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2章 アヒルの子

 

 

 水没させたスマートフォンの修理依頼で来店した男性が、カウンター越しに微笑みかけてきた。

「ホンッと助かりました。代替機を用意してもらえるなんて知らなかったから、めちゃくちゃ焦ってたんです」

 男性の美貌は一般人のレベルではなかった。目元は涼しげで、口元は引き締まっている。長身で肌は陶器のようになめらかだ。鈴木蒼空。顔ばかりでなく名前もきれいな人だった。

 いつのまにか相手に見とれているのに気づいて、秦野しほりは慌てて目を伏せた。蒼空は、二十代後半のしほりより少し若そうだ。でも、お客さんだし、そもそも自分なんかにチャンスがあるわけない。

「端末が修理から戻ってきたら、すぐにご連絡します」

 蒼空を送り出して時計を見ると、午後一時過ぎだった。

 このキャリアショップは、新宿区北西部の大通り沿いの雑居ビルの一階に入っている。周辺は住宅街で平日はたいして混雑しないのだが、なぜか今日は混んでいた。開店から現在まで一度も離席できていない。

 まずいなと思いながら、頬を触った。ねっとりした感触があった。しほりは、脂性がひどく、三時間に一度はケアしないと、顔がギトギトになってしまうのだ。

 隣の席にいる年下の店長、森瑞月に小さな声で言った。

「お昼の休憩、行ってきます」

 瑞月はタブレット端末で資料を読みながら、うなずいた。

 瑞月は、一歳下だが、中途入社のしほりより社歴が長い。そして、スマホの知識が豊富で勉強熱心なところを買われ、先月店長に抜擢された。有能なのは認めるが、杓子定規でとっつきにくいところがあり、しほりは彼女が苦手だった。

 腰を上げようとしたとき、店の入口の自動ドアが開いた。

「おっ、いたいた。秦野ちゃん」

 馴れ馴れしい笑みを浮かべながら、サポートサービスの会員、小谷が入ってきた。「アクティブ・シニア」を自称している七十代の男性だ。やや薄い銀髪をきれいに撫でつけ、ドット柄の洒落たシャツを着ている。

 小谷は、週に四、五度はやってくる。会員は一日一回、三十分まで相談可能なので断る理由はなかったが、ここまで頻繁に来られると迷惑だった。しかも、小谷は必ずしほりを指名する。若い女性に自分の博識ぶりを披露するのが好きなのだ。たまには、オプションの一つでも契約してくれれば、話に付き合ってもいいのだが、小谷の財布の紐は堅い。

「申し訳ありません、今日は他のスタッフが対応させていただきます」

「ちょっと教えてもらうだけだから」

 小谷は大股でカウンターに歩み寄ると、しほりの前の席にどっかり腰を下ろした。

「頼むよ、秦野ちゃん」

 しほりは、瑞月を見た。瑞月は艶のない一つ結びの髪を揺らしながら、資料を読み続けている。助けてくれる気はなさそうだ。小谷のほうも、愛想がよくない瑞月を敬遠している。女性はこの二人しかいないので、顔がテカッていても、しほりが選ばれてしまうようだ。

 しかたなく小谷の前の席に座り直した。ハンカチを取り出し、顔を押さえていると、小谷が上機嫌でスマホをカウンターに置いた。

「この写真、よく撮れているでしょ」

 スマホの画面は脂で汚らしく光っていた。フライドチキンでも食べながらスマホをいじったのだろうか。

 それはともかく、紅葉が美しい山と水辺の写真は見事だった。木々の葉は赤、黄、緑、茶など様々な色をしており、まるで錦絵のようなのだ。

 ダム湖だろうか。中国地方にあるしほりの実家は、県内最大のダムまで車で約一時間の距離で、毎年紅葉の季節に家族でドライブに行っていた。そことちょっと似た雰囲気がある。

 興味はあったが、そんな素振りを見せたら、小谷の長話に付き合わされるに決まっている。しほりは、表情を変えずにうなずいた。

「素敵なお写真です。ところで、今日はどうされましたか?」

「那須塩原の深山ダムなんだ。昨日、日帰りでドライブに行ってきてね。東北自動車道を使って片道三時間ちょっとかな。日曜なのに、道が空いてて助かった」

「そうでしたか。ところで……」

「深山ダムは特殊なダムなんだ。ヨウスイ発電って知ってるかい?」

 小谷はしほりの返事を待たずに続けた。

「水を揚げると書くんだよ。ダムの水を標高が高い池に汲み上げて、その水を落として発電する」

 小谷は、「博識だろう」と言わんばかりに小鼻をうごめかしていたが、しほりは腑に落ちなかった。

 水力発電は、高いところにある水を低いところに落としてタービンを回して電気を作る。土木技師の父にそう教わった。しかし、小谷の説明によると揚水発電の場合、わざわざ水を汲み上げてから落とすようなのだ。

 藪蛇だと分かっていても、聞いてしまった。

「水はどうやって汲み上げるんですか?」

 小谷は不意をつかれたように目を瞬くと、視線を左右に動かした。

「それは……。ポンプを使うんじゃない?」

「ポンプは電気で動かしますよね」

 その際に消費する電力が発電量より多いなんてことは、さすがにないだろう。でも、効率はあまりよくなさそうだ。

 そのあたりを知りたかったのに、小谷はシレッと話題を変えた。

「そんなことより、帰りに寄った古民家カフェの雰囲気が最高だったんだ。写真を出すからちょっと待ってて」

 いそいそとスマホを操作し始めたが、雑談タイムはおしまいだ。

「ご用件を伺ってもよろしいですか?」

「コーヒーは自家焙煎してるんだって」

「申し訳ありませんが、この後、予約のお客様もいらっしゃいますので」

 重ねて言うと、小谷はおどけるように肩をすくめた。

「そんな怖い顔をしないで。美人が台無しだ」

 小谷の発言に瑞月が反応して目配せしてきた。今度は助けてくれる気があるようだが、そっと首を横に振った。この程度のセクハラ発言に目くじらを立てていたら、キリがない。埴輪のごとき無表情で、抗議の意を示す。小谷もさすがにまずいと思ったのだろう。やっと用件を切り出した。

「昨日の夜、SNSのアカウントを作ったんだ。今回みたいにいい写真が撮れたら、知らない人にも見てもらいたいじゃない。写真をアップしたら、今朝、早速コメントをつけてくれた女性がいたんだ。プロフィールをのぞいてみたら、かんじのいい人でね。その人に直接メッセージを送りたい」

 アクティブ・シニアは、恋愛にも積極的なようだが、面識のない異性からいきなりメッセージが来たら、相手は引くのではないか。でも、それを指摘するのも野暮だろう。

「どうやるの?」

 スマホを受け取ると、小谷の了承を得て、使い捨てクリーナーで画面を拭いた。

「ええっと、まずコメントをしてくれた人の名前をタップしてください」

 操作は、本人にやってもらうのが原則だ。

 小谷は眼鏡を額に上げ、スマホを操作し始めた。

 しほりは、もう一度ハンカチで顔を押さえた。自分も顔をなおして、すっきりしたい。

 

 小谷を見送った後、いったん店の外に出た。スタッフ用のロッカールームと、二階のテナントと共同で使っている女子トイレは建物の二階にあり、エントランスから建物に入り直す必要があるのだ。

 階段で二階に上がり、カードキーを使って女性用のロッカールームに入った。通勤用のトートバッグをロッカーから出すと、すぐに部屋を出た。バッグには、携帯用のメイクボックス、ハンドタオルなどが入っている。

 昼食はコンビニで何か買って、バックヤードで食べるつもりだったが、まずは顔をなおしたかったので、 バッグを持って廊下の奥にある女子トイレへ向かう。

 手洗い所の鏡をこわごわと見る。無残というほかなかった。

 髪は、顔にかからないよう前髪も含めて結っている。太めのカールアイロンで巻いてボリュームを出しているので、単なるひっつめ髪とは違ってエレガントだ。なのに、顔の脂で垢抜けない雰囲気になる。もっと言えば、不潔ったらしい。

 手洗いボウルの脇の棚にメイクボックスを置いて蓋を開けた。チューブ入りのハンドソープを出して手を洗い、ハンドタオルでしっかり拭く。次に皮脂を吸着するシートを取り出し、額や鼻の周りをそっと押さえる。

 ギラギラした被膜が消え、ようやく人心地がついた。次は保湿用の化粧水だ。保湿を怠ると、肌が乾燥を防ごうとして、脂をどんどん分泌してしまう。さらにその上に乳液を重ねる。油分で蓋をしないと、せっかく与えた水分が逃げてしまうのだ。

 しばし時間を置いて乳液を浸透させたら、皮脂を吸収する作用がある日焼け止めパウダーを薄くはたいて、完成である。

 小谷に聞いた揚水発電の話を思い出した。電気を使って汲み上げた水を再び落として電気を作るとかいう、いかにも効率が悪そうな発電方法だ。

 自分のスキンケアも、それと同じだ。こんなに労力をかけているのに、効果は三、四時間しか持たない。それ以上経つと顔全体が脂まみれになる。この時点でケアをしないと、ニキビができてしまう。一つ二つなら可愛いものだが、顔一面に広がり、悲惨な状態になってしまう。

 だから、勤務中であっても外出先であっても、ケアをするしかない。煩わしいし、お金だってかかる。ポイントメイクは崩れると汚らしいので、ウォータープルーフのマスカラやアイブロウでまつ毛と眉を整え、リップを塗るぐらいしかできない。

 なんでこんな肌質に生まれついてしまったのか……。

 皮脂を吸収するパウダーを肌に乗せ、眉を描いていると、トイレのドアが開いた。入ってきたのは瑞月だった。小学生みたいなショートカットに金属フレームの安っぽい眼鏡。垢抜けないのは、しほりと同じだが、肌がきれいで羨ましい。

 瑞月は呆気にとられたように眉を上げていた。ケア用品がぎっしり詰まったしほりのメイクボックスを見て、驚いたのだろう。「お疲れ様です」と声をかけると、いきなり早口で言い始めた。

「オシャレは個人の自由だし、今は昼休み中だから何をしてもOKです。勤務時間中にトイレに行くのも、短時間なら問題ないです。生理現象はしかたないですから。今の私も、まさにそうですし……。でも、勤務中に化粧直しで長時間離席されるのは困るんです」

「あの、これはオシャレじゃなくて」

「分かります。身だしなみですよね。ただ、程度問題というか……」

 メイクボックスに視線を送ると、瑞月は続けた。

「先月、本社から通達があって、店舗も煙草休憩が禁止になったじゃないですか。煙草休憩はダメだけど化粧休憩はOKというわけにはいかないんです」

 しほりは、そっと唾を飲みこんだ。煙草を吸わないので、自分とは無関係な話だと思っていた。まさかこんな形で飛び火してくるとは。

「あと、接客中にハンカチで顔を拭くのも、マニュアル的にはアウトなので、お客さんから見えないところで、ササッとお願いします」

 そんなことを言われても、お客さんも皮脂も待ってはくれない。でも、どう説明すればいいのだろう。脂性ではない人に、この辛さは分からないのだ。

 しほりの沈黙を不同意と受け取ったのか、瑞月は顔を強張らせた。しかし、意を決するように強い目をすると、さらに続けた。

「言いにくいんですが、秦野さんは、先月も契約目標を達成できていないし……」

 言いにくいと前置きしたくせに、そこまで言うのか……。でも、よく分かった。

 ――仕事ができないくせに、顔のことばかり気にしている。

 そんなふうに思われているのだ。しほりは、みじめな気持ちで頭を下げた。

「すみません。気をつけます」

 瑞月は軽くうなずき、そそくさと個室に向かった。

 しほりは、メイクボックスの蓋を閉めながら、唇を噛んだ。

 人と接するこの仕事を続ける自信がなくなってきた。そして、こんな自分が心底嫌だ。

 

 翌日は専門学校時代の親友、榎本日菜子とランチの約束があった。二人が通っていたのは、宝飾関係の専門学校である。

 日菜子が予約してくれた店は、中目黒にある隠れ家的なカフェだった。約束の時間の五分前に着くと、奥の席に座っていた日菜子が伸びあがるようにして手を振ってきた。

 日菜子は、カジュアルな国産ジュエリーショップで働いている。新妻でもあった。マッチングアプリで知り合った旅行会社勤務の男性と先月入籍したのだ。新婚旅行には行ったが式は行わず、来月の初めに庭付きの一軒家レストランでパーティーを開く予定だ。しほりも、その日に合わせて有休を取得した。

 しほりは日菜子に手を振り返すとともに、トイレのほうを指さした。日菜子が心得顔でうなずく。日菜子はしほりが脂性を気にしているのを知っている。前の会社を辞めたときには、辛い気持ちに寄り添ってくれた、気持ちの優しい友人だ。

 さっぱりした気分で席に着くと、二人で相談して日替わりランチプレートを頼んだ。

 日菜子は独身時代と変わらず、モード感のあるシャツを着ており、若妻らしさはなかった。胸元には、しほりがお祝いにプレゼントしたシルバーとペリドットのネックレスをのぞかせている。久しぶりに彫金の道具を出して自作したものだ。身に着けてもらって嬉しい。

「新婚旅行はどうだった?」

「楽しかったよ。だんなはハワイには仕事で何度も行っているし、英語がしゃべれるから、めちゃくちゃスムーズだった。ただ、円安で何もかも高くて。どうしても欲しかった日本未入荷の指輪は、予定通り買ったけどね」

 日菜子の左手薬指には、アメリカの有名ブランドの指輪が輝いていた。専門学校時代は、同レベルの生活をしていたのに、どうしてここまで差がついたのか。

 理由を考えたら、鬱っぽくなりそうだ。それに、友だちの幸せを素直に喜べる人間でありたい。

「シンプルなのに存在感があって素敵だね。素材の良さとデザインの力かな」

「しほりにそう言ってもらえると嬉しい」

 ランチは、見た目も味もよかった。食べながら、旅行や新生活のあれこれについて話を聞いた。

 デザートのミニケーキとコーヒーが運ばれてくると、日菜子は言った。

「私ばかりしゃべってごめん。しほりは彼氏、できた?」

「ぜんぜん」

 男性からのアプローチは時々あったが、デートに臨んでも顔が気になって落ち着けないのだ。そのせいか、二度目の誘いは皆無だった。最近では、半ば諦めている。

「だったら、今度のパーティーでだんなの友だちを紹介させて。商業カメラマンで、当日の写真撮影をお願いしている人なんだけど、しほりに興味津々みたいだから」

「どういうこと?」

「一昨日、パーティーの打ち合わせをしたの。私ら夫婦とカメラマン氏と、司会をやってくれる私の女友だちの四人で。そのとき、これをつけていったのね」

 日菜子は、ネックレスを指でつまんだ。

「私の友だちが、褒めてくれたんだ。専門学校時代の友だちが作ってくれたって説明して、その場にいたみんなに写真を見せたの。そうしたら、カメラマン氏が是非紹介してほしいって。かんじのいい人だよ」

「私なんか……。それに、そういう気分じゃないかも。仕事、辞めるかもしれなくて」

「そうなんだ。まあ、紹介だけはさせて。それはそれとして、次の仕事は決まってるの? 改めてジュエリー職人を目指すとか?」

「うーん、それはないかな」

「もったいなくない? しほりが今日つけてるリングも卒業制作で作ったものでしょ。やっぱり、めちゃくちゃセンスいいよ」

 ルビーをホワイトゴールドのフレームと組み合わせたものだった。使用したルビーは色が黒っぽい低ランクのものだが、曲線的なフレームと組み合わせ、個性的な印象に仕上げてある。

 しほりはリングを撫でながら、曖昧に微笑んだ。

 ジュエリー職人になりたかったのは本当だ。でも、自分なんかには無理だ。ジュエリーの世界から逃げ出したのだから。

 

(第6回につづく)