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 家のカギはかかっていた。昴が小学生の頃は、在宅時でも必ず施錠するよう言い聞かせたが、最近はカギをかけないことのほうが多かった。帰宅していないということか。
「昴! いるのー!? いないのー!?」
 カギを開け、玄関先から叫ぶ。リビング、ダイニング、風呂場、トイレ。一階にはいなかった。
「昴ー! いるのー?」
 二階に向かって大きな声を出しながら階段をあがる。去年まではいつもリビングで寝転んでいた息子だったが、最近はもっぱら二階の自室で過ごすことが多くなっていた。
 昴の部屋はもぬけの殻だった。天井を仰いで部屋を出ようとしたとき、あれ? と思った。なにかがおかしい。もう一度部屋を見回す。
「あっ」
 ハンガーに制服がかけてあった。朋聖学園のエンブレムが入った紺色のブレザー、深緑を基調としたチェック柄のズボン。えんじ色のネクタイ。
「いったん帰ってきたんだ……」
 みゆきは今朝、いつも通りに昴を送り出した。弁当を手渡し、いってらっしゃいと声をかけた。昴は「いってきます」と出て行った。おかしな様子はひとつもなかった。いつもと同じ朝だった。
「あっ、お弁当箱」
 慌てて下におりて台所を確認したが、弁当箱は見当たらなかった。
 昴は学校に行くフリをして家を出て、戻ってきて私服に着替え、弁当持参でどこかへ行ったのだ。
 みゆきは再度二階にかけ上がり、昴の部屋をくまなく調べた。書き置きはない。すべてを把握しているわけではないが、洋服は減っていないような気がした。昴が気に入っている長袖Tシャツが見当たらなかったが、それを着て出て行ったのかもしれない。下着も少ないような気がしたが、数えているわけではないので定かではない。あきらかにないのは、日頃使っているリュック、財布、スマホ。
「ほうっ……」
 息を吐き出し、ぺたりと座り込む。ひとまず安心したのだった。昴は自分の意思で出て行った。まだ完全に事件性がないとは言い切れないが、少なくとも無理矢理連れ去られたわけではなさそうだ。夫にも連絡を入れなくていいだろう。
 昴が通う朋聖学園中等部は、中高一貫の進学校だ。合格したとき、みゆきはそれまでの人生でいちばんうれしかった。ひょっとしたら、昴が生まれた瞬間よりうれしかったかもしれない。昴は四〇〇〇グラム超えの巨大児で、それはそれは大変なお産だった。なんとか息子をひねり出したときは、うれしいというよりも終わってホッとしたという気持ちのほうが大きかった。
 中学受験のため、連日遅くまで塾があった。みゆきは小学生の息子を励まし、ときに叱り、ときに抱きしめ、二人三脚で受験に挑んだ。合格がわかったときは、大人げなく声をあげて泣いてしまったほどだ。
 朋聖はたのしいと言っていた。気の合う友達もたくさんできた。部活のバドミントンにも燃えている。お母さん、毎朝早起きしてお弁当作ってくれてありがとう、と。
 それなのに、こんなふうに無断で学校を休むなんて。一体なにがあったというのか。みゆきは一刻も早く本人の口から、理由を聞きたかった。

「ただいま」
 午後七時半。夫の範太郎のり た ろうが帰ってきた。昴とはまだ連絡が取れていない。
 あれからみゆきは不安と心配と怒りで落ち着かないまま、家中に掃除機をかけ、風呂場のタイルをこすり、トイレを隅々まで拭き、台所のシンクをぴかぴかに磨き上げた。じっとしていられなかった。その合間に、昴の部屋を何度も点検した。昴が帰ってくるかと思うと、おちおち買い物に出ることもできなかった。
「おかえりなさい」
 みゆきの声はひどく不機嫌に響いた。夫の「ただいま」に応えないわけにはいかないと思って、返したまでだ。
 昴が家にいるときのみ、みゆきと範太郎の間に「ただいま」「おかえり」の挨拶が成り立つ。「おはよう」「おやすみ」「いってきます」「いってらっしゃい」も同様だ。昴の不在時、みゆきと範太郎の間に挨拶というものは存在しない。
 その他の会話についても、最低限の連絡事項だけを簡潔に伝えるのみだ。ここ数年、家庭内別居ともいえる状態が続いていると言っていい。
 この時間はたいてい、昴がテレビを観ているので、夫は昴がリビングにいるものと思って「ただいま」と言ったのだろう。
 しんとしたリビングに足を踏み入れた夫は、「ただいま」を言ったことを後悔するように、かすかに顔をゆがめた。昴はまだ帰ってないのか、とごまかすような半笑いでつぶやく。
「どこにいるかわからないのよ」
 仕方なくみゆきは言った。ひさしぶりの連絡事項以外の会話だ。昴は二人の子であることに間違いないのだから、夫にも知る権利はある。
「学校じゃないのか。部活だろ」
 と言ったあと、夫はすかさずテレビの電源を入れた。二人きりで話すことが気詰まりなのは、範太郎も同じなのだろう。
 それにしても、中三のこの時期になっても、まだ子どもの部活動の日程を把握していないのかとため息がもれる。毎週木曜日はバドミントン部は休みだ。これまで何度も伝えてきたし、夫のほうから聞かれれば、そのつど答えてきた。
「あの子、今日、学校を無断で休んだのよ」
「えっ?」
「電話にも出ないし、LINEも既読にならない」
 みゆきはテレビ画面をにらみながら、範太郎に伝えた。
「無断でって、サボったってことか?」
 と、そのときふいに、大きな破裂音がしてびくっとみゆきの肩が持ち上がった。範太郎が笑ったのだった。
「でもまあ!」
 ずいぶんと大きな声だ。ついでに裏返っている。ひさしぶりの会話に、調子が狂ったのかもしれない。
「男だし心配ないだろ。友達とどこかで遊んでるんだな、きっと」
 ネクタイを緩めながら、夫が言う。
 みゆきは、しずかに息を吐き出した。一人息子の性格をまるでわかってない。昴は、友達と遊びたいからと、学校をサボるような真似はしない。友達となら、放課後や学校のない日にいくらでも遊べるからだ。

 

きときと夫婦旅』​は全3回で連日公開予定