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 この一件から、花輪さんは私にやさしくなった。弱みを握られたからではなく、その他大勢の友達が必要でなくなったのだろう。もっとも、教室で大っぴらに私に接するほど、勇気あるやさしさではない。私のほうもあまりべったりされても困るので、ちょうどいい距離感だった。

 そして六月。衣替えと同時にミスターコンがやってきた。『ミスター緑ヶ丘コンテスト』という大仰なタイトルがついているけれど、生徒達が自主的に活動するのを目的としているから、先生方もほとんど口出しをしない。午前中の三、四時間目の二時間、生徒総会の時間を割り当てて体育館で行われる。推薦された男子と推薦人代表がステージでスピーチをするのだ。

 今年初のイベントなのに生徒達は鷹揚だったし、見守る先生達も畏まっていた。無駄な動きがないのは、イベントにかける思いが熱すぎるからだ。ステージに奏羽がいるという事実が、規律を正している。ヘアスタイリングやナチュラルなメイクを奏羽は拒否し、奏羽の意向に従うという条件で全メンバーは出場を懇願した。推薦人代表の花輪さんのスピーチはねばっこいほどの力の入れようだったけれど、片や奏羽のスピーチは、

「悲しみは力に、よくばりは慈しみに、怒りは智慧に導かれる」

 たった一言で終わった。そっけなさがかえって厳かで、生徒達も先生も拍手を忘れた。奏羽の頭上で天使が舞いそうな、学校中の穢れが浄化されそうな静寂に包まれ、奏羽が会釈をしたと同時にやっと拍手が沸き上がり、そして。

 ステージの右から左へ、小さな黒い物体が横切ったのだ。黒い小さなかたまりが、前かがみになった奏羽の前で止まる。ネズミだった。ミスター緑ヶ丘大本命である奏羽と同じクラスだった私達は、ステージに一番近い位置にいた。誰もが驚き、騒ぎ、その場を右往左往した。ステージ上のミスター緑ヶ丘候補の面々も慌てふためき、緊急事態の時にこそ人間性があらわれる、という教訓を示しているような、ネズミがまるでお釈迦様の化身のようだな、と私は冷静に思っていた。奏羽もまた落ち着いていて、やや背中を丸めていた。奏羽とネズミがお互いの距離を測るように見つめ合っている。ネズミも奏羽の良さがわかるのかな、と私はふわふわしていた。

 奏羽は身を屈め、そっと、両手でネズミを包んだ。

「や、八神君、汚いよ。早く離して!」

 と、花輪さんが奏羽の肩をゆするまでは、会釈をする角度のまま頭を傾けて、ネズミを手の中に収めていたのだ。

 都内でも、いや都内だからこそ、ネズミはいる。地下鉄やオフィスビルにも実はいる。お父さんが配達する飲食店にも、稀にネズミが迷い込むと聞いた。餌が豊富で適度に湿気があって、雨風がしのげるからだろう。私はだから、びっくりはしたけれど、騒ぐほどではなかった。ただ、会釈のままで固まった奏羽の様子に釘付けになった。驚愕して、恐怖で、硬直したのではないと思う。もっと、やわらかい何かを感じた。悲しみは力に、よくばりは慈しみに、怒りは智慧に導かれる。そんな詩? つぶやき? をする人だもの。

 花輪さんのゆさぶりで奏羽がよろけて、ネズミがステージから降りてきた。十センチにも満たない小さなネズミだ。悪さはしなそう、と私も奏羽にならってネズミを捕まえようとした。

「金山、やめなさい」

 担任に制された。『ミスター緑ヶ丘コンテスト』は一時中断されたものの、先生方がネズミを駆除してくれたのですぐに続行になった。とはいえミスターコンの大本命は奏羽で、むしろネズミまでもが奏羽の応援に来たのではないかというほどに好感度は上がりまくり、二年生、三年生の登壇者は霞んでしまっていた。候補者総勢九名の紹介が終わると、あとは投票用紙に名前を記入する。体育館の出入口に投票箱が設置されているのだ。

 生徒会運営委員が投票の管理と整列退場の指揮を執る中、先生達が即席に会議をしていた。「害獣の駆除業者を手配しないといけませんね」

「そうですね。衛生面でも問題がありますし、早急に対応しましょう」

 あんな小さなネズミ一匹でも、害獣認定されてしまうのだ。ちょっとかわいそう、と半袖の腕を撫でた。先生方の後方に、奏羽がいた。気のせいだろうか、奏羽も悲しげに肩を落としている。先生方の陰になっていた奏羽に、一年生の女子達がかわるがわる声をかけた。わーきゃーマジファンですー投票しましたー。奏羽のすぐうしろに背後霊のように花輪さんがいて、睨みをきかせていた。担任が奏羽を呼び止める。

「八神はすぐに手を洗って、保健室で消毒してもらいなさい」

「はい、あの」

 奏羽が何か言いかけた。

「なんだ八神、もしかしてネズミに嚙まれたのか?」

「いいえ。……なんでもありません」

 かすかにうつむいて、足早に歩いていく。

 私が投票を終えると、担任が畳みかけるように言った。

「あ、金山も。まあ、大丈夫だろうが一応消毒しなさい」

「あ、はい」

 ネズミにはさわっていない。さわっていないけれど。あたりを見渡すと、花輪さんはいなかった。奏羽にくっついていった様子はなかった。クラスの副委員長だし奏羽の推薦人だし、このあとの開票に携わるのかもしれない。

 私は生徒達をかき分け、奏羽を追った。行先は保健室、全校生徒はまだ体育館、ふ、ふたりになれるチャンスだ。ふふふ、ふたり、になって、私はどうしたいのか。わからないのに、奏羽とふたり、ネズミ、消毒、保健室、という共通項が尊くて、とにかく走った。体育館からの通路をへて校舎へ続く扉をあけたら、すぐ先に奏羽がいた。私の足音に反応したのか、奏羽がふりむいた。

「あ、(あの)、ネ(ネズミ)。せん(先生が)、わた(私も)、しょ(消毒しろと)」

 身振り手振りで、言葉にならない言葉を言う。暗号か手旗信号か、という途切れ途切れの物言いに、奏羽は不審がるでもなくゆっくりと首を傾げた。私は息をするのもやっとで、初めて間近で見る奏羽、しかも奏羽も私を見ている、という降ってわいたような幸運に、胸がぎゅっと鷲掴みにされるくらい苦しくなった。一秒、二秒、三秒……、一分、時間が経過しても、肺の代わりに胸が収縮して呼吸ができなかった。奏羽はそんな私を“不気味子ちゃん”とはみなさなくて、私が何か言いたげなのを、じっと待っていた。表情を変えずに、待っていた。

「ネ、ネズミは、汚いのでしょうか?」

 なんで敬語? やっと言葉をきちんと紡げたのに、なんでネズミについて? なんか神様に教えを乞うているみたいだ。

「この世界のほうが汚いのかもしれない」

 奏羽が一言、すばやく言った。

「え? この世界が?」

 この世界とは、今、奏羽と私がいる世界でしょうか。奏羽をミスター緑ヶ丘として支持する生徒達と先生達と、花輪さんがいる世界のこと? みんな奏羽を好きに違いない、この世界が汚いと?

「ごめん、なんでもない」

 くるりと前を向いて、廊下をまっすぐ歩いていった。白いシャツの背中が本当に世界を拒絶しているようで、私の足はそれ以上動かなくなった。そばにあった水道で手を洗う。生徒の喧騒が届いてきて、ふたりだけだった一瞬の世界、私にとっては息もできないほどの美しさだった世界が、戻ってきた。

「金山さん、八神君見た?」

 いつの間にか、すぐ横に花輪さんがいた。

「あ、さあ。でも先生が保健室行けって言ってたから、保健室かも」

「そっか、じゃあ私も……。金山さん、具合悪いの?」

「え、ううん。なんで?」

「なんか、顔色が悪い気がして」

 呼吸困難だったからだよ。言わずに、私は笑った。笑ってから、自然と口がひらいた。

「悲しみは力に、よくばりは慈しみに、怒りは智慧に導かれる」

「あ、それ」

 廊下の窓から青空がのぞく。太陽の光が木々の緑を反射させている。花輪さんの眼鏡も光った。

「さっきの八神君のスピーチよね。覚えたの?」

「だってほら、推しなんだし。八神君の言葉だし。みんなの恋の会のみんなも覚えてるよ、きっと」

 食べ物の匂いが廊下に充満してきた。お昼の時間なのだ。ちっともお腹がすかない。

「あれは、宮沢賢治の言葉よ。八神君、本が好きだから」

「そうなんだ」

 さりげなく花輪さんの前をとおり、教室に戻る。すぐに花輪さんが私に並んだ。

「うん、八神君らしいよね。人生譚というか、機知に富んでいるというか」

 そうだろうか。私には悲哀が隠されているように思えた。

「そうだね」

 教室で、奏羽は普通にお弁当を食べていた。

 

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