『美命さん。あなたにとって、Kのいる世界はきれいな世界ですか。それとも、汚い世界ですか。』
◆ ◆ ◆
二〇一七年。
新入生で埋め尽くされた体育館は、校門の桜並木とは対照的に重たい感じがした。色とりどりの玩具箱のようだった小学校とは違い、中学校は沈んだ色彩で占められ暗澹としている。それは私服が制服になったという理由だけではないように思えた。
色が限られているからこそ、各個人からその人の色がにじみ出てしまっているような気がする。パステルカラーのような平和な色だけではなく、絵の具セットの端に追いやられるような、滅多に手にしない濃くて毒々しいような色までがあって。中学生になれば勉強や部活動など、小学校よりもハードになるのは目に見えている。そういう不安から、重々しい雰囲気になるのかもしれない。とはいえ、大人になる期待というのは、隠しとおせるものではない。
大人になる期待って、大人になる色って結局は何色なんだろう、と考えつつ、校長先生の話や生徒会長の歓迎の言葉を聞きながら、私はあくびを噛み殺していた。
いよいよ眠気が頂点に達した時。
「新入生代表、八神奏羽」
壇上に、まぶしい人があらわれた。
八神奏羽という名を呼ばれた少年は、まるごと発光していた。まさか私は天国にいるのだろうか。世に漏れ聞く光しかない世界に、今、私はいる……。
地に足がついていないような、無重力の空間にいるような心地よさ。“私”という輪郭がなくなって、魂だけが圧倒的な光に吸いよせられる。でも、なんだろう、胸の奥がしめつけられるように痛い。変なの、痛いくせに、この痛みを永遠に失いたくないのだ。
え、私、マジで死んだ?
「新緑が日に鮮やかに……」
ううん、生きてる。
ソーダ水に一滴だけ、大人だけが許されるアルコールを秘密で垂らしたような、清涼感があふれつつ色気も匂わせた声で、私は現世へと舞い戻った。
まぶしい人がまぶしいのは、体育館の窓からもれる太陽光線のせいでも、スポットライトのせいでもない。なぜなら、先程まで入れ替わりに登壇した校長先生や生徒会長は、単なる普通の人間だったからだ。
八神奏羽がまぶしいのは、私の、むき出しになった心のせいだった。
「一年二組。新入生代表、八神奏羽」
答辞を読み終えた発光する人がお辞儀をし、再び顔を上げた。
目が合った。
間違いない、気の迷いでもない。ほんの一瞬だったけれど、まぶしい人が私を見た。
まぶしい人を目の当たりにして、私は時間が止まったり伸び縮みしたりするのを初めて知った。まばたきの速度だって、一瞬にも永遠にもなりうる。まぶしい人を見つめたまま私は硬直し、再び私は死ぬのではと思った。さっき、私は一瞬死んだのだ。恍惚の中で、生きたまま死ぬという経験をした。
待って、今、一年二組って言った。
同じクラスだ。
頬が熱くなり、下腹がきゅうっと縮み、私の小さい胸がボンッと大きく跳ね上がった。そして。
「……!」
私は膝頭をそろえ、両手で下腹をさすった。
入学式が終わるなりトイレに駆け込んだ。
パンツに、赤い染みがついていた。
「やがみ、かなう」
赤い染みを凝視して呟くと、壇上での様子がよみがえってきた。少しふわっとした髪、くっきりした二重の切れ長の目、薄い唇。欲を閉じ込めた制服が、彼をいっそう色っぽく見せていた。清潔感があるのに艶もあるという、常人にはたちうちできないまぶしさだ。
私は泣いたらいいのか笑ったらいいのか、わからなかった。ただ赤い染みとにらめっこしていた。
もう女だから、パンツじゃなくてパンティって言わなきゃだめかな。ハンカチはしまむらで買うんじゃなくブランドもので決めなきゃ。
しまむらのハンカチをパンツ、じゃなくてパンティの上に敷く。股の違和感を、大人のたしなみに変換して、うっとりとため息をついた。
「すいませーん。まだですかぁ?」
トイレのドアががんがん叩かれても、私は血液の匂いにうっとりしていた。
入学式からの帰り道、コンビニでシンプルなノートを買った。『奏羽ノート』を綴るためである。奏羽の虜になってから数時間たらずで、奏羽への妄想があふれにあふれ、収拾がつかないのだ。スマートフォンもパソコンも買い与えられなかったので、常時持参できるノートに落ち着いたのである。歩く道すがら、吐く息とともに言葉が躍りそうになった。まさか声に出すわけにもいかないので、途中、ヤンキー座りをしながら『奏羽ノート』を記した。「まぶしいまぶしいまぶしい。神、尊い、私はあなたの生贄、私はあなたに女にしてもらった。あなたは手を下さずとも私を血で染めた」。興奮しすぎると文章はホラーになる。「制服とは、禁欲の衣。まぶしい人、あなたは私の鎧をいとも簡単に剥ぎ取り、私を丸裸にして、私は自らの熱で丸焼きになった」。文法も語彙もめちゃくちゃだと頭で理解しているのに、シャーペンを持つ指が別の生き物のように暴れまくる。通りすがりのおばさん達は「熱心ね」と感嘆し、中高生達はそそくさと去っていく。学生がノートに何かを書いていれば勉強と勘違いされるのだ。
「あいつ、ぶつぶつ言っててキモい」
小学生が聞こえよがしに言い、走っていく。どうやら私は、言葉を連ねるのと同じスピードでひとりごとを言っているらしい。一気に十数枚書いて立ち上がると、めまいがした。空腹だったのだ。
おぼつかない足取りで帰宅すると、母が夕食を作っていた。
「あら、遅かったのね。早く着替えて手伝ってくれる?」
制服のままぼさっとして、私は母にたずねた。
「ねえ、お母さん。私はどうして金山富子なの?」
「え?」
「どうして、西園寺とか鷹司とか、そういう名字じゃないの? どうして、愛理香とか莉々衣とか、そういう名前じゃないの?」
「さあ、バランスじゃないかしらね」
お父さんは金山徳男だし、お母さんは金山吉子だし、お店の名前は『八百金』でしょ、と母は歌うようにつぶやき、糠漬けを刻む。バランス。そう、バランスだ。八神奏羽と金山富子ではバランスが取れない。
「今からでも改名できないかな」
制服から部屋着に着替え、母の手伝いをする。お味噌汁をよそおうとした時に、
「そういえば新入生代表の子、八神奏羽君だったかしら」
母が言った。私は危うくおたまを手から滑らせそうになった。
「お。お母さん。私、発見した。金山と奏羽って、かなつながりだよ、かなかな」
「かなかなって、ヒグラシのこと?」
セミの鳴き声じゃないのだ。ああでも、奏羽もいい声だった。
「そう、八神君。同じクラスだよ」
「八神君、可愛かったわねぇ」
「お母さん。新入生代表って、どういう人がなるの?」
布巾でテーブルを拭き、箸を並べる。今夜はハンバーグだ。店で余ったくず野菜を微塵切りにして混ぜ込んでいる。
「それはな、富子。成績トップの子が選ばれるんだ」
店の片付けを終えた父が、手ぬぐいを首にかけたままキッチンに入ってきた。店の奥とキッチンは扉ひとつで行き来できる。うちは父の祖父の代から八百屋を営んでいて、本店は埼玉にあり、ここ、東京都世田谷の店舗はいわば暖簾分けだ。一般的な野菜ももちろん扱っているけれど、父は新しい試みとしてオーガニックや有機栽培、輸入食材などを主製品としていた。
「テストって、入学前のテスト?」
母が菜の花の辛子和えを父に差し出す。父は手酌でビールを飲んでいる。
「そうだ。八神さんの奥様も大喜びだって言ってたぞ」
「なんでお父さんまで知ってるの?」
「八神って誰?」
弟の福男が、ハンバーグを口に入れたまま割り込んでくる。
「八神さんちの家政婦さんがね、うちに買い物に来るのよ」
母はころころ笑い、ケチャップがついた福男の頬をティッシュで拭った。
「家政婦さん!?」
奏羽のことより先に母に報告すべきことがあった。私のパンティにあてたしまむらのハンカチはすでに虫の息だ。血液が太腿をつたって垂れてきてしまうのは時間の問題だった。いやでも、目先の血液よりも奏羽の情報のほうが大事だ。
「そう。専属の家政婦さん。ほぼ毎日来るわよ。うちは無農薬でしょ。八神さんの奥様がそういうのにこだわってるんですって」
「家政婦さんがいるの? お金持ち?」
どこまでパーフェクトなのだろう。
「ねえー、八神って誰?」
福男が私のハンバーグを箸で突いた。私は福男の手を叩いた。
「先月海外から引っ越してきたらしいぞ」
父がエシャロットに味噌をつけてしゃりしゃり食べている。
「海外って、海の向こう? どこ?」
「どこかしらね。ヨーロッパじゃない?」
母が首を傾げた。
「ヨーロッパ? それって王子様?」
おうじさまぁ、福男が笑った。
私は福男の額を叩き、箸を置く。
「ごちそうさまでした」
「八神は王子様なの?」
福男が私の腕を引っぱる。
母が、どこかしら、と首を傾げた。
「ごちそうさま」
私は箸を置いた。八神って誰? 福男が私の腕を引っぱる。
「富子。あとで夕食の片付け手伝ってね。あらやだ富子ったら……!」
立ち上がった私のうしろで、母が慌てふためいた。
「推してダメなら押したおせ」は全4回で連日公開予定