二
再びエレベーターに乗り、七階へと向かう。
降りたところは、無機質な白い壁が続く薄暗い廊下だった。少し右へ進み、さらに右に曲がる。緑色の扉があり、壁には指紋認証用のモニターが青白い光を発していた。天井には監視カメラがあり、赤い光点がこちらを向いている。
指紋確認を終えると、ゆっくり緑の扉が開く。その先には二名の警察官が立っていた。左側の女性警察官浜尾が「ご苦労様です」と言いながら、ピーボにそっと微笑みかけた。
笠門は敬礼をし、言った。
「笠門巡査部長とピーボ号、定期巡回に参りました」
浜尾がすぐにタブレット端末をこちらに向け、指示をだす。
「本日の巡回は七〇一号室。巡回対象者は三十二番、氏名は坂内六郎、七十五歳」
「心不全の末期と聞いていますが」
「ここ一週間が山だろうという事です。七階への移送を踏まえ、モルヒネ等の投与は抑えています」
笠門は唇を噛みしめる。坂内はいま、治まることのない激痛と死への恐怖に苛まれているに違いない。末期の患者に対し、意図的に痛み止めの投与量を減らす。職務とはいえ、本来なら許されるべき事ではなかった。
忸怩たる思いを抱えつつも、笠門はあくまで事務的に言った。
「すぐに巡回を始めます。終了と同時に、元の状態に戻すよう、手配を」
浜尾は黙ってうなずいた。
リードを握り、ピーボと共にナースステーションの前を歩く。看護師たちは、笠門たちと目を合わせようとしない。皆、笠門たちの事を歓迎しているわけではない。医療に携わる彼らにとって、笠門は疫病神みたいなものだろう。
カウンターの向こうから一人の若い看護師が進み出てきた。初めて見る顔だ。配属されたばかりなのだろう。緊張と怒りで顔を紅潮させ、それでも強い意志を秘めた目で笠門を睨んでいる。
「笠門巡査部長、お尋ねしたい事があります」
凍りついた空気の中、特別病棟の担当看護師長柴田が進み出ようとしていた。笠門は目でそれを制し、看護師を見つめ返した。
「何か?」
「ここに入院している人の秘密を、その犬を使ってききだしている。そんな噂を耳にしました。それは本当なんですか?」
「その噂、誰から聞いた?」
「申し上げたくありません」
笠門は視線を落としピーボを見た。この場の緊張感に呑まれないようにするためか、目を伏せ、しょんぼりと頭を垂れていた。そんなピーボの様子は看護師からは見えていない。
笠門は言った。
「特別病棟に入院している患者は、全員、服役囚だ」
「判っています。でも、普通、刑務所内で発病等した場合は、東日本成人矯正医療センターに移送され治療を受けるはずです。それがどうして……」
「君の言っている事が、正しいからだ」
笠門の言葉に、看護師は息を呑んだ。
「噂は本当だ。ここに入院している服役囚たちは、取り調べや裁判でも、肝心の情報を黙秘し、明らかにしなかった者たちだ。そこまでして秘匿した情報には、それなりの価値がある。その点は君にも判るよな」
「わ、判りますが、でも……」
「厳しい取り調べや服役生活にも音を上げなかった猛者たちだ。情報をききだすのは、容易じゃない。だがもし、自分が死の淵に立たされていて、苦痛に苛まれているとしたらどうだ。精神的にも崖っぷち、すがれるものがあれば、何でもすがりつきたい。そんな時に、天使のような犬が現れたとしたら」
語っている笠門の表情は、看護師たちにとってさぞ醜悪なものに映っているだろう。それでも、笠門は続けた。
「そこに気持ちの隙間ができるのではないか。思わず本音や隠し通してきた事を漏らしてしまうのではないか――。そんな事を考えたヤツがいるんだよ、警視庁の上層部にね。そして、この病棟ができ、俺が雇われ、ピーボがやって来た。それが答えだ。判ったかな?」
看護師が納得した様子は微塵もなく、逆に怒りを募らせたようだった。
「患者さんの人権はどうなるんです? いくら服役囚だからといって、酷すぎます。七〇一号の方は、痛み止めの量を減らされて……」
「そのくらいにしておきなさい」
柴田の厳しい声が飛んだ。
「笠門巡査部長にいくら言っても仕方のない事でしょう。この件については、後でゆっくり話し合いましょう」
柴田が「行って」と顎をしゃくる。
笠門はピーボに合図をすると、ナースステーションに背を向けた。冷たい視線が注がれている事は承知している。
ステーションの先には短い廊下があり、左右に四つずつ、計八室の病室が並んでいた。部屋は個室で、ドアはすべて開け放してあり、廊下の中程には屈強な制服警官が一人立っている。
か細く悲しげな呻き声が、聞こえる。一番手前、七〇一号室からとすぐに判った。
「ピーボ、行こうか」
ファシリティドッグとして、恐怖や苦痛といった患者の精神的負担を和らげるためにピーボは警察病院で勤務していた。それなのに、人の道にも医療の道にも外れた事の片棒を担がされている。
「すまないな、ピーボ」
そう囁きかけながら、首輪を録音機能付きのものに換える。普段のものより大きく重いものだが、ピーボは嫌がる素振りもみせない。装着が終わると、自らゆっくりと病室の前に歩いて行った。
ピーボには、何もかも判っているのだろう。笠門にはかける言葉もない。
坂内六郎のネームプレートを確認し、病室に入る。ベッド周りは様々な医療機器でいっぱいだ。腕には点滴用の針が刺さり、そこからいくつものチューブが延びていた。
前もって渡されていた写真で、本人確認を行う。一年前に撮影したものだが、面影を留めるものは右眉毛の上についた刃物傷くらいのものだった。男は、病魔にすべてを吸い尽くされようとしていた。
痩せ細り、大きく飛びだした目は黄色く濁っている。歯は半ばが抜け、鼻と喉からは乾いた息が申し訳程度にもれていた。
それでも、意識はしっかりとしているようで、押し寄せる苦痛から逃れようと身を左右に捩らせている。
「胸がいてえ、いてえなぁ」
目に笠門の姿は映っているのか、それすらも判らない。額には脂汗が浮かび、痩せた体にかけられた布団は激しく波打っていた。
坂内六郎は元暴力団員である。二十代の頃に早川組傘下の黒須会に所属。数回の服役を経て幹部となるも、薬物に手をだして破門。その後も傷害事件などで服役し、人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた。ここ十年ほどは体調の悪さもあり、ホームレス同然の生活を送っていたと思われる。昨年、飲み屋で酔って喧嘩となり、相手をビール瓶で殴打。実刑を食らい刑務所に舞い戻ってきた。その直後、胸の痛みと呼吸困難を訴え、東日本成人矯正医療センターへと移送された。検査の結果、重度の心不全と診断。半年から一年の余命とされ、以降は痛み止めなどの投与による緩和ケアが行われていた。
「おんや、何だ、おまえ」
坂内がベッド脇のピーボに気づいたようだった。
「こんなとこに犬……な、何なんだよ」
彼の目に笠門の姿は映っていないようだ。彼は懸命に体を動かし、ピーボの方を向いた。
「立派な毛だなぁ。おまえ、どこから来たんだ」
ピーボは来客用の椅子にヒョイと上がると、そこに座り、顔を坂内に近づける。
震える手が、ピーボに触れる。
「やわらけえなぁ。それに温かい」
苦痛に歪んでいた坂内の顔付きが、わずかだが緩んできている。
坂内はその後も無言で、ピーボの長い毛を優しくさすり続けていた。
笠門たちが病室に来て三十分、そろそろ、規定時間に達しようかという時、閉じていた坂内の目が開いた。彼はじっとピーボを見ている。
「綺麗な目だなぁ」
小さく不安定な椅子の上に長時間乗っているにもかかわらず、ピーボはほとんど動かない。ただじっと坂内に寄り添っていた。
「犬も人も同じさぁ、目を見れば、全部、判っちまう」
廊下にいた警官が、様子を見に部屋の前に来た。笠門は下がれと目で合図をする。
坂内は今にも消え入りそうな細い声で、ピーボに語りかけていた。
「俺、この間、久しぶりにあいつの顔を見た。あいつの……あいつ……」
坂内は突然、体をくの字に曲げ、激しく震え始めた。
「なあわん公、助けてくれ。俺が知ってること、あいつにバレてねえかな。スギさんはあいつに……怖えよ。わん公、助けて……」
坂内は必死に手を伸ばすが、力が入らないのか、ピーボには届かない。そんな光景を目にしながら、笠門はイヤホンに集中しつつ、ただ一つの事を念じていた。
名前だ。名前を言え。あいつとは誰だ。スギさんとは誰なんだ。
「痛てぇ……」
ピーボがすっとベッド側に体を寄せた。坂内の手がピーボの前足に触れた。
笠門はしばらく待ったが、坂内が動く様子もない。そっと近づくと、彼は苦しげに口を開いたまま、意識をなくしていた。そんな男を、ピーボは悲しげに見下ろしている。坂内の手は、今もピーボの前足にのったままだった。
「ピーボ、この辺にしよう」
笠門は坂内の右手を取る。その瞬間、彼は目を見開き、笠門の手首を掴み返してきた。もの凄い力だった。引くに引けず、笠門は血走った坂内の目を間近に見つめる事となった。
「悪魔だよ、ヤツは……。あれはスギさんの……」
突然力が抜け、坂内はズルズルとベッドから滑り落ちそうになる。危ういところで受け止め、すぐにナースコールを押した。
片腕でも十分支えられるほどに、坂内の体は軽かった。これだけの騒ぎにもかかわらず、ピーボは椅子の上から動いていなかった。先ほどと変わらない悲しい目で、かすかに上下する坂内の薄い胸を見つめ続けていた。
「やっぱり犬は知っている」は全3回で連日公開予定