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老婆に誘われたベネトナシュがたどり着いたその場所は、まるで墓場でした。
「ここが、お前の母と話した場所だよ」
老婆の言葉に、ベネトナシュはぐるりと部屋を見回しました。
色あせたタペストリーや古びた絨毯は確かに上質ではありますが、この国の女王が過ごすには質素すぎるものです。ベネトナシュが今身に付けている着物の帯飾りや、上着の刺繍に縫い込まれている宝石の二、三で、この部屋の調度をあつらえ直すことができるでしょう。それに、長いこと使われていなかったようで、空気穴があるにもかかわらず、部屋には埃のにおいがこもっています。
無理もないことではありました。ここは地下深くにひっそりと作られた、王族のための霊廟の一室なのですから。
「図書守様」
ベネトナシュの呼びかけに、絨毯に腰を下ろした老婆は大儀そうに顔を上げました。長く日の光を浴びることなく過ごした肌は、加齢による黒ずみも加わって、青黒く澱んでいます。
図書守の位にあるこの老婆は、砂の国の図書館の主です。過去のすべての知識と知恵と歴史の集大成である図書館の場所を知るのは、女王とわずかな腹心のみ。図書守はその秘密を守るため、死ぬまで外に出ることも人に会うこともなく、許されるのは女王との書簡だけなのです──女王が死んだ時を除いて。
ですから、王族であるベネトナシュでさえも、図書守の老婆と顔を合わせたのはこれが初めてのことでした。初対面の老婆に誘われるままについてきたのには、理由がありました。
「聞かせてください。真実を……母のことを」
「焦るんじゃないよ。まずは座ったらどうだい」
老婆は宥めるように言って、自分の隣を叩きました。いそいそとベネトナシュが腰を下ろすと、その焦りを笑うように、老婆は浅く息を吐きました。
「お前は、母をどれほど覚えているんだい」
「巷の噂話と、それほど変わりません」
ベネトナシュは、先代の女王であった生みの母をあまり知りません。ベネトナシュを産んだ時、母は五十に手が届く年齢でした。そのために、赤子の世話はすべて乳母と召使に任されていたのです。
母は時折ベネトナシュのもとを訪れ、痩せた膝の上で甘やかし、しわがれた子守唄を歌ってくれました。その目に宿っていた愛情を疑ったことはありませんでしたが、母と長く言葉を交わした記憶もないのでした。
「そうかい」
老婆は喉を鳴らしてから、眩しそうに目を細めました。
「お前の肌と目の色は女王によく似ている。だけど顔はそうでもないね」
「父に似たのだろうと、皆、言います。誰なのかは知りませんが」
いつも言われることなので、応えにも慣れていました。ベネトナシュは父に会ったことはなく、その名前すら知らされていませんでした。
「父親ね」
老婆はもごもごと繰り返して、しばらく沈黙し――おもむろに、話し始めました。
さて、何から話したものかね。
お前の母は、第百二十九代女王アガベ・マミラリア・オベスム――歴代の中で最も美しく、最も淫蕩な女王だった。おっと、これは子どもの前で使っていい言葉じゃないか。でもお前だって知っているだろう。女王の子どもたちは全員、父親違いだってことくらいはね。
お前は年老いてからの女王しか知らないだろうが、若い頃の女王はそれはそれは美しかった。流砂のように滑らかな肌、夜のようにしっとりと黒い髪、そこにぽっかりと浮かんだ満月の瞳、それに金の弦を弾くかのような愛らしい声。ヴェール越しでも目を奪われる家臣が後を絶たなくて、何人もクビにされたものだった。女王が即位したのは十七の時で、あまりに神々しい女王の姿に、民衆は熱狂し祝祭は三日三晩終わらなかった。
それほど周りに歓迎された即位だったけれど――実際のところ、そうなることなんて誰も予測していなかった。女王は次女だったから、王位を継ぐのは姉のほうだろうと、皆思っていたのさ。別段そうと決まっているわけではなかったけれども、それまでずっと歳の順に王位は受け継がれてきたから。それにアガベは聡明で勉強家で、将来は玉座につくよりも政治家になりたいと常々言い回っていた。
妹に比べると、姉は随分と凡庸だったね。別に頭が悪いってことはないが、良くもない。堅苦しい勉学よりも煌びやかな衣装に、小難しい議論よりも愛の歌に、年老いた学者よりも美しい男に心惹かれる、ごくありふれた少女だった。
しかし、女王に向いているのは明らかに姉のほうだった。国を治めるのは官僚や政治家の仕事で女王はただの飾り物、ただ後継をしっかり産んでくれればよいと、そういう風にしてこの国は回ってきた。女王は多くの男を愛人にして、できるだけ違う血を引く子どもを産むことだけを望まれた。そうすれば血が濃くなるのを防ぐことができるし、何より色恋に夢中にさせておけば、政治に口を出されずに済むからね。
そういうわけだから――姉のほうは、いつか女王になったらどんなに美しい衣装を纏いどんなに素晴らしい享楽の日々を過ごすのだろうと夢見ていたし、妹のほうはどんな風に自分の手でこの国を良くしていけるだろうかと夢を描いていた。
姉妹の仲は、良いとはいえなかった。姉は堅物の妹を理解しなかったし、妹は欲望に踊らされる姉を軽蔑していた。「姉さんはもう少し頭を使ったらどう?」「あなたは殿方に愛される口の利き方を学ぶべきね」――そんな皮肉の応酬は日常茶飯事で、ある意味では、収まるべきところに収まるような二人だった。
それが、一変した。
王位の後継に指名された夜、妹は朝まで泣き喚いた。
違う違う違う、わたしが望んだ未来はこんなものじゃない! 名ばかりの玉座に押し込められて、媚びへつらいながら蔑み馬鹿にする視線に耐え、男に股を開くために努力してきたわけじゃない!
妹のほうが女王に指名されたのは、官僚たちの陰謀だった。何しろ、妹は聡明すぎた。長く世襲を続けてきた官僚や家臣たちが、賄賂や横領でしこたま儲けているのを、齢十五になる前から見抜いていた。自分が成人したらそうはさせまいと、まだ幼い牙を隠すこともしなかった。それをうとましく思った連中が、余計な口を出される前に、お飾りの玉座に押し込めることにしたというわけだ。
無力な少女は、周りの大人たちに宥めすかされ、あれよあれよと祭り上げられ、女王の叫びは誰の心にも届かないまま、虚しく鳴り響くばかりだった。
だから、女王は――お前の母は、自分の生涯をかけて復讐することにしたのさ。何よりも望まれた、己の胎を使ってね。
ところで、お前は何人目の子どもだったかね。ほう、十三人目か。まったく、女王も気張ったものだ。
お前の兄さんや姉さんたちは、立派なものだった。長男のペヨーテは、王都エルドラドの長官にして事務総長、この国で五指に入る権力者に上り詰めた。三男のヤトロファは財務大臣、四男のエピテランサは国軍の副司令官だ。娘たちだって負けてやしない。長女のロフォフォラは経済特区計画の副長官、次女のコピアポアは司法大臣。四女のエケベリアと五女のヘルテリーの双子は、揃って最高裁判所の判事ときたものだ。
女王は見事にやり遂げた。多くの男を愛人に選び、たくさんの子を産み、何人もこの国の中枢に食い込ませた。ほかの子どもたちもそこそこの地位について、孫も大勢生まれた。
そして女王は、我が子一人ひとりにささやいた。「お前こそ、この国を統べるにふさわしい」とね。何度も何度も、何年もかけて刷り込んだ。
母親としての愛情から? この国の安寧のため? いいや、違うよ。
寵愛と権力を競わせるためさ。自分が死んだ後、子どもたちに血で血を洗う闘争を起こさせ、国を乱れさせ、疲弊させ、滅ぼすためさ。
信じられないかい? だけど実際、その通りになっただろう?
ペヨーテは地方で反乱軍を指揮し、ヤトロファは病死とされているが実際は毒で暗殺され、エピテランサは東の隣国に亡命して復権の機会を狙っている。ロフォフォラは北の蛮族と密約を結んで領土を割譲し、エケベリアとヘルテリーは行方不明だ。
お前は、ほかのきょうだいたちと十以上も歳が離れて幼いから、見逃されただけさ。国民には伏せられているけれども、この国の内部はとっくにぼろぼろに腐り果てて、いつ崩れ落ちてもおかしくないんだよ。
女王にとって子どもたちは、愛しい我が子でも国を託す後継者でもなかった。己から夢も希望も、すべてを奪い取ったこの国への、復讐と怨念の刃でしかなかった。
そしてその最後の一振りが、お前だよ、ベネトナシュ。
ああ、お前はやっぱり母親似だね。聡明で、無力で、幼すぎるところが、よく似ている。
お前の目の前で、この国は終わる。そのために、お前は生まれたんだ。
そしてあたしは、それを見届けるためにこの歳まで生き抜いた。
この国を見守る図書守として――じゃない。
第百二十九代女王アガベ・マミラリア・オベスムの――この地獄を生み出した女王の、姉としてね。
老婆は長い語りを終えました。
しばしの沈黙の後、ベネトナシュはようやく、口を開きました。
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『暗夜に君と星をたどる』は全4回で連日公開予定