「父の悪行には、理由があり、封印紐の持ち主はその秘密を知っているそうだ」織田信長に敗れた混乱の中で、信玄の娘・松姫は兄・勝頼から父の犯した愚行を知らされる。真実を知るために馬に乗る松姫。そして辿り着いた誰も知らない父の真の姿とは──。
「小説推理」2026年7月号に掲載された書評家・末國善己さんのレビューで『風林火山のむすめ』の読みどころをご紹介します。

■『風林火山のむすめ』木下昌輝 /末國善己 [評]
武田信玄の娘が父の真意を追う物語は、連続活劇と知的興奮に満ちている
昨年『愚道一休』で渡辺淳一文学賞と新田次郎文学賞を受賞した木下昌輝の新作は、娘の松姫が亡父・武田信玄は何者だったかに迫る歴史ミステリーである。
松姫は織田信長の嫡男・信忠と婚約中だが、なぜか信玄は信長の同盟者・徳川家康を攻め陣中で没した。武田家を継いだ勝頼は、信長に追い詰められていく。
勝頼は松姫に、信玄は五種の封印紐を五人の家臣に渡し悪行の真実を語ったが、その一人は自分だという。松姫は、元能役者で物資を管理する蔵前衆をしている藤十郎と封印紐を持つ残りの四人を捜し始める。
信玄の娘らしく馬術と武術が得意な松姫は、武田家に恨みを抱き道鬼坊ら凄腕の忍びを率いる長岌に執拗に狙われ、落日の武田家を見限り離反した敵味方不明の武士や落ち武者狩りにも行く手を阻まれる。封印紐を五つ集めると信玄の宝の在処が分かるとの噂が流れ有力大名も加わる争奪戦は熾烈を極め、息詰まるサスペンスと派手なアクションには引き込まれるだろう。
松姫が調べる信玄の悪行は、若い頃に北条勢に対し城を捨て逃げたこと、父の信虎を追放したこと、諏訪家を攻め敵将の娘を側室にしたこと(この側室が、勝頼の母)、信長を裏切り戦を仕掛けたこと、勝頼を嫡男の信勝が家を継ぐまでの陣代扱いしたことの五つ。
松姫の調査で、有名な逸話の裏側が明らかになるので、歴史に詳しい読者ほど驚きが大きいはずだ。
山国の甲斐を治める武田家は、常に塩の入手に苦労していた。太平洋沿岸部を支配する今川家が国境を封鎖すると、信濃、越後などの商人が塩の価格を吊り上げ、武田家でさえ塩を手に入れるのが難しくなる。この状況は、ホルムズ海峡の封鎖で石油とその関連商品が値上がりし生活に影響が出始めている現代日本と重なるだけに、生々しく感じられるのではないか。
やがて信玄は、欲望を充足させるために戦争をする社会、家臣の意識を変えようとしたことが判明。松姫は、信玄以前の武田家と同じ方針の信長と対峙する。この構図は改革の難しさを突き付けているのである。