一 旅のはじまり
安納みゆきがその電話に気付いたのは、四月二十二日、木曜日、午後四時のことだった。
午後から集中して取りかかっていた仕事が一段落し、みゆきは席を立ってドリンクコーナーへと向かった。自販機でドリップコーヒーを買って、ようやくひと息つけると椅子に腰かけようとしたところ、ヒップポケットに入れっぱなしになっていたスマホが背もたれに引っかかった。落とす前にと、スマホを引き抜いたその瞬間、画面が光ったのだった。
〈朋聖学園中等部〉
と表示されていた。息子が通っている中学校だ。
「はい、もしもし」
むろん普段は、仕事中に私用の電話など取ることはない。が、このときは無意識で通話ボタンを押していた。学校からの電話に朗報はない。そのままにしておけるわけがなかった。ついでに、よそいきの声も出た。
「あっ、ああ、えっと、すみません。安納さんのお電話でよろしいでしょうか。こちら、朋聖学園中等部三年D組の桃田です」
ワンコールで取ったせいか、準備が整っていないような桃ちゃん先生の第一声だった。みゆきと同世代の男性教諭。担当は数学。縁があるのか、一年、二年、三年と、昴の担任である。
「お世話になっております」
中学校からの電話は、これで二度目だ。一度目は昨年。体育の授業中、足首をひねって捻挫したという連絡を、やはり桃ちゃん先生からもらった。桃田先生のことを生徒たちは桃ちゃん、もしくは桃太郎と呼んでいるらしく、みゆきも便乗して桃ちゃん先生と呼ばせてもらっている。
あと一時間半で終業時刻。体調不良だろうか、もしくはケガでもしたのだろうか。不安が頭をよぎりながらも、すぐに退社しなければならない案件でないことを祈りつつ、身構える。
「今日、昴くんはどうされましたか?」
「は?」
どうされましたか? とはどういう意味だろうか。
「今日お休みされましたが、連絡がなかったもので」
「えっ」
この刹那、みゆきの頭はこれまでにないほどめまぐるしく働いた。自分が小学一年生のとき、補助輪なしの自転車で転びそうになり、固いアスファルトに顔を打ち付けるか、道路脇の有刺鉄線に手をかけるかの、究極の二択を迫られたとき以来の選択といってよかった。
「あっ、ああ! す、すみません!」
とっさに謝った。昴がズル休みしたほうに賭けたのだった。
「ご連絡するのをすっかり失念しておりました。昨夜から少し風邪気味で、今朝も少し熱っぽかったので休ませたんです」
スルスルと嘘が出る自分に、我ながら驚く。
「そうでしたか。いえね、昴くんに限ってサボるなんてことはまず考えられませんし、おそらく連絡されるのをお忘れになったのだろうとは思っていました。お母さまもお忙しいと思いますので、仕方ないです」
ぐぐっ、と言葉に詰まる。
「ご、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
なんとか言葉をつなぎ、呆然としたまま通話を切った。口に含んだコーヒーは、なんの味もしなかった。
みゆきの勤め先は、福光堂という全国チェーンの書店だ。三年前から本部勤務となり、在庫管理業務を行っている。データ集計と発注が主な仕事で、日がな一日パソコンの前だ。
店舗勤務のときは重たい本の持ち運びや書棚整理で腰痛に悩まされていたが、今は長時間同じ体勢でいることによる弊害で腰を痛めている。かかりつけの整体の先生からは、筋肉をつけましょうと何年も言われ続けているが、ジムやらヨガやらに通ったりランニングしたりする時間があったら、家でゆっくりと本を読んだり映画を観たりしたかった。
そんなみゆきは今、競歩選手のように大きく腕を振り、これまでにない足の運びで突進するかのごとく駅に向かっていた。一歩踏み出すごとに、ふくらはぎにぴりっとした痛みを感じるほどだ。
結局みゆきは、桃ちゃん先生との電話ののち、会社を早引きしたのだった。半休扱いになってしまうが、そのまま仕事を続けられるほど神経が太くもなかったし、辛抱強くもなかった。
耳から湯気が出ているのではないかと思うほど猛烈な勢いで歩きながら、桃ちゃん先生、もっと早く連絡してよ、と鼻息荒く思う。生徒が学校に来なかったら、すぐに保護者に報告して然るべきだ。なにかあったらどうするのだ。事件や事故に巻き込まれた可能性だってあるのだ。
そう思いつつも、みゆきはさっきの電話で、事件、事故の可能性をいったん排除した。事故だったらとっくに連絡が来ているだろうし、事件の可能性も低いと考えた。小学生だったらともかく、昴は中三男子だ。電車の乗り継ぎはあるが、家から一時間ほどで学校に着く。通学路に危険な箇所は思い浮かばないし、人の多い朝の時間帯に誘拐されることもまずないだろう。
それよりも、昴が学校を無断欠席した可能性のほうが高いと考えたのだった。ひとまず桃ちゃん先生には、欠席の連絡を入れるのをうっかり忘れたことにした。
それにしても、桃ちゃん先生からの電話のタイミングが惜しい。どうせだったら、終業時間の五時半以降にしてほしかった。みゆきは見当違いの腹立たしさを桃ちゃん先生にぶつけて、なんとか己を保つ。
昴が学校をサボった? 無断欠席? あの子にかぎってありえない。絶対になにか理由があったのだ。重大ななにかが……。
みゆきは、このことを夫に連絡すべきか悩んだ。連絡するというのは、不安を共有したり、どうしたらいいだろうかと頼りたいからではない。もし万が一なにかがあった場合、あとからみゆきだけが責めを負わされるのが嫌だからだ。ほら見ろ、すぐに連絡しないからだ、と言わんばかりの嫌みをよこす夫が目に浮かぶ。
みゆきは、夫に連絡した場合と連絡しなかった場合をそれぞれシミュレーションしたのち、連絡しないことに決めた。夫に電話をするというストレスフルな行動を、今は避けたかった。頭は、昴が無断で学校を休んだことだけでキャパオーバーだ。まずは帰宅して、なにか気になることがあったら連絡すればいい。
みゆきは、さっきから何度もかけている昴のスマホに再度電話を入れた。
「んもうっ、なんで出ないのよ」
声が大きかったのか、近くにいた年配の男性がじろりと見た。みゆきがにらみ返すと、男性は大げさに肩をすくめた。
『きときと夫婦旅』は全3回で連日公開予定