今月のベスト・ブック

ブックデザイン=鈴木成一デザイン室
『Z線上のピエタ』
宮内悠介 著
潮出版社
定価 2,200円(税込)
今月のベストは、宮内悠介の3年ぶりの長編『Z線上のピエタ』(潮出版社)だ。宮内が戦時下のウクライナを実際に訪れて綴った作品。ふたりの70代女性が旅するロードノベルであり、氷河期世代の物語でもある。
主人公の新里恭子が、ポーランドの空港に降り立つ場面で物語は始まる。恭子の夫は早逝し、両親も亡くなって、息子の亮が唯一の家族だった。その亮がウクライナ軍の義勇兵として戦死したのだ。亮はなぜウクライナで死んだのか。真相を知るために、恭子はポーランド経由で現地に向かう。そしてキーウの公園で、同じく息子を失ったウクライナ系アメリカ人のミラ・マーティンと出会う。恭子は肺気腫、ミラは糖尿病。持病を抱える高齢の女性たちが、わが子の足跡をたどる。
まず、ミラがホテルでスペイン内戦時代の詩人パブロ・ネルーダの“死んだ義勇兵の母親たちに捧げる歌”を朗読するシーンが印象的だ。恭子はそれを聞いて〈誇りたいのだ。ウクライナに勝利の鐘を鳴らすために闘ったわが子を。それはたぶん、とても自然な感情だろう〉と思う。一方で、完全に賛同できない何かを感じる。恭子の違和感はどこからきているのか本作は丁寧に描いていく。
非合法な手段を用いて国際免許証を作り、レンタカーで検問を無理やり突破した彼女たちが、車を走らせながらボイジャー計画(アメリカの宇宙探査計画)の話をするくだりが素晴らしい。探査機にはゴールデンレコードが搭載され、宇宙に届けるための音楽が入っていた。恭子は車の窓越しに空を見あげながら〈誰もが、ボイジャーみたいな視点を持てたらいいのにね〉と言う。宇宙から見ればウクライナとロシアにほとんど違いはない。それぞれの国の違いがなくなって、帰属意識やアイデンティティもなくなれば、戦争もなくなるのにと考えたのだ。ミラはたとえそれが戦争や紛争の火種であっても〈帰属意識やアイデンティティがなくなったら、わたしたちにはもう何も残らない〉と返す。
連帯できるところとわかりあえないところがある、恭子とミラのシスターフッドがいい。母親たちの語っている帰属意識やアイデンティティの問題が、息子たちを戦地に追いやった息苦しさにもつながっている。
恭子の息子である亮は、1978年生まれ。就職氷河期の時代に大学を卒業した。文系SE(システムエンジニア)になったものの、二年で辞めてアルバイトを転々とした、という経歴を読んで胸が塞がる。わたしは亮より5歳年上だがやはり氷河期世代で、当時数少ない大量採用をしている職種が文系SEだったことを覚えている。過酷な労働環境で病んでしまった人もたくさんいた。亮もそうだったのかもしれない。恭子にとって亮は、誰かの役に立つことに喜びを感じる“やさしい子”だった。ミラの息子のスティーブも“やさしい子”。彼らに何があったのか明らかになる終盤は、いわくいいがたい複雑な感情がわきあがる。恭子にとってもミラにとっても、重すぎる真実が露わになるのだ。
今もなお続いている戦争とアイデンティティの深い関係、大きな喪失を体験した人々の痛みを、抑えた筆致で描いている。
■川上弘美『スナックふたり』
川上弘美の『スナックふたり』(中央公論新社)は、年齢不詳のふたりの女性、司と逸子が営むスナックを舞台にした連作だ。たとえば「一 北酒場」は、最高気温が7度の日にTシャツに半ズボンとビーサン姿の男があらわれるシーンで始まる。彼は毎週水曜日に訪れる常連しーやんの指定席に座り、本家しーやんを名乗る。その正体は実は……という話。次の話を読むと、ああこれはそういう客が来る店なんだなとわかるところが巧い。現実と幻想、生と死のあわいにある、不思議であたたかい世界に引き込まれる。
口を開くたびに自称年齢が変わるママ、個性豊かな常連客の会話も楽しい。落語に出てくる長屋のような、気どらない雰囲気が魅力。スナックに行ってみたくなる。
■一穂ミチ『たぶん、恋しい』
一穂ミチの『たぶん、恋しい』(新潮社)は、多様な“ふたり”の可能性を見せてくれる短編集。全6編を収める。たとえば、「エンパイアライン」は、猫を溺愛し、何よりも優先する女性と付き合う男性が主人公だ。彼女以外、愛猫の姿を見ることはできない。男性は彼女がその猫を飼うに至った事情を尊重して、受け入れるが……。ともに現実を生きるために幻想を共有するふたりの話だ。
「たぶんそんな感じ」は、SNSの炎上が原因で会社を辞めた“わたし”が、高齢者向け施設に入っていた大叔母を一時的に引きとることになる話。大叔母が施設を出なければいけなくなったのは、ある日突然、時間も場所もかまわず口笛を吹くようになったから、というのが面白い。大叔母をかつて暮らしていた田舎の家に連れて行った“わたし”は、彼女のルームメイトに会う。大叔母はなぜ年の離れた赤の他人の男性と同居していたのか。彼女の人生の謎が描かれている。
「わたしたちは平穏」の薄味を好む恋人たち、「月を経る」の更年期を迎えた女性とひとまわり年下の男性、「あなた」の久しぶりに一緒に生活することになって戸惑う夫婦、「すげえ泣くじゃん」の行方不明になった姉とふりまわされる弟。いずれの関係も一筋縄ではいかないけれども、既成概念に縛られていない。こういう人と人のつながり方もあっていいんだ、という希望がある。



