今月のベスト・ブック

『時の家』
鳥山まこと 著
講談社
定価 2,090円(税込)
「文芸」において、やはり大事なのは文章である。というわけで、今月のベストに選んだのは、鳥山まことの『時の家』(講談社)。第47回野間文芸新人賞受賞作であり、第147回芥川賞にもノミネートされている作品だ。著者と妻は建築士でもあり、一緒に自宅を設計したという。
取り壊される予定の空き家に忍び込んだ青年のスケッチによって、かつてそこで暮らしていた三代の“住まい手”の人生が浮かび上がる。妻が亡くなったあとにその家を建てた建築士の藪さん、夫の赴任先のマレーシアから一人で帰ってきてその家で数学塾を開いていた緑さん、コロナ禍が始まったときその家に夫と一緒に住んでいた圭さん。それぞれの“愛”にまつわる記憶が描かれる。
静かな小説だが、日光に照らされ熱くなった銅板屋根、白く汚れた窓ガラス、大きな木製の玄関扉、色の濃いナラの木のフローリング、籐が巻かれたダイニングの丸柱など、建築士が意匠を凝らして造った家のディテールを読んでいるだけで喜びがある。風変わりな比喩があるとか、強烈な個性のある文体ではない。絵画で言う“マチエール”、言葉の肌合いにひきつけられる文章なのだ。
とりわけ青年が白い壁を見るくだりに引き込まれた。〈小指よりも小さいえぐれた窪み。白の平面のその小さな窪みにだけ律儀に深い影ができている。窪みを見つめながら青年は壁に近づいてゆく。距離がなくなってゆくにつれて壁全体が自ら明度を落としてゆくように見えた。間近までやってくるとそこに自分の形とは言い切れないほどぼんやりとした影が映った〉。この白い壁がスクリーンのように、過ぎ去った時を映し出す。大切な人を喪った登場人物の〈そもそも死んでしまったことと長く会えないことって、どう違うんやろ〉という問いかけ、引用されている谷川俊太郎の詩も忘れがたい。
『時の家』と同じく、第一四七回芥川賞候補作になった坂本湾のデビュー作『BOXBOXBOXBOX』(河出書房新社)は、宅配所で荷物を仕分ける作業員をカメラで俯瞰するような視点で描いた小説。第62回文藝賞受賞作でもあるが、選考委員の小川哲と村田沙耶香が揃って“不気味”という言葉を使って評価している。あの二人に不気味と言われるなんて、期待しかないではないか。
主な登場人物は、必要最低限の時間だけ労働することにしている安、肺を患って余命いくばくもない妻のために働く斉藤、次の派遣先が決まるまでの生活費を稼がなければいけない新人の稲森、作業現場を監督する契約社員の神代の4人。作業員たちはベルトコンベアに流れてくる無数の荷物の中から割り振られた番号の箱をとりあげて、指定されたレーンに載せかえる。学生時代、わたしは似たようなアルバイトをしたことがあって、それなりに面白かったおぼえがある。送り先や箱の中身が好奇心をかきたてたからだ。安も箱に何が入っているか想像して楽しんでいるが、ある日“人間サイズの箱”の中身を知る機会が訪れる。その後、安の行動は逸脱していく。
次第にこの配送所は何なのだろうかという疑問がわいてくる。屋内のはずなのに霧がたちこめていて、その霧はどんどん濃くなるのだ。おまけに荷物が次々と消える。作業員が集団で見ている幻覚なのか、それとも現実なのか。〈霧のなかで働く人々は誰もが希薄になる。輪郭が滲み出し、どの体もぼんやりとした白色のなかにある。作業員は箱たちの使い魔となり溶けていく〉というくだりが印象的だ。この作家の箱には、まだまだ未知数の可能性が詰まっていそうだと感じる。
『黄金比の縁』や『ミスター・チームリーダー』など、独自性の高い“お仕事小説”で注目を集める石田夏穂の最新作『緑十字のエース』(双葉社)も素晴らしかった。主人公の浜地は、大手デベロッパーの正社員だったが、左遷されたことをきっかけに自己都合退職し、中堅ゼネコンの契約社員になったばかり。前職では建設工事の費用を算出する積算部門の部長で、丸の内のオフィスビルで働いていた。ところが、転職先では田舎のショッピングモールの建設工事現場に配属されてしまう。浜地は家族にも転職したことを言えず、外のトイレでオーダーメイドのスーツから作業着に着替えて、新しい職場に通うが……。
タイトルの“緑十字”は安全と衛生を象徴するマーク。“エース”は、現場の安全衛生管理責任者で、浜地の教育担当になる松本のことだろう。工事チームに煙たがられても厳しく安全指導する松本を見て、浜地の脳裏に転職の引き金になったある出来事の記憶がよみがえる。読みながら想起したのは、一時期大流行した“現場猫”だ。緑十字のヘルメットをかぶった猫のキャラクターが、“ヨシ!”と指差し確認している。全然安全じゃないのに良いことにしているというシニカルなミームだ。工事現場にかぎらず、そういう惰性による見逃しが頻繁に起こっているからこそ、現場猫は爆発的に広まったのだろう。
泥まみれになりつつエリート意識を捨てられない浜地の独白とか、工期を遅らせる疫病神として恐れられている松本が水虫を恐れるくだりとか、細部はリアルでおかしみがあるけれども、結末は背筋が寒くなる。挫折した中年男性の再出発の物語にはおさまらない、いびつで不穏なところが魅力だ。



