「もしもし」
「え……あの、鳴海さんの携帯でよろしいですか」
一瞬口ごもったのちに、そう口にする。若い、とても若い男の声だった。
「そうですが」
「あの、母がそちらに行っていませんか?」
間違い電話だろうか。失礼ですが、と言いかけたわたしの声を、男は「失礼しました。南雲栄輝と申します。あの、私のことを覚えていますか」と遮る。
「栄輝、さん」
あの頃のように「栄輝」と呼びそうになって、あわてて「さん」をつけた。商工会ニュースに載っていた写真の顔を思い出す。髪質や目元には五歳の頃の面影があったが、声は当然のごとく違っている。
「はい」
おひさしぶりです、と言ったが、それ以上言葉が続かなかった。栄輝はなにも言わない。昔懐かしい知り合いと無駄話をするためにかけてきたわけではなさそうだ。そういえば、母がどうとか、さっき言っていた。
「彌栄……お母さんがどうかしたんですか?」
「家にいないんです」
会社から帰ってきたらいなかった、家の周りを捜したが見つからない、というようなことを、栄輝は感情の読み取れない早口で説明した。
「だから、もしかしたらあなたに会いにいったんじゃないかな、と思って」
わたしが栄輝とその母である彌栄子さんに最後に会ったのは、もう二十年も前のことだ。わたしの電話番号はその頃使っていた二つ折りの携帯電話の番号を引き継いでいて、だから連絡先として残っていたとしてもべつに不思議ではないが、彌栄子さんが家にいないという理由でわたしに電話をかけてくるのはどうにも不自然だった。
「会いにくるわけないでしょう」
二度と会わないと、他ならぬ彌栄子さんが言ったのだ。栄輝がため息をつくのが聞こえた。
「でも、あなたは母の大事な」
言葉が途切れ、しばらく沈黙が続いた。あなたは母の大事な、なんなのだろう。そう思った直後に栄輝が「あなたは母の、大事なものを盗んだ人間だから」と吐き捨てた。
「泥棒でしょ、あなたは。だから取り返しにいったのかと思ったんですよ、昔盗まれたものを……じゃあ、母はそっちには行ってないんですね?」
ただならぬ気配を察知して、暖が隣にやってきた。わたしの手をとり、心配そうにのぞきこんでくる。
視界が一瞬まっくらになり、またゆっくりと光が戻ってきた。スマートフォン越しに、栄輝の押し殺したような、やや苦しげな息遣いが聞こえてくる。食べかけの夕飯をのせたテーブルがやけに遠く感じられた。
ステンレスの洗い桶にためた水に洗剤をたらす。人工的な青色が、水の中でゆらゆらと広がりながら落ちていった。
「いない」ってどういうことだろう。数時間前の電話のやりとりを反芻しながら、わたしは食器洗い用のスポンジをつかんだ。
母がそちらに行っていませんか?
――ママは? どこに行ったの?
電話の声と、二十年前の甲高く幼い声が重なった。
無意識のうちに、スポンジをかたく握りしめてしまっていた。シンクに垂れるしずくでそのことに気がつく。考えたってしかたがない、と自分に言い聞かせて、食器を洗いはじめる。
暖はもう寝ただろうか。さっきまで聞こえていたテレビの音が聞こえない。
一緒に暮らしはじめた頃、テレビをどこに置くかで、ちょっとした口論になりかけた。暖はベッドの傍に置きたいと主張し、わたしは食事をしながらテレビを見たいので食卓に近い場所でなければこまると反論した。暖は自分はテレビをつけっぱなしにしないと眠れないと言いはり、最終的にわたしが折れた。けんかをしてまで食事中にテレビが見たいわけではなかったし、暖がそんなふうに自分の意見を強く主張するのはとてもめずらしいことだったからだ。テレビは今でも寝室にある。
暖には父親がいない。生まれた時からいなかった。母親は昼も夜も家にいなくてほとんど一人で過ごしたという。家で留守番をする時は、いつでもテレビをつけっぱなしにしていた。この話をすると多くの人は勝手に憤ったり同情したりして、ひどい母親だ、あなたは複雑な家庭環境で育ったかわいそうな人だ、という趣旨の発言をする。でも暖は自分の母親をそんなにひどい人だと思ったことはないし、じつのところなにひとつ複雑ではなかったと言う。ただ金がなかったから昼夜を問わず働くしかなかっただけ。ただ無知だっただけ。ただ弱かっただけ。
わたしは暖の母に会ったことがない。暖が十七歳の時、酔って駅の階段から落ちて、それが原因で死んだと聞いている。
わたしには両親がいる。きょうだいにいたっては、四人もいる。妹がふたり、弟がふたり。
実家の父とは血の繋がりがない。母はわたしの父であった男性と婚姻中に、弟の宏海の父親である男性と肉体関係を結び、それが原因で離婚した。
宏海の父親とは結婚せず、数年後に別の男性と結婚した。この人が、わたしが「お父さん」と呼ぶ男性だ。
母は子どもに全員「海」に関係のある名をつけた。鳴海、宏海、凪、波、洋。父は愛情深く、嘘のつけない人だ。愛情深いからわたしと宏海を実子同然にかわいがり、嘘がつけないから無意識に「実子同然」は実子そのものではない、という思いをわずかに態度や表情に滲み出させてしまう。
わたしは十八歳で、宏海は高校を中退して十六歳で家を出た。
このあいだ用があって実家に電話をしたら、母から「市の健康診断でお父ちゃんの血圧が高かったので心配だ、もしあの人に先立たれたらどうすればいいのかわからない」という、母にとっては深刻な、しかしわたしにとってはものすごくどうでもいい話を延々と聞かされた。いいかげんな相槌を打ちながら、この人ほどさびしがり屋な人間を、わたしは他に知らない、と思った。ひとりでいることをとにかく恐れ、愛するよりも愛されたがる。母にとっては配偶者も五人の子どもも、孤独な心を守るための緩衝材に過ぎないのかもしれない。
暖と同様、わたしの育った家庭もまた、赤の他人に勝手に同情されがちだ。「あなたのように機能不全な家庭で育った人は」と決めつけられたことも少なくない。そんなにひどくない、ちゃんと幸せな記憶もある、と主張すればするほど、わたしは「不幸な生い立ちゆえに事実を正しく認識できない人」としてあつかわれる。
食器洗いを終え、ふきんでシンクを拭き上げてから歯を磨き、ベッドにもぐりこんだ。暖は壁のほうを向いて寝入っていた。規則正しく上下する背中に目を凝らし、たっぷり一時間ほどもかけてようやく、わたしは自分が眠れないでいる、という事実を認めた。
こういう時、人は酒に頼るのかもしれない。でもあいにく、わたしも暖も酒をほとんど飲まない。足音を立てないように台所に戻り、ポットからマグカップに直接注いだ湯を飲んだ。電気は消したまま、冷蔵庫を背にして床に座りこむ。
どれぐらいそうしていただろう。「眠れないの?」という暖の声がした。暖はスウェットのポケットに手をつっこんで立ち、わたしを見下ろしていた。わたしがなにか答える前にトイレに消えたが、ベッドには戻らずにわたしの隣に腰を下ろした。
「なに飲んでんの?」
「お湯」
お湯、と繰り返して、暖が小さく吹き出した。
「白湯とか、湯冷ましとか、もうちょっとましな言いかたあるでしょ」
白湯は、美容や健康に気を遣っている人が飲むものではないのだろうか。ぞんざいにポットから注いだだけのこれを白湯と呼んだら、一緒にするなと思われそうだ。湯冷ましについては、たんにその単語が思い浮かばなかった。説明するのが面倒なので「いいんだよ、わたしが飲むのは『お湯』で」と応えた。
暖は小さく頷いた。眠たがっているようにも、すこしおもしろがっているようにも見えた。その曖昧な表情のまま「彌栄子さんの家、行ってみたら。明日、もう今日か。仕事帰りにでも」などと言い出す。
「行けるわけないでしょ」
「どうして」
「二度と会わないって言われたんだって」
「もう二十年も前の話でしょうが、それは」
わたしはマグカップに視線を落として「泥棒」と呟く。
「え?」
「さっき、電話でそう言われた」
立ち上がり、押し入れの戸を開ける。チョコレートの箱を取り出し、暖に見せた。細長い、平たい箱だ。えんじ色で、金色の文字が書かれているがわたしには読めない。わたしはジュエリーボックスというものを持っていない。蓋を開けると、箱の中には真珠のネックレスが入っている。三連の真珠の中央にカメオが配置されている。身につけたことは、あれ以来一度もなかった。箱から取り出してみたことすら。
「きれいだね」
暖は真珠には手を触れずに、立ち上がる。
「今日の夕方、女の人が来てたでしょ?」
財布を手に戻ってきて、一枚の名刺を取り出した。磯川麗菜、という名前のななめ上に、わたしの知らない会社名が記載されている。
磯川麗菜は、自分は南雲栄輝の婚約者である、と言ったのだという。婚約者でした、と言うべきなのかも、と言い直すなり泣き出して、暖を狼狽させた。
「なんで家に来たの?」
「鳴海ちゃんがどんな人なのか、確かめたかったんだって」
「どういう意味?」
栄輝は父親の死後まもなく、調査会社を使ってわたしの居所を調べていたのだという。磯川麗菜はその報告書を盗み見て、この家を訪ねてきた。
「栄輝さんがそこまでして捜しあてたい女性が、どんな人なのか気になって。お父さんが亡くなってから、栄輝さんは様子がおかしくなりました。婚約も解消したいって言い出して。そのことと、鳴海さんという女性にはなにか関わりがあるのではないですか?」と、彼女は言ったという。
南雲忠雄が亡くなったのは商工会ニュースによると六月六日、死因は誤嚥性肺炎だった。
「栄輝くん……なつかしいね。あの子に、鉄棒を教えたよね」
昔のことを思い出しているのか、暖が視線を空中に走らせる。
「栄輝くんと彌栄子さん、なにか困ってるんじゃないかな?」
助けてあげたら、と暖は言うが、わたしには、栄輝が自分に助けを求めているとはどうしても思えないのだった。
泥棒、と言った声が、泥のようにこびりついて耳から離れない。
そろそろ寝ないと、明日の仕事に支障が出る。でも暖はおそらくわたしの返事を聞くまで、ずっとこうしているつもりなのだろう。
「電話する」
短くないあいだ黙りこんだ末に、わたしは言った。
「明日、電話する。あの子に来てもいいって言われたら、行く。それでいいでしょ?」
暖は頷いて、わたしの手からマグカップをとる。ひとくち飲んで、冷めちゃってるね、と呟いた。
この続きは、書籍にてお楽しみください