「なんだ。もう帰るのか」
「たまにはいいでしょ」
「まあな。どうだ、軽く一杯」
「ああ、駄目だわ。ちょっと用事があってさ。焼肉なら行きたいけどね」
「焼肉ね。わかった。今度な」と、玉川は手を上げた。ペットフードを求めての定時ダッシュなんて、社会人生活で初めてだ。ホームセンターに入ると、びっくりするくらいペット用コーナーが広い。土嚢かよっていうほどの大袋から、高級カニ身ですかってくらいの豪華な缶詰まで、色んなものがある。餌袋の写メを撮ってきてよかった。種類、ありすぎでしょう。
化け猫が指定したのは安めのドライフードだ。ひと袋だけ買って、マンションに帰った。もしかしたら、猫は煙のように消えているかもしれない。もしくは喋らない普通の猫になっているかも。
ドアを開けて、一瞬、部屋を間違ったかと思った。閉めて、また開けた。
「嘘でしょう」
昨日は腰が抜けそうになったけど、今日は膝が折れそう。部屋の中が、めちゃくちゃだ。あらゆるものがひっくり返され、床に散らばっている。
泥棒だなんて思わない。だって泥棒は服をズタズタに引き裂いたり、バッグをバリバリに引っ掻いたり、クッションの中綿を引っ張り出したりしない。放心状態で中に入ると、傷だらけになったブランドのバッグを見下ろす。
「俺もなあ、我慢はしたんや」
のっそりと、カーテンの陰から猫が現れた。足音もさせずに寄ってくる。
じわじわと血圧が上がっていくのがわかる。
「このバッグ、一か月分の給料より高かったんですけど」
「うん……。わかるわ。引っ掻いた時の滑らかさが、さすがって感じやったから」
猫はブサイクな顔で、うんうんと頷く。怒りで全身が震えてきた。
「このクソ猫。バカ猫。アホ猫」
「いや、マジすまん。でもな、いくら俺が喋れる猫やいうても、所詮はただの猫や。猫がいる部屋に、そんなヒラヒラしたもんとか、爪立てたくなるもんを置いてるほうが悪いわ。いや、俺もな、あかん思てん。ギリギリまで我慢したんや。もうちょっとあんたが早く帰ってきたら、間におうたかもしれん。でもな、まさやん、形あるもんはいずれ壊れる運命なんや」
「はあ?」と、声が裏返った。「なに説教垂れてんのよ、このブサイクが! あんた、この鞄、いくらすると思ってんのよ!」
「だから、一か月分の給料より高かったんやろう。わかった。俺が悪かった。すまん」
猫はちょっとだけ頭を下げた。そのあと散々怒鳴りまくったけど、猫の謝り方は言い訳がましく、どこまでいっても単調だ。もう息が上がって、頭がくらくらする。
「まさやん、ちょっと座りいな。頭の線、切れるで」
「切れてんのよ、もう。このドラ猫、ほんとにムカつくわ」
ズタボロになったセーターを拾い上げ、猫の毛だらけのソファに座る。壁紙も引っ掻かれている。最悪だ。頭がガンガンする。
「あんな、まさやん。電源コードだけはかじるの我慢したで。あれ、バリバリってなりそうで怖いからな」
「だったら全部我慢しろっての。だいたい何よ、その呼び方」
「まさきはん、のほうがええか」
「どっちも嫌だよ。っていうか、マジで勘弁だわ。この服もすごく高かったのに。まだ全然着てないのに」
「まあ、猫と暮らすゆうんはこういうことや。勉強になったやろ」
猫はもうどうでもよさげに、伸びをしている。また頭にきた。大股で部屋の隅まで行くと、あの悪臭漂う毛布を掴んだ。
「あっ! ちょっと待て! それはあかんて」
猫が走ってきたので、奪われないように毛布を高く掲げる。
「もし次にこんなことしたら、これ、コンロで燃やすからね」
「燃やすて、なんちゅう恐ろしいこと言うねん。そんなんやから、ええ歳して嫁にいかれへんのやろう」
「うるさい。本気だからね。本気で燃やすからね」
「わかった、わかった。もうやらへん」と猫が懇願するので、汚い毛布はとりあえず放った。朝は玄関に丸めたままだったのに、いつの間に、部屋まで運んできたのだろう。勝手に日当たりのいい位置を確保している。
「まあ、ここらで休戦といこうや。まさやん、カリカリの用意してや」
「偉そうに言うな、バカ」
相手が化け猫だろうと、めちゃめちゃ腹が立っていようと、餌をやらないわけにはいかず、仕方なく餌入れのプラスチック皿にドライフードを入れる。圭一が持ってきた分だけでは足りず、買ってきた袋を開けて継ぎ足した。猫はすぐにがっついた。
お腹がすいていたのかと思うと、ちょっとだけ可哀そうな気がする。でも、同情は禁物。自分の夕飯を作りながら圭一に電話を掛けるが、今日もやつは出ない。
「なんで出ないのよ。着信拒否されてんのかしら」
「圭一はそんなことせえへん。心配せんでもそのうち掛けてきよるって」
「そのうちじゃ困るのよ。あんたのこと、早いとこ引き取ってもらわないと。今日は早く帰れたけど、遅い時のほうが多いのよ。毎日のご飯、こんな時間に用意できないんだからね」
「ええよ、別に。遅くても」
猫はガリガリ音を立てて、ドライフードを噛む。牙をむき出しにして、食べにくそうだ。
「ねえ、それ。硬すぎるんじゃないの」
「歯ごたえがあるほうが好きやねん。まさやんも、もうちょっと硬いもん食べたほうがええで。人間はええもんの食べすぎや」
「よく言うわよ。キャットフード買いにいって種類の多さにびっくりしたわ。何よ、あのロイヤルなんとかにプレミアムなんとかって。贅沢すぎ。成人病で死んじゃうわよ」
「あんなん、別に猫のほうから作ってくれって言うたわけやないわ。人間様が勝手に作りよったもんを、勝手に出してきよるさかい、食べずにはいられへんのや」
こっちの食事ができる前には、もう猫は皿を空にしていた。体をペロペロと舐めている。ブサイクでも一丁前に毛づくろいとかするんだ。元々汚れているような毛色だ。綺麗になるとは思えない。
「なんか今、俺のこと馬鹿にしたやろ」
急に猫が上目で睨んできた。目が小さいから、睨まれるとブサイク度合いが増す。心を読まれてムカッとした。
「してないわよ。猫なんかに人間様の気持ちがわかるもんですか。人間ってのはね、複雑で繊細なのよ」
缶ビール片手に食事するわたしの足元を、猫はゆっくりと歩き回った。
「今日のあんたの昼飯は、ヒレカツとエビクリームコロッケや」
「げっ、なんでわかんの」
「残り香や。あんたの胃の奥の、小腸の奥の大腸の奥のドロドロから匂ってくる」
「やめろ、気持ち悪いな」吐き気が込み上げる。
「ほかのこともわかるで。なんか、甘い匂いがちょっとだけ残ってるわ。あんたが食べたもんやない。バターとオレンジの匂いや」
「さすが妖怪。そんなのまでわかるのね。営業の矢代君がアシスタントの女子に買ってきたお菓子よ。数が足りなくて、わたしには当たらなかったけど」
「匂いが強いから残ってるんやない。そいつの感情のせいや」
「感情?」
「そうや。昨日、言うたやろ。俺、人の感情が匂いでわかるねん。あんたに付いてる匂いの中に、強い感情が残ってる。ホルモンでわかるねん。男や。若い男。まさやんのこと口説いてる男の感情や」
「口説いてるって」
ビール缶の最後のひと口を呷り飲む。カラの缶をテーブルに置くと、情けないような軽い音がした。矢代がわたしを口説いてる? 何度か誘われたけど、口説かれたわけじゃない。
「矢代なんて五コも年下よ。しかもわたし、名ばかりだけど上司だし」
「そんなん関係あらへんやんか。付きおうたれや」
「メシ行こうって誘われただけよ。まあ、飲みに行こうとも言われたけど」
「行ったらええがな。何をもったいぶっとるねん。出し惜しみするような歳か」
「失礼ね。人のこと渋ちんみたいに言って。向こうはミスなんとかにもチヤホヤされるような営業のエースなの。それに男の二十九歳なんてまだ浮ついてるんだから、そんなのに振り回されるのは御免よ」
「そいつが二十九で……まさやんが五コ上やから……まさやんは今、三十と四つか。四の次は五や」
げっ、こいつ、足し算してる。すごいを通り越して不気味だ。しげしげ眺めていると、猫の仏頂面が増した。
「まさやん。四捨五入って知ってるか」
四捨五入までできるのか。気色悪い。
「知ってるけど」
「まさやんは、次、三十五やから、四捨五入したら五十や」
「違うわよ。なんでそこだけ急に計算がおかしくなるのよ」
「六十か」
「増やすな。四十だよ。わたしは来年、四十歳だよ。いやいや違う。違うけど、とにかく年下のつかみどころのない感じは圭一で懲りたのよ。フワフワしたあの感じが今のわたしにはもう無理なの。わけのわかんないこと言ってないで、サッサと食って寝ろ。バカ猫」
「俺は完食しました。ダラダラ食べてんのは、あんただけです」
猫はプイと背を向けると、尻尾を高く立てたまま静かに部屋を横切る。それなりに猫っぽい仕草。じっと見ていると、急に振り返った。
「あんな、営業のエースやからゆうて、何回も同じ女誘うのは勇気いるで。それに、たとえどんなにモテるゆうても、断られたらそれなりに凹むもんや。可哀そうに、その矢代いう男、今頃家で泣いてるんちゃうか」
「え……」
なんだか急に、自分がひどく無神経な気がしてきた。平気そうな顔していたけど、もしかしたら矢代を傷付けたのだろうか。
「それに、もう一人、男の匂いがする。こいつもまさやんのこと誘ってるけど、そこまでホルモンが分泌されとらへんな」
「ちょっと、その言い方やめてくれる?」
「まあ、あわよくば、くらいの感じか。まさやんは意外とモテるなあ」
「意外は余計だ」もう一人? 首をかしげて、しばらく考える。そういえば会社から帰る間際に玉川に話しかけられたっけ。
「玉川のこと? あいつはないない。今はもう友達みたいなもんよ。結婚してるしね」
「それも関係あらへん。でもまあ、どっちを家に連れ込むんか、前もって言うてや。やっさんか、たまやんか。名前間違ったら気まずいやろ」
「何、あんた、ほかの人の前でも喋る気? っていうか、喋れるの? もしかしたら圭一の前でも喋ってたわけ? わかったわ。だから捨てられたのね」
猫は答えなかった。ググっと背中を反らして、体全体で伸びをする。そしてまた優雅に歩くと、汚い毛布の中に収まった。
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