かつて「いつか来るかもしれない未来の夢」として描かれていたSF小説のAIは、今や私たちの日常に最も身近な存在となった。ChatGPTの台頭、そして2026年現在の生成AIを巡る法整備や声優による提訴の動きなど、現実の進化スピードはかつてのSF作家たちの想像をも追い越しつつある。
そんな「今、ここにあるリアル」と地続きの2044年を舞台に描かれたのが、気鋭の才能が放つ話題作『沈没船で眠りたい』だ。
書評家・大矢博子さんの解説で『沈没船で眠りたい』の読みどころをご紹介します。
かつてAIを扱った小説は、SFだった。
アイザック・アシモフ『われはロボット』(一九五〇)に始まり、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(一九六八)、ジェイムズ・P・ホーガン『未来の二つの顔』(一九七九)、グレッグ・イーガン『順列都市』(一九九四)などなど。人は作中でAIに翻弄され、AIと戦い、その中で人間たる自我を見つめてきた。前世紀の読者にとって、人工知能は「いつか来るかもしれない未来」ではあったが、まだ想像の範疇を超えない、夢の話でもあった。
しかし、現実は何度もSFに追いついてきた。アイザック・アシモフが「SF作家は避けられない未来を予見する。問題や災害は避けられないことかもしれないが、解決策はそうではない」と語ったように、今世紀に入り、AIはぐっと身近になった。特にここ数年の進化は目覚ましい。SF小説の世界でもAIとの共存、あるいは「どう使うか」が大きく扱われるようになる。テッド・チャン『息吹』(二〇一九)、カズオ・イシグロ『クララとおひさま』(二〇二一)、長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(二〇二二)などなど。
人間の警視と犯罪捜査に特化したAIがバディを組むというジョー・キャラハン『瞬きすら許さない』(二〇二三)に至っては、現時点では実現されていない技術が登場するにもかかわらず、もはやSFではなく「そうそう、AIを仕事に使うってこうだよね」という「今のリアルな物語」として読めてしまうのだ。
私自身はSFプロパーではないので、もっと詳しい人であればさらにたくさんの作品を思いつくだろう。AIはすでに「得体の知れないSFガジェット」ではなく、「そこに普通にあって、使い方さえ間違わなければ便利なもの」になった。それに従い、前世紀からSF作家たちがAIというモチーフを通して追求してきた人間たる自我の在処についても、現代ならではのアプローチが誕生したと言える。
本書『沈没船で眠りたい』は、自我とは何かを現代的な目線で考えさせる「今」だからこそのAI小説であるとともに、SFプロパーではない私をも魅了した残酷なまでに切ない究極のシスターフッド小説である。
物語の舞台は二〇四四年。
AIが高度に発達し、多くの仕事を機械がこなすようになった時代だ。そのため雇用が減少しているとして「反機械」を標榜する団体が機械の打ち壊しなどの暴動に及んでいた。ついに死傷者を出した暴動の中、ひとりの女子大生がある「機械」を胸に抱いて海に飛び込んだ。
救助された女子大生・奥平千鶴は反機械団体の一員であり、暴動の首謀者である有村の恋人ではないかと疑われていた。警察は彼女が機械を海に不法投棄したという名目で逮捕し、有村の情報を得ようとする。だが千鶴は暴動や団体への関与は素直に認める一方で、「機械の不法投棄」だけは断固として否定した。カメラで一部始終が撮影され、実際にその「機械」の残骸が回収されているにもかかわらず、である。これはどういうことか?
物語はここから三年前に遡る。千鶴は幼い頃の事故で顔に傷が残り、そのコンプレックスから孤立した学生生活を送っていた。そんな時、颯爽として明るい美人の美住悠と知り合う。自分とは正反対の悠に最初は反発するが、次第にふたりは互いになくてはならない友人になっていく。しかしそんな時、悠にある悲劇が降りかかって……。
まず目を引くのが二〇四〇年代という近未来の描写だ。近未来を舞台に、今はまだ実現していない技術に支えられた社会を描くのだから本書がSFであることは間違いない。だがそれが圧倒的にリアルなのである。今のままAIの技術が進んでいけばこうなるに違いないと思わせる「地続き感」がそこかしこに満ちている。
ピアス型の情報端末、電子接続される高性能な義肢、ドローンによる監視システムといった物質文化のみならず、機械化による人間の雇用の減少とそれに対する反発や、知的作業をAIに任せることで高等教育を受ける人が減少したといったような社会のあり方。容易く予想できる未来がここにある。たとえば、作中でAIクリエイティブ(生成AI)の台頭により起きた問題を語る以下のセリフをご覧いただきたい。
〈絵描きは絵柄を、小説家は文体を、歌手は歌声を、声優は声質そのものを奪われた。まるでそれが公共物かのようにね。AIは仕事のみならず、個性や技術、その人の歴史さえ奪ったんだ。また、それらを利用して販売業界は儲けているのに、表現者自体にはお金が入らず、食べていけなくなった。(中略)黎明期にしかるべき法整備を進めておくべきだったんだ〉
著者が本書を執筆したのは二〇二二年の終わりから二〇二三年の初めにかけてだそうだが(まさにChatGPTが一気に台頭してきたときだ)、その後、生成AIによる著作権侵害の事例が次々と報告され大きな問題になったのはご存知の通り。現実が早すぎる。私が本稿を書いている二〇二六年五月には、声優が生成AIによる声の無断利用を提訴した。二〇四〇年代の話ではなく、今の話である。作中人物の言う〈黎明期にしかるべき法整備〉が今まさに急がれているところだ。
このように説得力あふれる世界観の中、冒頭の場面で刑事が忙しすぎて〈除夜の鐘がいつ鳴ったのかも定かではない〉と考える場面が妙に面白い。高度に機械化された近未来だけど、除夜の鐘はあるんだ! それも機械化された自動制御なのか。それでは煩悩は払えそうにないなあ、などと想像してしまった。宗教心もなく、機械で自動的についてもそれは除夜の鐘と言えるのかな?
実は、こちらこそが本書のテーマなのである。
ここまでページ数を費やして小説におけるAIについて語ってきたが、本書においてAIはテーマを補完するための材料に過ぎない。本書の根幹たるテーマは、構成する要素が変わった場合それはどこまで「それ」と言えるかという点だ。
本書に何度も登場する「テセウスの船」という言葉がある。ある物体を構成する部品がすべて入れ替わったら、それは以前の物体と同じものと言えるか否かという有名なパラドックスだ。本書はそれを人間で考えさせるのである。
本書にはあらゆるものが代替可能として描かれる。だが、構成メンバーの変わったバンドは以前のバンドと同じか。離婚と再婚で夫を「とっかえひっかえ」しても同じ家族と言えるか。団体のメンバーや名前が変わったら、それは同じ団体なのか。たとえば大失恋をして物の見方がまったく変わってしまったとしたら過去の自分と今の自分は同一なのか。
現実でも同様のことは多々ある。たとえば私の暮らす名古屋市では、名古屋城の復元にあたってエレベーターをつけるかという問題が何年も議論されてきた。当時存在しなかったものをつけるのは復元ではないという意見と、そもそも現在建て直すこと自体、当時と同じものではないという意見がぶつかった。「テセウスの城」である。
家族、団体、建物……町や国家にも同じことが言える。中でも特に注目すべきは「人」だ。作中では後半の展開になるので詳しく書くわけにはいかないが、たとえば自分のこととして想像してみてほしい。あなたの大事な人が事故で姿形が変わってしまったり記憶を失ってしまったりしたら、それは以前の「その人」と同じ人と思えるだろうか。現在でも体の欠損は義肢で、臓器は移植で代替できる。では脳は? 記憶は? それが進んでいったら、どこまでが「その人」と言えるだろう。これもまた、認知症や高次脳機能障害など、私たちが現実に直面することのある問題だ。
本書は、その問題に「歴史」という言葉を用いてひとつの解を与えている。これは非常に納得のいく、すとんと腹の底に落ちる解釈だった。
物語が進むにつれて、なぜ千鶴が傍目にも明らかな「機械の不法投棄」だけは頑として否認したか、その理由がわかってくる。その激しさ、その切なさをどうか存分に味わっていただきたい。あらゆるものが機械で代替されるようになった時代を背景に、この物語は、その人をその人たらしめているものは何か、すべてが変わりゆく世界にあって変わらないものは何かを問いかけている。残酷なまでのラストは、早すぎる科学技術の進歩に対する人間の慟哭かもしれない。だが同時に、千鶴と悠のシスターフッドは過去から連綿と続く「既存のものへの抵抗と解放」の象徴とも言える。このふたりの強固な連帯は、本書を貫く大きな核であるとともに、読者へのエンパワーメントでもあるのだ。
AIと人間の自我というSFの一大テーマに連なる作品ではあるが、SFファンだけでなく、現代に生きるすべての人に届いてほしい物語だ。SFには縁がなかったという人にもぜひ読んでほしい。本書にはそれだけの普遍性と力がある。自信を持ってお薦めする。
蛇足ながら、本書に登場する実在の小説について補足しておく。
三十七ページで有村が持っている『祈りの海』はグレッグ・イーガンの短編集。有村の新団体の名称「SAVE R62」は阿部公房の短編「R62号の発明」が由来。
悠が千鶴に貸した六冊の小説は順に、堀晃『太陽風交点』、ジェイムズ・ティプリトリー・Jr『たったひとつの冴えたやり方』、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』、グレッグ・イーガン「ぼくになることを」(『祈りの海』所収)、ジェイムズ・ティプリトリー・Jr「接続された女」(『愛はさだめ、さだめは死』所収)、ロバート・A・ハインライン『夏への扉』。
中でも特に、「ぼくになることを」と「接続された女」は本書と併せてお読みいただきたい名作である。物語の解像度がぐっと上がるはずだ。