今月のベスト・ブック

装幀=大久保明子
『悪い血』
鈴木涼美 著
文藝春秋
定価 1,870円(税込)
第175回の芥川賞候補作は、どの作品が受賞してもおかしくないほどハイレベルだった。本稿の執筆時点では、まだ発表前だが自分が選考委員だとしたら、受賞作は鈴木涼美の『悪い血』(文藝春秋)にするだろう。40歳を前に妊娠した茜が、産院で採取された血液を取り戻すため、深夜の街を歩く。“選択”と“間違い”をめぐる小説だ。
同棲中の恋人は妊娠を喜んでいるのに、茜が血を奪還したいのは、検査をすればどんな問題が見つかるかわからないから。産院へ向かいながら、茜は自らの過去をふりかえっていく。高校を中退し、“酷い生活”を送っていたこと。堕胎や流産の経験もあること。いずれも、茜が積極的に選んだことではない。〈心的な痛みの有無を考えるより前に身体的な痛みがあり、それが止むころには災難が通り過ぎたという心境になっていた。むしろそこに遺恨がないこと自体が、因だけがあって果のないような、罪だけがあって罰がないような私の人生を象徴する経験の内の1つにはなっているのかもしれない〉という。つまり、茜は間違い続けてきた自分の人生の“果”と“罰”を確定させたくないのだ。だから病院に着いた後どうするかは考えず、無駄足になる可能性の高い道をサンダルで歩く。ビジュー付きのストラップが食い込んで痛い部分に入っている十字架のタトゥーも相まって、茜は苦行に耐える聖人のようだ。
といっても、贖罪の話ではないし、罪をなかったことにする話でもない。〈私は男でもないし女でもないし性なんてたいしたことじゃないしどこまでも私なのだ、と、高らかに宣う人がこれだけいる世界で、どうして私はどこまでいっても退屈で愚鈍な女体でしかないのだろう〉という茜の述懐が刺さる。身体から自由になることは難しい。とりわけ女性の場合は。女に生まれただけで身体に金銭的な価値をつけられ、売ろうが売るまいが歳をとったら勝手に値段を下げられてしまう。望まなくても妊娠することがあり、妊婦として正しい身体かどうか点検される。そんな女体をがんじがらめにする因果律から、なんとか逃れて生き延びようとする人を鈴木は描いてきた。本作も例外ではない。終盤にある人物が現れて茜と会話したとき、おためごかしではない救いに触れた気がした。
■仁科斂『丹心/まごころ』
芥川賞候補作のなかでは『丹心/まごころ』(新潮社)も熱烈に推したい。著者の仁科斂は、東京生まれ、香港・上海・ロンドン育ち。東京大学大学院でハンナ・アーレントと折口信夫を研究し、日本の哲学書の英訳も手がける新鋭だ。鹿野川航という建築家が中国から英文メールを受け取る場面で本作は始まる。寧波郊外にある建築途中で打ち棄てられた集合マンション棟を美術館に設計し直してくれないかという依頼だった。美術館設計はすべての建築家にとって最終の夢。鹿野川は喜んでその仕事を引き受け、指導学生で中国語が話せるレンを助手として現地に派遣する。まず心惹かれるのは“爛尾楼(ランウェイロウ)”と呼ばれる廃墟マンションだ。爛尾楼は工事の尻尾が腐った楼閣という意味。〈鉄筋コンクリートの骨組みだけ、ときに数十基も固まって、タテヨコの規則正しく交差するグレーの板で空間をしまい込んでいる。骨組みさえも打ち終わらなかったものでは、屋上から鉄筋がぼうぼうと老夫の髪のように突きでているものもある〉という。未完成のまま放置された建物に、前金を払った人たちが無理やり内外装を施して住み着いているらしい。かつて香港にあった九龍城を思い出した。寧波に行ったレンは、依頼主のミスQから、美術館着工前に25戸を立ち退きさせないといけないと聞かされるが……。
タイトルの丹心(まごころ)はレンが好きな〈人生自古誰無死 留取丹心照汗青〉という詩が由来。これは文天祥という南宋の宰相が、国が滅亡する前に作った詩の結句だ。文天祥は捕虜になっても敵の将軍の命令を拒んだ。そして〈どうせ人間は死ぬんだから、せめて生きているうち、まごころを以て歴史を照らそう〉という言葉を残す。日本経済は衰退し、中国地方財政は腐敗しているなかで、歴史を照らそうとする人間の滑稽だけれど純粋なまごころが本作には描かれている。
■村司侑『ソリティアおじさんがいた頃』
もう一作、芥川賞候補作のなかで好きだったのが、村司侑の『ソリティアおじさんがいた頃』(文藝春秋)だ。京都にある老舗の味噌製造会社で働く瑠奈が、心のなかで“ソリティアおじさん”と呼んでいた元社員のお通夜に行く。ほとんど仕事せずカードゲームのソリティアにふけっていたこと以外はよく知らないおじさんの人生に思いを馳せながら、瑠奈は自分と恋人の“手詰まり”した関係を考える。数少ないソリティアおじさんの記憶をよみがえらせるうちに、おじさんがいざというときは助けてくれる人だったことを発見するくだりがいい。初めて会議で意見を求められて戸惑った瑠奈は、おじさんのおかげで〈一目置かれるじゃないけど、やるやん、というわけでもないけど、いていいと思われたような感じ〉になったのだ。でも、亡くなるまでそのことを忘れていた。そういうことってあるよな、と思う。
人の死を語っているにもかかわらず、やわらかい京都弁のせいか、登場人物がみんな鷹揚なせいか、読むこと自体に歓びがある。お通夜のシーンも楽しい。他の候補作とまったく違う色合いの小説だ。



