今月のベスト・ブック

装幀=岡本歌織
『海の底に雨は降らない』
上村裕香 著
幻冬舎
定価 1,870円(税込)
ノーベル文学賞作家の莫言のトークイベントに行ったとき、作家の役割は“忘れられない人物をつくること”と語っていた。そういう意味で、今月のベストは上村裕香の『海の底に雨は降らない』(幻冬舎)だ。
20歳の若市光莉が、北九州市門司区の拘置支所から出る場面で物語は始まる。光莉は裁判で懲役2年、執行猶予4年の判決を受けたばかり。罪状は自殺幇助罪だ。光莉は10歳のころから、難病を患う母をひとりで介護していた。その母が自分で首を吊って死ぬのを助けたとして逮捕されたのだ。事件当日に何があったのか思い出せないまま、東京の叔母の家で暮らすことになった光莉は、作家の日比谷ヒビをはじめ、さまざまな人と出会う。
日比谷はヤングケアラーだった実体験を含む当事者小説でデビューした。上村のデビュー作『救われてんじゃねえよ』を想起する。本作は小説を書くことと当事者性の関係を問う。そして、同じヤングケアラーと呼ばれる若い女性であっても、個々の体験はまったく異なるという当たり前のことを浮き彫りにして、光莉が自分だけの“ほんとう”の言葉を手に入れるまでの過程を描いていく。
光莉と日比谷の書くことにまつわる対話も面白いのだが、彼女たちの周りにいる人々、とりわけ叔母が好きだ。ほとんど交流がなかった叔母は、光莉の頰を叩いて〈なんで、お姉ちゃんは死んだの?〉と問い詰める。身元引受人になってくれるが、仏壇の周囲の壁に光莉と母の写真が載った記事のスクラップを貼り、事件を報道したテレビのワイドショーやニュースの映像も録画している。それを見てショックを受けた光莉が両腕を水平に伸ばして川へ飛びこもうとすると〈タイタニック?〉と言う。姪が死のうとしているのに、止めもせずにツッコミを入れるのだ。
叔母は姉が死んだ証拠として記事と映像を集めているらしい。姉の死を理解していても受け入れられるかどうかは別という叔母の心境を聞いた光莉が、アボカドのたとえ話をしたときの反応も傑作だ。叔母はパチ、パチと瞬きをして〈全然ちがうと思う〉と返す。すっぱりとした口調が想像できるように書かれていて、じわじわとおかしい。姉を失った悲しみ、姪に対する後ろめたさと怒りの裏に、シニカルなユーモアを愛する気質が垣間見える。光莉が非正規職員として働くケアホームの技能実習生ウタリさん、ケアホームの利用者のタカコさんも記憶に残る。小説の中に、体温と重さを持って生活する人間がいる。
■鈴木七月『かわりに噓』
第69回メフィスト賞を受賞した鈴木七月の『かわりに噓』(講談社)は、チャーミングな“はぐれ者”たちに出会える小説だ。スマホのリマインダーに約700件の心配事を登録している大学生の夏目が、祖母の死をきっかけに住処を失い、“東京のおばさん”の家に居候する。まず、宇曽川ひかりという名前のおばさんにまつわる噂がすごい。
とんでもない浪費癖とかはありがちだが、ホストクラブで毎週サグラダ・ファミリアみたいなシャンパンタワーをやっているとか、女子十二楽坊の元メンバーだとか、リヴァイというコードネームで強盗団を仕切っているとか、突拍子もないのである。宇曽川本人に会ってみれば、呼吸するように噓をつく。おまけに家には絶対に開けてはいけないドアがあって怪異も起こる。夏目は近所のサンドイッチ専門店でアルバイトをするが、そこでも妙な問題に巻き込まれる。オフビートな文体で夏目の心配事にあふれた日常を描く。
一応、あらすじを説明してみたものの、つかみどころがない話だ。先の展開を予想しながら読んでも、つるつると逃げていく感じ。メフィスト賞と言えばミステリーのイメージがあるが、どんなジャンルにもおさまらない。噓と心配というネガティブにとらえられがちなもので愉快な世界をつくっている。
■松尾スズキ『海辺の独裁者』
『海辺の独裁者』(朝日新聞出版)は、劇団「大人計画」の主宰としても知られる松尾スズキの短編集。19歳のときメキシコのバンドのギタリストに恋をしてすべてを捨てた日本人女性が、南米の海辺の街に流れ着き独裁者の伝記を書く表題作、芥川龍之介の「藪の中」を彷彿とさせる「それぞれの言い分」、ある夫婦の崩壊を描いた「ものまねのある風景」など、11編を収める。いずれも人間の業を煮詰めたような話だ。
たとえば、「明智光秀」。主人公は中古車販売会社の営業マン。独身で友人もいない彼の唯一の生きがいは、クイズ番組の再現ドラマに明智光秀役で出ることだった。エキストラの中でも外見に特徴が乏しかったおかげで、光秀役に抜擢されることが多かったのだ。たった1回、エキストラではなく俳優として光秀を演じたいと涙ぐましい努力をする彼の悲惨な末路を滑稽な筆致で描いている。
「オランダ人たち」もよかった。65歳で定年を迎えた主人公が〈この会社に何の悔いもない。悔いがないから未練もない〉と思う場面で始まる。彼はなにもかもに感謝して、妻と帝国ホテルに泊まり、退職祝いにもらった葉巻を吸う。凡庸な男に見える。オランダ人たちが登場する気配は一切ない。しかし、その後の展開に啞然とした。正常と異常の境界なんてないのだと思う。
すべての収録作がグロテスクなのにどこか清々しさを感じるのは、松尾の文章の切れ味がよいからだろう。どんな不幸も絶望もバサッと断ち切られ、ふっと笑いが漏れる。



