今月のベスト・ブック

『目立った傷や汚れなし』
児玉雨子 著
河出書房新社
定価 1,870円(税込)
趣味で集めているレトロな万年筆やオタクグッズを買うときにフリマアプリを何度か利用したことがある。“短い間ではございますが、よろしくお願いします”という定型の挨拶文をはじめ、取引に独特のルールがあって印象的だった。作詞家としても活躍する児玉雨子の最新作『目立った傷や汚れなし』(河出書房新社)は、そのフリマアプリでおなじみの注意書きをタイトルにした小説だ。
主人公の翠は30代の会社員。夫の拓実が適応障害と診断されて休職したことをきっかけに、フリマアプリ「メチャカイ」で不要品を売るようになる。生活費の足しにするためだったが、ものを売ること自体にのめりこみはじめたある日、翠は「メチャカイ」を使ったせどりサークルにスカウトされる。
せどりとは、相場より安く販売されているものを買い取って適正価格で売ることだ。翠が参加したサークルのメンバーは全員女性。お互いの背景はほとんど知らず、郊外の量販店に行って大量にものを仕入れる“電撃”活動のときだけ集まる。リーダーの家で仕入れたものにみんなでバーコードを貼り付ける場面は和やかだ。それぞれが生活のなかで抱えている不安や鬱屈から自由になれる避難所のような共同体。しかし、その避難所は些細な“傷”が引き金となって綻びていく。
正社員の共働き夫婦でも、ちょっとつまずけば東京都内のマンションに住めなくなるかもしれない。収入が減っても、購買にふりまわされてしまう。翠の閉塞感の背景には、資本主義にもとづいた消費社会がある。その消費社会を象徴するバーコードについて語った文章がとりわけ素晴らしかった。
〈このまばらな黒い線の束は、私をその向こうにある大きな連関へ引き摺り込もうとする、ひとつの裂け目だ。私はここから世界と接続してきた。見知らぬ他者が作り、見知らぬ他者が価格を設定し、見知らぬ他者が配送し、見知らぬ他者が売り、私が購入して、そして見知らぬ他者に売り渡すように、あらゆる世界への入り口になる〉というくだり。バーコードを通じてつながる人々の抵抗が、パンチラインの効いた言葉で描かれている。ラストシーンも鮮烈だ。
『弔いのひ』(新潮社)は、『ここはすべての夜明けまえ』で第11回ハヤカワSFコンテスト特別賞を受賞してデビューした間宮改衣の第2作だ。永遠に老化しない手術を受けた「わたし」が家族の歴史を語る前作は、幅広い読者の注目を集めた。
『弔いのひ』は、版元のプレスリリースによれば“私小説”らしい。主人公の織香が作家としてデビューするまでの出来事と、2作目を生み出せない苦悩、亡き父のことを書こうと決めるまでの経緯をふりかえる話だ。父は織香が中学生のときに多発性骨髄腫を発症し、家族と離れて暮らしていた。一時期は寛解したが、コロナ禍の最中にがんが再発して65年の生涯を閉じた。織香は父のことをほとんど知らず、母とも折り合いが悪い。福岡の大学を卒業したあと故郷の大分には帰らず、病院の事務を辞めて夫と一緒に東京に引っ越したことも、ゲームのシナリオライターになったことも伝えていなかった。ところが、大伯母と伯母を通じて死期がせまる父とメールのやりとりをすることに……。
読みながら思い出したのは、SNSでたまにバズっている“さす九”だ。“さすが九州”の略で、九州における男尊女卑を告発・揶揄する言葉。わたしも九州、佐賀県の出身で、“さす九”案件を見かけるたびに、共感と反発が混ざりあった複雑な感情がわきあがる。その単語だけではこぼれ落ちてしまう息苦しさが本書には描かれているのだ。
“自分がしゃべりたいことしかしゃべれんDJ”みたいな人で、何をしてもうまくいかなかったけれども、男だから大伯母や伯母に大切にされていた織香の父。“女は手に職”“自立できるようになりなさい”が口癖だった織香の母。織香より約20歳上のわたしも、“女は手に職”“自立できるようになりなさい”と言い聞かされて育った。わたしは本を読むことで、その呪いから少し解放されたと思う。地域性別を問わず人間を抑圧する社会で、過去を書いて弔うことが、織香の光になればと祈らずにはいられない。
栗原知子の『フェイスウォッシュ・ネクロマンシー』(筑摩書房)の表題作は、第41回太宰治賞受賞作品だ。主人公の「私」は、40代のパート主婦。中学生の息子の不登校に悩んでいる。「私」は愛用のスクラブを買いに行った店ですすめられた洗顔料を試した日を境に、祖母の霊を降ろせるようになってしまう。洗顔料によって角質が除去され明るくなった手の肌が、老いても手が美しかった祖母を召喚するのだ。「私」はそのうち手の皮膚だけではなく生活のターンオーバーをひらめき、重曹でいろんなものを磨きまくる。なんともユニークな話だ。自分のことしか見えていなかった「私」が、祖母の人生に思いをはせるところもいい。
併録された「森と百式─みっちゃん(43)の場合」は、受験生の娘と四十肩を抱えるみっちゃんがテレビで見た鎮守の森を忘れられなくなる話。「百式」はガンダムのプラモデルの名前だ。題材は日常的なのに組み合わせが斬新で、文体はのびのびとしている。詩人でもある栗原の見逃せない個性。ぜひ読んで確かめてみてほしい。



