督の前作を見たときから、注目してたんだ」

「映画にお詳しいんですね」

 小谷は驚いたように眉を上げたかと思うと、肩をそびやかした。

 肌の調子がいいと、気分もいい。気分がいいと、他人に対して寛容になれるようだ。おかげで、最近、仕事の調子もいい。

 日菜子にもらった薬は、見事に効いた。使い始めて三日ほど経ったところで、あんなに悩んでいた皮脂が、ピタッと止まったのだ。副作用なのか、やや喉が渇きやすくなったが、そのぐらいどうということもない。日菜子に報告したら、自分のことのように喜んでくれた。

 個人輸入の方法を調べてみたら、難しいことは何もなかった。個人輸入代行業者という便利な存在があるのだ。いくつかの業者を比較し、二番目に価格が安かった「クラウン」という業者にユーザー登録をした。化粧品を買い漁っていた頃、「最安値」という文字に惹かれて購入した商品が、偽物っぽかったことがあるからだ。

 その業者を通じて、二か月分をクレジットカード払いで申し込んだら、三日後、薬が届いた。

 日菜子にもらった分はすでに飲み終えており、現在はクラウンを通じて買ったものを使っている。

 小谷の蘊蓄がひと段落したところで、しほりは切り出した。

「映画がお好きなら、このサービスに加入してみませんか? 今、ちょうどキャンペーン中なんです」

 説明用のタブレット端末に、平日に映画を半額で見られるのが売りのオプションプランを表示して、小谷に見せた。

「月額料金は通常九百九十円なんですが、今ご入会いただくと、半年間は五百円です」

「映画はシニア割で観られるから、必要ないよ」

「時々観るぐらいなら、そうでしょう。でも、毎月何本も観るマニアの方には、こっちのほうがお得です。一本観るたびにポイントが貯まって、五回に一回の割合で無料になるんです。映画鑑賞のほかにも、いろいろ使えます。電子書籍や電子雑誌を無料で読めたりとか……。情報に敏感で多趣味なアクティブ・シニアの方にぴったりです」

「秦野ちゃん、口がうまくなったねえ。それと、なんだか今日はいつも以上に美人に見える」

 セクハラ発言すら、「ええ」と受け流せた。それどころか、ちょっと嬉しい。肌の調子がいいから、アイシャドウとチークを薄くつけてみたのだ。自分にしか興味がなさそうな小谷ですら気づいたのだから、かなり見かけはよくなったはずだ。

 来週末に開催される日菜子の結婚パーティーが、ますます楽しみになってきた。日菜子が、カメラマン氏の写真を送ってくれたのだが、笑顔が素敵な人だった。性格についても、日菜子の夫が太鼓判を押しているという。そんな人にアプローチされて、悪い気はしなかった。日菜子も、しほりが乗り気になったのを察したようだ。「絶対にうまくいくと思う」と励ましてくれた。

 アプローチといえば……。この前、小谷もSNSを通じて面識のない女性に接触しようとしていた。

「そう言えば小谷さん、SNSを始めましたよね。このオプションに加入すると、SNSの有料会員限定機能の一部が使えるんです。一つの記事に掲載できる写真を増やすとか」

 小谷が眼鏡を額に上げる。

「それは興味深いな。ほかにどんなことができるようになるの?」

 なんと、乗ってきた。

「ウチの店のSNSアカウントを使って、ご説明しますね」

 しほりは、いそいそとタブレット端末を手に取った。

 

 見事契約書にサインさせて小谷を送り出すと、隣の席で手持無沙汰にしていた森瑞月が言った。

「秦野さん、最近絶好調ですね。それと、この前はうるさいことを言ってすみませんでした」

「いえ、そんな。店長の言う通りだと思いました」

 瑞月に対して苦手意識を持っていたけど、なんだかいい人に見えてきた。

 まるでオセロゲームみたいだ。盤上の駒がほぼ黒であっても、効果的な一手を打てれば、それをきっかけに盤は白く染められていく。その一手を入手できて、本当にラッキーだった。

 自動ドアが開く音がした。入ってきたのは、半月ほど前に端末の修理依頼で来店した鈴木蒼空、美貌の男性である。昨日閉店後に、修理済みの端末が工場から戻ってきたので、引き取りに来てほしいとメッセージで伝えてあった。

 しほりはカウンターの中で立ち上がり、声をかけた。

「こちらへどうぞ」

 蒼空はうなずくと、軽やかな足取りでカウンターまでやってきた。

「昨日、連絡をもらった鈴木です」

「予定よりかなり長くお待たせしてしまって、本当に申し訳ありませんでした。メッセージでもお伝えしましたが、部品の在庫がなくて、海外から取り寄せるのに時間がかかってしまったのです」

「問題ないっす。代替機、快適だったから」

「よかったです。では、お預かりした端末を取ってきますので、少々お待ちください」

 バックヤードから修理済みの端末を取ってきて、蒼空に渡した。

「まず、ひと通り動作確認をしていただけますか? その後、代替機のデータをこちらの端末に移行して、その後、代替機を初期化していただきます」

 蒼空が修理済みの端末を触り始めた。こんなに素敵な人も、スマホを使うときには猫背になるのだなと思いながら、しほりは接客用のタブレット端末を手に取った。小谷への説明に使ったアプリや画面を閉じておこうと思ったのだ。

 端末の画面に目をやるなり、しほりの身体が固まった。SNSのタイムラインに表示された投稿の中に、「個人輸入の皮脂分泌抑制薬」という単語を見つけたのだ。

 店のアカウントは、健康やスポーツにまつわる情報をタイムラインに表示する設定にしていたので、不思議はないのだが、内容が気になりすぎる。蒼空が確認作業を続けているようなので、投稿を読み始めた。

 投稿者は、地方の医療機関に勤務する医師だった。

 読み始めてすぐに、顔が引き攣りそうになった。

 ――米国製の皮脂分泌抑制薬に、重大な副作用の可能性があることが分かりました。

 薬の名前は、まさにしほりが購入し、服用しているものである。

 急いで投稿を読み進める。専門用語が多く、意味が分からない部分もあるが、内容は、ざっとこんなかんじだった。

 ――先月、原因不明の急性肝不全を発症した患者が、投稿者の病院を受診した。命に別条はなかったものの、重症だったという。

 その患者は、医薬品個人輸入代行業者を通じて問題の薬を入手し、服用していた。米国のメーカーに副作用の可能性について問い合わせをしたが、そのような副作用の報告はないそうだ。日本の医療機関の中には、自由診療で同じ薬を出すところもあるが、やはり副作用の報告はなかった。

 しかし、懸念を捨てきれなかった投稿者は、学会を通じて国内の肝臓専門医に広く情報提供を募った。すると、同じ薬を個人輸入して服用し、急性肝不全を発症した人が他にも二人いることが分かった。詳しい因果関係の調査はこれからなので、薬の安全性について確定的なことは言えない。しかし、医師の処方を受けずにこの薬を使用している人は、ただちに使用を中止するべきだ。そもそも、素人判断で医薬品を個人輸入して使うなんて、危険極まりない。医師として、この事態は見過ごせない。

 読み終えると、動悸が激しくなっていた。唾を飲み込みたいのに、飲み込めない。

 薬を飲み始めて半月ほどになる。肌がきれいになって、喉が渇きやすくなった以外は、体調に変化はなかった。しかし、この投稿の内容が事実なら、自分も急性肝不全になる恐れがあるようだ。

 それは困るが、あの薬を使えなくなるのも困る。薬をやめたら、醜いアヒルの子に逆戻りだ。

 この投稿の内容は、どこまで事実なのだろう。

 いつのまにか、息を止めていた。

「大丈夫っすか?」

 ふいに声をかけられ、しほりは小さく飛び上がった。顔を上げると、蒼空と目が会った。

「顔色、ひどいですよ。手も震えてる。休んだほうがよくないっすか?」

 しほりは、なんとか声を絞り出した。

「……大丈夫です」

 動揺しただけだ。シャキッとしようと思いながら、端末をカウンターに置いたが、震えは止まらなかった。

 蒼空の声が聞こえたのだろう。右隣で資料を呼んでいた瑞月が、しほりを見た。

「どうしました?」

「すみません、ちょっと気分が悪くて……」

 瑞月は、展示用の端末をクロスで磨いていたスタッフを呼び、自分がいた席に座らせると、蒼空に声をかけた。

「お客様、申し訳ございません。隣に移っていただけますか?」

「ああ、はい。そっすね。お大事に」

 蒼空が席を移動すると、瑞月は腰をかがめ、小声でしほりに言った。

「病院に行きましょう。今、タクシーを呼びます」

 いくらなんでも大げさだ。ただ、このまま勤務を続ける気にはならなかった。投稿の内容が、本当かどうか確かめないと不安でしようがない。

 しほりは、あえて弱々しい声を出した。

「念のために早退させてもらっていいですか?」

 今日は予約客が少ないし、スタッフも十分いる。自分一人が抜けても、業務に大きな支障はないはずだ。

 しかし、瑞月は「病院に行くべきだ」と言って譲らなかった。

「私、付き添いますから」

 店長マニュアルに、「体調不良者が出たら医療機関の受診を勧め、必要に応じて付き添うように」とでも書いてあるのだろうか。

「結構です」

「でも、秦野さん、一人暮らしですよね。このまま一人で返すわけには……」

 しつこすぎる。しほりは、うんざりしながら席を立った。

「大丈夫ですから。ご迷惑をおかけしてすみませんが、早退させていただきます」

 瑞月はまだ何か言いたそうだったが、しほりは頭を下げて、カウンターから出た。

 

(第7回につづく)