今月のベスト・ブック

装画=須川まきこ
装丁=ミルキィ・イソベ

『典雅な調べに色は娘』
鈴木涼美 
河出書房新社
定価 1,980円(税込)

 

 今回から文芸の紹介ページを担当する石井千湖です。心惹かれた小説の魅力をお届けしていきます。

 

“女の性”や“性の商品化”を軸に幅広いテーマで執筆活動を行う鈴木涼美の初長編『典雅な調べに色は娘』(河出書房新社)は、主人公のカスミがホテルのベッドで光を纏った男の身体を観察するシーンで始まる。著者によれば、“男が勃起しないセックスシーンを描くこと”を意図した官能小説だ。

 

 カスミは27歳の元キャバクラ嬢。疫病禍をきっかけに、祖父のコネを使って大手鉄道グループの子会社に広報担当として入った。〈自分と過ごす時間にお金を払う必要を感じない男は図々しい〉と考えているが、いろんな男と無料で寝る。性行為中、自分が見られていることを意識していない男の無防備な身体と、その生態が精密に描写されている。

 

 例えば、既婚者であるにもかかわらず、カスミに〈最後の恋人になってください〉と言い寄る還暦の環境学者。彼は白髪まじりの毛が鼻の穴から飛び出ていることにも気づかないで、カスミに熱い息を吹きかけ、腰を押しつけてくる。しかも、寝たあとは彼女にピルを飲むように勧める。コンドームをつけたくないからだ。セックス前には少しだけあったカスミの陶酔も、滑稽な男の身体とあつかましいお願いのおかげで消えてしまう。事後に賢者タイムならぬ“詩人タイム”に突入したとか、海外出張のお土産に日本では売っていない歯磨き粉を頼んだら1本だけ買ってきたとか(追加で選んだプレゼントのセンスもすごい)、カスミが男のふるまいにツッコミを入れるくだりには思わずふきだした。

 

 夜職で培われた視点で、昼職における性的な搾取も分析されている。値段はつけられていないのに、勝手に価値を見出され、消費されてしまう。夜にも昼にも完全な自由はない世界で、カスミを生き延びさせるのが女子会だ。夜職時代の先輩でアフターバーを営むランさん、“処女風非処女”と呼んでいる昼職の同僚と、恋愛やセックスについて赤裸々に語り合う。カスミが恋バナにおける“オチ”とは何かを発見するくだりもいい。

 

『デモクラシーのいろは』(角川書店)は、森絵都の6年ぶりの長編小説。舞台は終戦後まもない東京だ。GHQがモデルケースとして四人の若い女性を集め、安定した衣食住と民主主義教育を与えたらどうなるかという実験を行う。教師はロサンゼルス生まれの日系二世リュウ・サクラギ。風変わりな教室の生徒として選ばれたのは、東京生まれで元華族の真島美央子、静岡生まれで実家は農家の近藤孝子、横浜生まれで洋裁店の娘の沼田吉乃、青森生まれで経歴不詳の宮下ヤエ。半年間にわたる民主主義のレッスンを描いていく。

 

 リュウは生まれ育ったアメリカを愛しているが、日系人として差別された経験もある。アメリカン・デモクラシーを全肯定はできない上に、両親の母国である日本への思いも複雑だ。そんなリュウが迷いながらも真摯に、民主主義を教えることに向き合う。戦争に負けてそれまでの善が一転し悪とされ、家や家族を失い、生きるだけで精一杯だった生徒たちに、民主主義の理念はなかなか届かない。宿舎を提供する子爵夫人は、自分の野心のために彼女たちを利用しようとする。それでも悪戦苦闘するうちに、リュウと生徒たちの関係は変化するが……。なかでも授業中に寝てばかりいる問題児で、年齢のわりには妖艶なヤエの背景が明らかになるくだりは痛切だ。

 

 痛切なのだが、自由研究でヤエがあるものを習うくだりなど、コミカルな場面もある。さまざまな騒動が起こって、4人の人生には転機が訪れる。難しいテーマを扱って、600ページを超える大作なのに、一気に読んでしまう魅力がある。結末も爽快だ。

 

『カフェーの帰り道』(東京創元社)は、『襷がけの二人』が直木賞候補となり注目を集めた嶋津輝の最新作。大正末期から昭和20年代、東京・上野の「カフェー西行」で女給として働いた女性たちの物語だ。連作形式になっていて、話によって視点人物が変わる。

 

 例えば、第1話の「稲子のカフェー」は、食堂にすらひとりで行ったことがない稲子が〈竹久夢二の絵みたいな、いやに色っぽい柳腰の美人〉と言われる女給を見るために初めてカフェーに足を踏み入れる。高等女学校の国語教師である夫が、その女給、タイ子の家を訪ねているところを目撃されたのだ。静かだけれども満ち足りた夫婦生活が脅かされ、稲子は不安をおぼえるが、タイ子に実際会ってみると意外な感情がわきあがる。

 

『駐車場のねこ』もそうだが、著者の作品はあらすじを書いても伝わらない部分に妙味がある。淡白だけれども味わい深い、おいしい豆腐みたいな文章で、ステレオタイプではない人間を描きだす。とりわけ惹かれたのは第2話の「噓つき美登里」だ。昭和4年、カフェー西行に、妹小路園子と名乗る新人女給が入ってくる。女給は若いほうが重宝された当時、園子はどう見てもお多福顔の中年女性なのに、堂々と19歳と言って雇われる。何者なのか。子供のころから噓つきだった先輩女給の美登里は、ひょんなことから園子の秘密を知る。フェミニズムを前面に出した作品ではないけれども、なんともいえない解放感がある1編。女給たちの人生の背景に、戦争に向かう日本の歴史がある。『デモクラシーのいろは』とあわせて手にとってほしい。