今月のベスト・ブック

写真=豊永浩平
装幀=川名 潤

『はくしむるち』
豊永浩平 著
講談社
定価 1,980円(税込)

 

 変色してひび割れた壁にスマイルマークと“M78”という文字のカバー写真。いいなと思ったら、撮影したのは著者らしい。『はくしむるち』(講談社)は、デビュー作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』で群像新人文学賞と野間文芸新人賞をダブル受賞した豊永浩平の最新作。現代と戦中戦後の沖縄を行き来しながら、暴力と対峙する若者たちを描く。沖縄語(うちなーぐち)とポップカルチャーに関する固有名詞をふんだんに取り入れ、会話にカギ括弧を使わず、ルビを巧みに用いた文体は、視覚的にも聴覚的にも多彩で濃密。言葉の奔流に吞み込まれるように読んだ。

 

 現代パートで軸になるのは、中村行生という少年だ。行生は大伯父の営む喫茶店「赤インコ」に入り浸っている。「赤インコ」は本と漫画と雑誌が読み放題。大伯父の自宅である2階には大量のDVDとVHSもあり、行生は立派なオタクに成長した。学校でいじめられていた行生は、ある日、転校生の漆間瑞人に助けられる。瑞人は行生にとってヒーローだったが、次第にヤンキー連中とつるむようになっていく。行生はヒーローよりも虐げられるモンスターに惹かれるようになる。

 

 なかでも行生の心に取り憑いたのは『帰ってきたウルトラマン』に登場するムルチだ。友好的な異星人を、地球人が何の理由もなく痛めつけて殺したことであらわれた巨大魚怪獣。ムルチとは、沖縄語で“もどき”のことだ。やがてこのムルチがタイトルの由来になっていることが明らかになる。行生が〈どうして怪獣や、怪物たちは、あれほどまでに人間に迫害されるのだろう?〉と訊くと、大伯父は〈人間はいわば怪物もどき(むるち)であり、逆に怪物もまた人間もどき(むるち)なのだ〉と教えるのだ。“はくし”とはまだ人間もどきでも怪物もどきでもない“白紙”、子どものこと。白紙だった行生と瑞人にその後起こる出来事を知ると痛ましい。ふたりと親しい少女にふりかかる災いもやりきれないけれども、行生がグラフィティに夢中になるくだりは煌めいていて解放感がある。

 

 過去パートは行生の大伯父・修仁の少年時代の話だ。空襲によって焼き払われる那覇の街、防空壕で行われた卒業式、勤皇隊のために屠られた山羊、死んでいった友達……。沖縄という土地の記憶に深く分け入って、豊永が聴きとったさまざまな声は、今もあらゆる場所で終わりなき暴力に傷つけられて生きている人々の声と響きあう。

 

 土地の記憶にまつわる小説といえば、第174回芥川賞にノミネートされた久栖博季『貝殻航路』(文藝春秋)も素晴らしかった。舞台は北海道。語り手の凪は、道東の霧深い港町・釧路に住んでいる。アイヌの血を引く夫のあめみやは、半年前に行き先も告げず家を出た。〈それぞれが法律婚くらいでは容易に混ざり合ったりしない別々の流路を泳いでいる〉夫婦なのだ。凪はあめみやが作った〈貝の殻の家〉という曲を聴きながら、父と貝殻島の灯台のことを思い出す。

 

 貝殻島は水晶島と納沙布岬に囲まれた珸瑶瑁ご よう まい水道の中央に位置する小さな島だ。凪が17歳になった日から、灯台の光は点灯していない。貝殻島は北方領土であり、日本は保守管理ができないのだ。根室海上保安部の公式サイトに、古びて今にも崩れ落ちそうな灯台の写真が掲載されている。この灯台は、凪にとって父の墓標だった。漁師だった父が海に出られなくなったできごとと、日露の領土問題は結びついている。

 

 しかし、領土問題をテーマにした作品というわけではない。凪の家族の歴史、あめみやの家族の歴史、北海道の歴史が、同じ時空において交差しつつも異なる軌跡を描き、寂寥感は漂うけれども魅惑的な風景がいくつも立ち上がる。何度も繰り返し読みたくなる描写がある。凪が森でキノコ狩りをするくだり、納沙布岬の北方館の展望室から貝殻島灯台を見るくだりがとりわけ好きだ。

 

『光雨往来』(KADOKAWA)は、声優としても活躍する池澤春菜の短編集。池澤がこよなく愛し、70回は通っているという台湾の“光と雨”を行き来する5つの物語を収める。“光と影”ではないところがいい。

 

 たとえば「光を飲む」の主人公の名前は、『貝殻航路』と同じ凪だ。凪はある出来事が原因で会社を辞めて台湾に行く。美味しい食べものが目当てだったが、路地裏の小さな店で中国茶と運命的な出合いを遂げる。思いがけない悪意によって心身を傷つけられた女性が、一杯のお茶に希望の光を見出す話だ。

 

 台湾はそんな光を与えてくれる一方で、複雑な歴史を歩んできた土地でもある。その歴史には日本が深く関わっている。「ペトリコール」は、小説を書けなくなった佐野という作家が、各国のアーティストと台湾の藝術村に滞在して創作活動をするプログラムに参加する話。環境を変えても執筆はなかなか進まないが、佐野は近隣の山で雨の日にしかたどり着けない郵便局を見つける。

 

 不思議な郵便局の主な業務は、届かなかった手紙、出されなかった手紙、書かれなかった手紙を読むこと。佐野は日本統治下の台湾で生きていた少女の手紙を読む。手紙には暗く胸が塞がる秘密が隠されている。それを影ではなく雨で表現するところに、池澤の祈りが込められている。雨は空を暗くするけれど、あらゆる動物の渇きを潤す。土に沁み込んで植物を育む。過去と未来をつなぐのだ。