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 わきかざる警視正は、いつになく不機嫌そうな面持ちで、デスクの前に立つ笠門を見上げた。

「得られた情報は、それだけか?」

「報告書に書いたものが全てです」

 須脇はこれでも、警視庁総務部総務課課長。キャリア組であり、笠門の上司でもある。最低限の礼儀はつくす必要があった。

 ため息をつきながら、須脇は薄い報告書をデスクの上に放り投げる。

「名前が判らないんじゃ、何もないのと同じだ。今回は空振りだな。坂内はどうしている?」

「持ち直していますが、急変の可能性は高いと」

「そうか……」

 須脇は、部屋の戸口に座るピーボにちらりと目をやった。

「まあ、今回はダメ元な案件でもあったし、これで終了としよう。ピーボ、ご苦労だったな」

 こっちに労いの言葉はないのかよと内心忌々しく思いつつ、笠門は口を開いた。

「ダメ元とおっしゃいましたが、坂内が対象者となった経緯をうかがいたいのですが」

「聞いてどうする?」

「対象者となった経緯は、通常、事前に通達されます。それが今回に限り何もなかった。その上、警視正の口から『ダメ元だった』などと聞かされては、黙っていられません」

 自然と語気が荒くなる。

「対象者との接触は、ピーボにとって大変な負担となります。ダメ元で任務につかされては、たまったものじゃない」

「口を慎め」

「そちらこそ、もう少し責任を持っていただきたい」

 須脇が拳をデスクに叩きつけた。

「任務から外してもいいんだぞ」

「どうぞ、どうぞ。ただし、俺の代わりがすぐに見つかりますかね?」

「きさま……!」

 腰を浮かせた須脇だったが、すぐにピーボの存在に思い至ったようだ。大きく息を吸うと、そのまま座り直した。

「ピーボの前で、荒事はよろしくないな」

「その通りです。大きな声も控えていただきたい」

「一つ言っておくが、おまえの代わりを俺が用意していないと思うか? 資格のある者が既に二人待機している」

 口を開こうとした笠門を制し、須脇は続けた。

「にもかかわらず、おまえにこの任務を任せているのは……」

 須脇の視線の先にはピーボがいた。それ以上の説明は不要だった。

 笠門は言った。

「なぜ、坂内は特別病棟に移されたんです?」

 須脇は笠門から視線を外し、わざとらしく窓の外を見やる。須脇の部屋は、警視庁本部ビルの七階にある。法務省旧本館から日比谷公園まで一望できる。

「きっかけは、譫言うわごとだ」

「何ですって?」

「医療センターの職員の証言によると、坂内は毎夜、酷くうなされていたようだ。その際、譫言を口走り、それがどうもただ事ではないと」

「譫言の内容は?」

「ただならぬ何かを見た。そして坂内はそれに関わっている人物を知っているようだ」

「そこで、俺たちに」

「うってつけの案件だろうが。ピーボなら、何か新しい情報を引きだしてくれると期待していたんだがな」

「ピーボに責任はありませんよ」

「ああ。それじゃあ、おまえの責任だ」

「それならそれで構いません。そう報告書に書いといて下さい。でも、俺たちはまだあきらめてはいませんから」

「どういう事だ」

「看守や医療センターの職員からもう少し、話を聞いてみたいんです。解明のヒントが、見つかるかもしれませんから」

「そんな事は許可できん。こんな取るに足りない事案は、もう終了だ。対象者はまだ何人もいるんだからな」

「坂内の件が片付くまで、お断りします。それと、坂内の治療に関わった者の証言は、すべて報告書にまとまっているんでしょう?」

「ああ、まとまってはいるが……おまえ、俺の命令を無視するつもりか?」

「無視するのは、俺じゃないですよ。あいつです」

 ピーボが背筋を伸ばし、じっとこちらを見ている。どっしりと構えたその姿には、笠門など及びもつかない貫禄があった。

 須脇は椅子を回して背を向けた。

「それは、見て見ぬふりをしてくれるっていう意思表示ですよね?」

 少し前、須脇自身に殺人の嫌疑がかかるという事件があった。それを解決に導いたのは、他ならぬピーボだ。警視庁本部庁舎七階に陣取る警視正も、ピーボには頭が上がらないのだ。

「勝手にしろ」

 捨て台詞を耳にしながら、笠門はピーボとともに部屋を出た。

 

 

 七階から地下三階まで、エレベーターで一気に下りる。薄暗くかび臭い廊下を進む先に、「資料編纂室」というプレートのあるドアがあった。

 中に入ると、まず目に飛びこんできたのは、どこまでも続く段ボール箱の山だ。笠門の背丈以上に積まれた箱が行く手を阻むが、よく見れば、箱と箱の間に細い道らしきものがある。体を斜めにしてそこに潜りこみ、進んでいく。角を二つ曲がるころには、もう自分がどちらに向かって進んでいるのか、判らなくなる。

 やがて、行く手に青白い光が見え、「シュィィィィィン」という奇妙な音が聞こえてきた。ゴールは近い。

 段ボール迷路の先にあったのは、小さなパソコン用デスクと時代がかった古びたパソコンが一台だ。先の奇妙な音は、そのパソコンから発せられている。そして、その前に座る一人の若い女性。

「ここまで来るの、大分、早くなりましたね」

 五十嵐いがらしいずみ巡査は、パソコンから目を離すことなく言った。

 ポンとエンターキーを押した彼女は、活き活きとした笑顔で、笠門とピーボを振り返った。

「ピーボ、久しぶり」

 ピーボは尻尾を振って応える。

 先ごろまで、ここには笠門一人で来ていた。薄暗く、埃や臭いの問題もあり、ピーボには不向きな場所と判断したからだ。笠門がここにいる間、ピーボは建物二階の互助組合に預ける事が恒例となっていた。

 しかしまもなく、ピーボが自分も連れて行けとせがむようになった。自分が預けられている間、笠門が任務に必要な何かを行っていると察したのだ。

 そうなると、折れるのは笠門の方と決まっている。可能な限りの清掃、段ボール箱の倒壊を防ぐ処置をするなどが完了した後、ピーボは晴れて「資料編纂室」出入り自由となった。

「やっぱりピーボがここまで来てくれると、うれしいな」

「……五十嵐巡査?」

「あっ、笠門巡査部長もいらしたんですね。お元気でしたか?」

「やる気のない社交辞令なんていらないんだよ。また調べて欲しい事ができた」

「坂内六郎さんの事――ですね?」

「どうして判る?」

「須脇警視正から、昨夜のうちに依頼がありました。彼の起こした窃盗事件などの捜査資料その他、まとめておきました」

 あのタヌキ野郎、最初から笠門たちに捜査させるつもりだったのだ。

「そいつは助かる」

 データの入ったUSBを受け取りながら、笠門は言った。

「医療センターで坂内を担当していた人物と話がしたいんだ。名前、判るかな」

「調べれば判りますけど、難しいと思いますよ」

「君もそう思うか?」

「ええ。私も一応、元医療従事者ですから。笠門さんだって同じでしょう?」

「医療センターに乗りこんでいったところで、医師や看護師が坂内の病状をホイホイ喋るわけもない……か」

「守秘義務を徹底してますから。ピーボの力をもってしても難しいと思います」

「だよなぁ」

 腕を組み、薄汚れた天井を見上げる。

「そんな笠門巡査部長とピーボに贈り物です」

 五十嵐は、一枚のメモを差しだした。そこには、ボールペンで「一垣朝広いちがきともひろ」という名前が走り書きされている。

「なんだい、こりゃ?」

「ある人からの依頼です。これを巡査部長に渡すようにって」

「ある人って誰?」

 五十嵐巡査はあどけない笑みを浮かべつつ言った。

「言えません。口止めされているんです」

「口止めって……こっちはこれから捜査に行くんだ。必要な情報は教えてくれなくちゃ困る」

「ダメです。情報ネタ元は明かせません」

「こいつは遊びじゃないんだ」

「ダメです」

 微笑んではいるが、笠門を見返す目には強い意志があった。

「判った。それについては、もうきかない。ただ、この一垣か? この人が何者で何処にいるのか判らないと、会いようもないだろう」

「この方なら、笠門さんもよく知ってる場所にいますよ」

「え?」

「警察病院西棟七階の循環器内科で検査入院されているはずです」

「つまり、警察病院の患者ってことか?」

 五十嵐は右に首を傾げてみせた。

「さあ、それ以上の事は、私には判りません」

 本当に判らないのか、判っていて惚けているのか、笠門の眼力では見抜く事ができない。ピーボは褐色の目をじっと五十嵐に注ぎ、「ふふん」と小さく鼻を鳴らした。

 五十嵐は苦笑する。

「ピーボには見抜かれたみたいですけど」

 笠門は憮然としたまま、ピーボの頭をなでる。五十嵐はそれを見て、満足そうに微笑んだ。

「さあ、用件が済んだら、出て行って下さい。私、これでも忙しいので」

「紙の捜査資料を打ちこんで、電子化するだけだろう?」

「それが、いざやってみるといろいろ大変で」

 巡査はピーボに軽く手を振り、またパソコンに向かった。キーを打つリズミカルな音が、段ボールだらけの広大な部屋に響く。

 相変わらず、妙な女性だ。

 来た道を戻りながら、笠門は思った。こんな穴蔵のような場所での単調作業。自分なら一時間ともたないだろう。

 そんな仕事を彼女は、もう一年以上続けている。頻繁に会うわけではないが、訪ねた時はいつも活き活きとしていて、疲れた様子など微塵も見せない。

 また、若いのに警視庁の歴史や法律に関する知識が膨大であり、こちらのどんな質問にもスラスラと答えてくれる。

 それに加え、広範なデータアクセス権も有しており、重要機密扱いの情報もどこからか引きだしてきて、笠門に渡してくれたりもする。

 いったい、何者なのだろう。

 ピーボがすっと体を寄せてきた。

「なんだ、ピーボもあの巡査のことが気になるのか?」

 ピーボはなおも体を押しつけてくる。

「何だよ、判った、判った。彼女についてあまり詮索するなっていうんだろ」

 ピーボは体を離す。

「やれやれ。おまえたち、妙に気が合うな」

 長い迷路を抜け、ようやく出口が見えてきた。

 

 

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