第一章 電波
「あなたは『電波侵略』をご存知ですか?」
白髪の男は出し抜けに言った。
「いえ、不勉強で」
「それは本当に不勉強だなぁ」
白髪の男は不満げに言うと、乱雑に積み上げられた書籍の山を漁り始める。東皇大学情報科学研究所の一角。室内には、足の踏み場もないほど書籍と紙束が積み上げられている。一見しただけでは、この研究室が情報科学の恩恵を受けている気配はない。春名宗平は、取材対象を誤った可能性を感じていた。
「『電波侵略』をはじめに提唱したのは、ロシア帝国の元陸軍将校、メッスネルです。彼は当時普及し始めていたラジオを見て、『この装置なら、国境を越えて人々の認識を操作できる』と考えた」
男に頷きながら、春名は受け取った名刺を確認する。東皇大学情報科学研究所特任研究員、阿方猛。情報技術の専門家として取材実績はあるものの、その全てが活字媒体に限られている。乱れた頭髪を搔きむしりながら話し続ける阿方を見て、春名はその理由を察していた。
「『電波侵略』のためには政府のプロパガンダを送り届けるだけでは不十分であり、『行いによるプロパガンダ』とでも呼ぶべきものが必要だと、メッスネルは考えた。平時の個々人は合理的で冷静であり、あからさまな外国のプロパガンダを聞いたからといって、そう簡単に信じることはない」
阿方は滔々と専門家の見解を語る。春名は阿方が「平時の個々人」に対して常識的な見解を持っていることを意外に思いつつ、黙ってノートにメモを取った。
「しかし、実際に隣人や同僚、公共機関が、自らの世界観では理解し難い状況に陥っていればどうか? 公務員が横領や詐欺に手を染め、要人が次々と暗殺され、店先から見知った品物が消えたとき、個々人は、合理性や冷静さを保っていられるだろうか?」
阿方は春名の目を見て問いかける。春名が口を開きかけたところで、阿方は続けた。
「『電波侵略』とは、こうした『自らの世界観では理解し難い状態』を人為的に作り出し、群集心理によって、個々人の精神を塗り替えることを目的とする。『暴れ狂う群衆の中では大人しい者も暴れ、武装した群衆の中では平和を愛する者が武装し、狂った群衆の中では、賢い者が狂う』。これは、メッスネル自身の言葉だ」
阿方は帝政ロシアに生きた元軍人の言葉を、当然のように諳んじる。春名は阿方の話に段々と興味を引かれてはいたが、あいにく、取材時間は限られていた。
「メッスネルについて、自分の方でも調べてみます。それで、ご質問の件ですが……」
「質問? なんだっけ」
阿方は全く悪びれずに言った。この程度で腹を立てていては、記者の仕事は務まらない。春名は静かに息を吸い、準備してきた質問を繰り返した。
「『他国が日本に対して、戦略的に偽情報を発信している可能性について』です」
「ああ、そうだ。教科書みたいな質問だから忘れちゃったよ」
「……いかがでしょう。阿方教授のご見解をお聞きできればと思うのですが」
「可能性、可能性ね。研究所の見解でなく、私個人として答えるなら──」
阿方はそこで言葉を切ると、春名をじっと見据えて言った。
「100%」
建物から出てまもなくスマートフォンを見ると、デスクの金井からの着信が2件残っていた。春名はひとつため息をつき、「公論通信 金井」の番号をタップする。
『どうだった、専門家』
「興味深くはあったんですが……別を当たったほうがいいと思います」
『なんでだよ。興味深いならいいじゃねえか』
「専門家としてコメントもらうには、信憑性が足りないというか、不安定すぎます。情報トークバラエティとか、そういう所でご活躍いただいた方が良さそうです」
『でもそいつ、東皇大だろ? まともな教授じゃねえのかよ』
「東皇大にもいろいろいますよ。金井さんもご存知でしょう」
『……まぁ、それはな』
金井の声がわずかに曇る。金井には、東皇大学名誉教授のインタビューをほぼ無編集で掲載した結果、若手の軍事研究者から、「親露派の主張をまともに検討すらせずに載せる愚かな通信社」などとSNSで糾弾された経験があった。
『とにかく、さっさと帰ってこい。部長がお呼びだ』
「部長ですか?」
『ああ、来週末の取材の件だと』
「来週末……」
今入っている取材は、防衛省の知人経由でセッティングされた、米軍基地の訓練に関わる内部取材だけだった。メディアにこの訓練を公開することは極めて異例らしく、指定された日は他に一切の予定を入れないよう、事前に念を押されている。
『十六時からだ。忘れんなよ』
デスクの金井は、こちらの返答を待たず電話を切る。春名は小さくため息をつくと、最寄り駅へと足を進めた。
『学歴詐称疑惑で辞任した田之上由紀衆議院議員の辞職に伴う補欠選挙に、後藤正志氏が出馬することが分かりました。後藤氏は元外務大臣・後藤正義氏の長男で、現総理大臣、瀧内さゆり氏の元秘書です』
港区の公論通信本社ビルに辿り着いたのは、十五時五十分だった。一階のエントランスでは、取引先でもある民放のニュースが流れている。エレベータに乗り込みつつ、春名は今しがた目にしたニュースについて考える。後藤正義は、外務大臣としてメディアスクラムに遭って辞任する前、防衛大臣と総務大臣を歴任していた。この分だと、政治部所属の春名はしばらく補欠選挙の取材にかかりきりになりそうだ。後藤家と春名には、切っても切れない因縁というべきものがあるようだった。
エレベーターが目的の階に着き、春名は汗を拭う間もなく会議室のドアを開ける。会議室のテーブルには、部長の清水がすでに席についていた。
「あっ……部長。遅くなりすみません」
「おう、おつかれ。急に呼び出して悪かったな」
「いえ」
答えながら不穏な予感を覚える。内部の打ち合わせでは約束の時間に必ずといっていいほど遅刻し、それでいて不機嫌な顔をしてやってくるのが清水部長の常だった。その部長が時刻に間に合っている上に、一介の記者である春名に労うような言葉をかけてくるのは異例であり、不気味ですらあった。
「春名は今……防衛省の担当だったか」
「はい」
春名が政治部に配属され、防衛省担当となったのは去年の初めのことだ。部長の清水も、そのことは知っているはずだ。
「その前は?」
「前は、大宮支局で……その前は、仙台支局です」
「そうか。段々、中枢に近づいてるってわけだな?」
「そう、ですね」
曖昧な反応をしてしまってから、今のは笑うところだったのかと気づく。清水は、部下に冗談を言うことも滅多になかった。
「それで、本題だがな。春名は、『内閣情報局』って知ってるか」
「情報局というと……戦前の組織ですか」
記憶をたどりながら、控えめに尋ねる。たしか、大学時代の『メディア史』の講義で、近い名前を聞いた記憶があった。情報局──あるいはその前身、内閣情報部は、大日本帝国において戦時下の言論統制や国民に対するプロパガンダ等、ナチス・ドイツ政権下の宣伝省に近い役割を担った組織だったはずだ。
「いや、それがな……またできるんだ」
「できる、というのは」
発言の意味が分からず、鸚鵡返しに尋ねる。清水は言葉を選びつつ話し始めた。
「電央堂が、公共入札から締め出された件は知ってるな」
「ええ、まあ」
オリンピックでの大規模汚職事件が原因で、大手広告代理店の電央堂は公共セクターの入札自体から期限付きで締め出されていた。
「ここ数年、入社試験だの労働問題だので散々叩かれていたところに、あの汚職だろ。電央堂本体も相当弱ってるらしい」
「それは……そうでしょうね」
倫理的に問題のある入社試験を学生たちに暴露され、連鎖的に社内のガバナンス、労働問題が大手メディアからも糾弾されたことで、電央堂はここ数年、凋落の一途を辿っていた。だが、それが情報局の話とどう関わるかが見えず、春名は当惑する。
「何代か前の都知事が言ってたように、電央堂にしかできない仕事ってのは、現実問題、確かにある。昔は黙って電央堂に随意契約でよかったものが、例の公共入札締め出しで出来なくなった。だから奴らも、対策を考えたんだ」
「対策、ですか」
話から俄に「ネタ」の気配を感じ、身を乗り出す。清水は続けた。
「国が電央堂と表で契約が結べないなら、電央堂の人材を、国の中に入れればいい。省庁に電央堂の人間を出向させて、電央堂にやらせるつもりだったことをやらせる。契約の関係で名目上はややこしいが、実際に起きてることは電央堂の一部国有化だ」
「電央堂の、国有化……」
「今、内閣府に電央堂から出向して準備を始めてる連中がいる。その連中が準備している組織の通称が、内閣情報局だ。春名には来週末、ここの取材に行ってほしい」
清水の説明で、点と線がつながる。事情は理解できたが、問題はまだあった。
「来週末ですと……米軍基地の取材で完全に押さえられてます。他に何も予定入れるなと、防衛庁からきつく言われていて」
「その米軍取材が、『これ』なんだよ」
「……どういうことですか」
「はじめから内閣情報局なんて言われても胡散臭くて警戒されるだろ。だから、それらしい理由をつけて、各省庁からの伝手で身柄押さえてるんだ」
「待ってください……それじゃあ、その、内閣情報局が、私を呼んでるんですか?」
「ああ。事務局がお前を指名してる。だから、行ってこい」
「そんな、急に言われても……」
「日程は空いてるだろ?」
米軍から「絶対空けておけ」と言われれば、よほど思想信条的なこだわりがないかぎり、大抵の記者は予定を開けるだろう。情報局側の騙し討ちのようなやり方に、春名は早くも不信感を抱いていた。
「しかし……どうして、私なんですか」
間を置いて、ひとつ質問をぶつける。清水があからさまに嫌な顔をしたが、引かずに続けた。
「記者なら納得するまで引き下がるなと、以前デスクに叩きこまれました」
そのデスクとは、昨年まで現場にいた清水自身のことだ。清水は細い目でこちらを一瞬睨むと、大儀そうに口を開いた。
「なぜお前かは、俺も知らない。が、うちに目を付けた理由なら想像がつく」
「うちというのは……公論通信、という意味ですか」
清水は何も言わずに春名の方を見る。記者の目で見れば、答えはイエスだった。
「うちと電央堂は、元を辿れば同じ会社だってのは知ってるだろ」
「それも、戦前の話ですよね」
春名が思わず聞き返すと、清水は明言を避けたまま続けた。
「戦前の日本電報中央社から、通信事業部門を引き継いだのがうちの前身、同胞通信。同胞通信から広告部門を引き継いだのが、日本電報中央社……今の電央堂だ」
清水の話す「通信の歴史」は、新人研修の頃に一通り聞いていたが、その知識が、現在の仕事に生きるとはゆめにも思っていなかった。
「しかし、関係があるからと言って、記者を政府に呼んでも……」
「また前と同じことをやろうと思ったら、馴染みの会社がいいんだろ」
前と同じこと。
その意味を理解したとき、春名は自然に立ち上がっていた。
「本気で仰ってるんですか」
清水は春名の顔を睨むと、唸るように言った
「俺は可能性の話をしてるだけだ。本当かどうかは、お前が調べる他ない。うちから呼ばれてるのは、お前だけだからな」
言いながら、清水はブリーフケースから一枚の書類を取り出す。書類には、「内閣府新組織説明会 要綱」という役所じみたタイトルと、「部外秘」の文字が刻まれていた。
「来週土曜の、十四時。この住所に行け。そこから先は、お前が取材しろ」
普段通りの不機嫌さに戻った清水は、それだけ言うと、肩を怒らせて退出する。春名は置き去りにされた「要綱」の用紙を、しばらく黙って見つめていた。
「プロパガンダゲーム 偽情報戦」は全2回で連日公開予定