『ヘルスアンドウェルネス』で働きはじめる以前は、商店街の惣菜屋に勤めていた。中年の夫婦が営む店だったが繁盛しており、従業員を六人も雇っていた。従業員は五十代の女性が多く、当時三十代のわたしは小娘扱いだったが、それが心地よかった。パートタイマー同士も仲が良く、平和だった。夫が厨房に立ち、妻が接客その他をとりまとめる。ずっとこの店で働きたい、そう思っていた。しかし妻が初老の客と道ならぬ恋に落ちてしまい、平和な世界とわたしの願いはもろくも崩壊してしまった。
ばれるのばれないのばれたの、別れるの別れないの別れられないの、すったもんだの末に夫が相手の男の家に乗りこんで包丁を振り回すことになった。けが人は出なかったが噂が噂を呼び、客足は遠のいた。惣菜屋は閉店を余儀なくされた。
相手の男は毎日のようにハンバーグ弁当を買いに来ていた男だった。パートの従業員たちのあいだでは「ハン・バーグ侯爵」と呼ばれていた。灰色の髪に銀縁眼鏡、柔和な笑みを絶やさぬ上品な見た目の男だった。われわれパートタイマーに接する際にも丁寧で、親切だった。今思えば、愛人の前でいいかっこうをしたかっただけかもしれないが、さすが爵位を与えられるだけのことはある。まあ、やっていたことは最低なのだが。
あの頃はよかったな。スーパーマーケットの惣菜売り場をうろうろしながら、わたしは過去の思い出をこねまわす。なにがいいって、毎日売れ残りを持って帰れたことだ。毎日毎日「今日の夕飯なんにしようかな」と頭を悩ませずに済むのがどれほど幸福だったか、失ってはじめて気づいた。
惣菜売り場のパックのほとんどに値引きシールが貼られているが、わたしの食べたいものはそこにない。正確に言うと、自分はなにが食べたいのかぜんぜんわからない。チキンカツの衣はしなびていて、しかも誰かが一度手にとってまた戻しでもしたのか、すみっコぐらしかよと思うぐらい端っこに寄っている。カルビ弁当の牛肉の脂は白くかたまって、見ているだけで胃がむかついてくる。豆腐、豆腐でいいんじゃないかな、と口の中で呟きながら惣菜売り場を離れた。
家では夫の暖が米を研ぎ、わたしの帰宅時間に合わせて炊き上がるようにセットしてくれているはずだ。あたたかいご飯に豆腐をのせて、刻んだネギと鰹節をたっぷりかけて、醤油をじゃっとまわしかける、というのはどうだろう。暑くて食欲が出ない日の定番の昼食だ。それで腹を満たすには、今のわたしはあまりにも空腹過ぎる気がするが、ほかに思いつかないし、もうそれでいい。
だがあいにく、豆腐は売り切れだった。いつも買っているものより五十円高い豆腐なら残っているが、買いたくない。いや買えない。そもそも豆腐ってこんなに高かっただろうか。卵も野菜も肉もなにもかも、思わず値札を二度見どころか五度見してしまうような金額が記載されている。
豆腐の隣はチルド食品で、米も高いし麺類でもいいかなと眺めていたら、うどん玉の隣にしゅうまいのパックが並んでいた。安い。高級豆腐のせいで一時的に感覚がおかしくなっているのかもしれないが、十二個入りでこの値段はどう考えても安い。
安いしゅうまいはね、ごま油で焼くといいよ。いつか、誰かがそう言っていた。誰だっけ。あ、あの人か。惣菜屋の妻だ。その後彼女は結局侯爵夫人にはならなかったと聞くが、今頃どうしているだろう。
しゅうまいの入った袋をぶら提げて、家に帰る。わたしと暖の住む家は一戸建ての借家で、同じような家が四軒、川沿いに並んでいる。
どの家にもいちおう、庭がついている。野菜や花を育てている人もいれば、草ぼうぼうの荒れ放題にしている人もいる。うちはどちらでもなくて、洗濯ものを干すためのただの空間という位置づけだった。去年、そこにガーデンベンチが置かれたことで、十五夜に月を眺めたり、夏の夜にビールを飲んだり、といったことが可能になった。ガーデンベンチは買ったものではなく、以前お隣に住んでいた老夫婦から譲り受けた。彼らのうちひとりは死に、ひとりは施設に入った。冷たいようだが、すでに顔が思い出せない。
そのベンチに、見知らぬ女性が座っているのが見えた。若い。二十代、後半、というところかな。距離を縮めながら、見当をつける。赤とオレンジとグリーンがガチャガチャと入り混じった幾何学模様のワンピースを着ている。
このあたりではあまり見かけないタイプであるその女性は、洗濯物を取り込んでいる暖に向かって、なにごとかを説明しているようだった。暖は手を止めずに、そうですねとか、どうですかねとか、そんなふうなことを答えている様子だ。
「ただいま」
庭のすこし手前で、わたしは暖に声をかける。暖はいつもと変わらない様子で「あ、おかえりなさい」と笑顔を見せる。若い女性がはっと息を呑み、目を見開いた。手にしていたスマートフォンを取り落とし、あわあわしながら拾い上げている。
一体なにをそんなにおどおどしているんですか、と訊きたかった。なにか悪だくみでもしているのですかと。しかし知らない人間と話すには、今のわたしは疲れすぎている。この場は暖にまかせよう。
おどおどしている女性は、おどおどしているくせに、庭を素通りして玄関のドアを開けて入っていくわたしの一挙手一投足を凝視してきた。
洗面所で手を洗おうとしていると、洗濯物の入ったカゴを抱えた暖が入ってきた。
「さっきの人、なに? 宗教の勧誘?」
「いや。なんか洗濯物取りこんでたら声かけられて。いろいろ訊かれた。もう帰ったよ」
「いろいろ訊かれた?」
「うん、いろいろ」
要領を得ない説明をする暖は、それ以上はなにも言わずに、居間の畳に胡坐をかいたかっこうで洗濯物を畳みはじめる。日雇いの警備の仕事から帰ってすぐに風呂に入ったのか、まだすこし髪が濡れている。
「鳴海ちゃん、お風呂入りな」
「あ、うん。新しい現場どうだった?」
泡の飛沫が腕に飛び、仕事中にうっかりつくった擦り傷に染みた。
「なんか、すんごい人とペアだった」
「どう『すんごい』の」
「百歳ぐらいに見えた。仙人みたいでかっこよかったよ」
仙人は働かないだろうけど、もしかしたらほんとに百歳かもね、と言いながら、百歳になってもまだ働かなければならない世の中だとしたらやりきれねえよなあ、というようなことを思う。
「おかずを買ってこようと思ったんだけどさ、自分がなにを食べたいのかわかんなくて。選べなかったよ。しゅうまいだけでいい? 焼くと皮がカリッとしておいしいらしいよ」
「そうなの? じゃあ、おれ焼いとくよ」
「じゃ、お願い」
洗濯物の山から自分のパンツとTシャツをつかみ、風呂場に向かう。シャワーを浴びて出てくると、すでに茶碗や箸がテーブルにセットされていた。暖は鼻歌を歌いながらフライパンに油をたらしている。「ごま油で」と指定するのを忘れていた。今更言ってもしょうがないので、黙っていた。
借家は築四十年の木造だ。台所は広く、居間は畳敷きだ。居間の奥の寝室も和室で、その隣には物置にするしか用途のなさそうな窓のない四畳半の部屋が続いている。台所と居間を区切るように置いたダイニングテーブルの上に個包装のおかきがひとつ、のせられていた。なぐも製菓のアーモンドおかき。ロングセラー商品だ。
「それ、仙人がくれた。食べていいよ。好きでしょう、それ」
暖はわたしを見ずに言った。
「好きなのに、買わないでしょ」
なにか言いたそうだが、なにも言わない。だからわたしも言わない。「あー。じゃあ、ごはんの後でもらおうかな」とだけ答える。
わたしは椅子の背もたれに片腕をかけて、しゅうまいを焼く暖の後ろ姿を眺めた。
暖は美しい男だ。わたしのひとつ年上だから今年四十六歳なのだが、出会った頃から今日までずっと、美しい。
職場で、いろいろな身体を目にする。男の身体、女の身体。太った身体、痩せた身体。暖は特別なトレーニングなど一切していないにもかかわらず、ひきしまった身体つきをしている。ミルクチョコレートのような肌色と濃く長い睫毛と、なにより骨格そのものが、と考えていると、暖がこちらを向いた。
「なに見てんの」
「いつまでも変わることなくいい男だなと思って」
「うん。自分でもそう思う」
暖は謙遜をしない。けれども、ひけらかしもしない。へりくだらない。威圧しない。そのせいだろうか、いやもちろんそれだけではないと思うが、男社会ではうまくやれないことが多い。
男の集団というのは、ひとたび「こいつは/おれたちの/仲間ではない」とみなすと即自分たちの群れから追放してしまうものらしい。暖はこれまでに、何度も転職したが、たいていは人間関係が原因だった。
暖は基本的に「耐える」ということをしない。おそらく、そういうところも同性の嫌悪感を煽る理由のひとつなのだろう。ちょっとでも「嫌だな」と思ったら、さっさと離れてしまう。潔い生きかただが、収入は安定しない。
「いただきます」
「いただきます」
両手を合わせ、箸を手にとる。焼いたしゅうまいは皮がカリッと仕上がっていておいしかった。思わず顔を見合わせ「いけるね」と言い合う。
「これからは、かならず焼くようにしようよ」
「そうだね」
酢醤油をたらしてみたら、さらにおいしくなった。高い米をつかっているわけではないが、ごはんも炊き立てでつやつやぴかぴかしていて、とてもおいしい。
この暮らしを「貧しくても幸せ」などとは、口が裂けても言えやしない。でも食事を終える頃には気分も「ま、どうにかこうにかやっていくしかねえよな!」と思えるぐらいには前向きになった。あと、誰かに「口を裂くぞ」と脅されたらさすがに「嘘です! ごめんなさい、幸せです! 贅沢言ってすんません」と言ってしまうかもしれない。
口が裂けても。あらためて考えてみると、すさまじい表現だ。誰が言い出したんだろう。
「そういえば、来月からシフト減るみたい」
「そうなの?」
暖が一瞬箸を宙に浮かせて、ふっと眉をひそめた。
「うん。短期バイトしようかな」
「そんなに働いたら、鳴海ちゃん死んじゃうよ」
「働かなくても死ぬからねえ」
暖とは三十歳の時に結婚した。指輪も買わず、式も挙げなかった。婚姻届を書いて、市役所に出した帰りにケーキを食べた。若い頃からのつきあいだし、今更、という感じもしたけれども、結婚しておいたほうがいろいろ便利だと周囲の人が言うので、そうした。
子どもについてはおたがい積極的に欲しいとは思っていなかったが、もしできたらうれしい、と暖は言っていた。でも、できなかった。結果的に子どものいない夫婦となったわたしたちだが、まあこれでよかったんじゃないか、と思っている。よくなかったとしても、これがわたしたちの人生だ。
スマートフォンの振動音が聞こえた。
「鳴海ちゃん、電話じゃないの」
「いや、暖のじゃない?」と言い合う。
畳の上で振動していたのはわたしのスマートフォンだった。知らない番号が表示されていて、手にとったと同時に切れた。と思ったら、またかかってきた。
「いい電話だと思う? 悪い電話だと思う?」
「賭ける?」
賭けたとしてもわたしたちの財布はひとつなので金があっちからこっちに移動するだけなのだが、いちおう頷いておく。わたしは悪い電話であるほうに百円を賭けた。畳に腰を下ろし、通話ボタンを押す。
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