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 五月のGWがあけた。花輪さんや幹部の子達が明るく推し活をする中、私は私の奏羽を突き詰めていった。ひとりスパイ活動と置き換えればヒラという身分は実に好都合で、私は他から得た情報を奏羽ノートに横流ししていた。八神君の愛用しているのはツバメノートのグレー、シャーペンの芯はH、好きな小説家はジョージ・オーウェル、好きな色は青、好きな食べ物、嫌いな食べ物、特になし。お昼は必ず牛乳を飲み、お弁当箱は曲げわっぱで食後は水で洗ってペーパータオルで拭いてからしまう。そつのない情報で、メンバー全員がわー、きゃー、とはしゃぐ。奏羽が同じ教室にいるのは、私にとっても心のわーきゃーに違いないし、ヒラとしてパントマイム程度には体で表現している。四時間目の体育の時間、校庭のまんなかで膝を抱えて座っている時でさえ、

「八神君が走るよ!」

「わー、すごーい、トップ、先頭ぶっちぎり!」

「きゃー、一位、一位だよ。二位を大幅に引き離してる!」

「トラックあと何周? いけー、このまま突っ走れー。きゃー」

 奏羽は競走馬か。興奮して跳ねまくる女子達を横目に、私は指先の力を強めた。バリケードと化した女子達の間から、奏羽の雄姿がのぞく。

「みんな、ミスターコンは来月よ。一年生はただでさえ不利なんだから、もっと声を張り上げて、私達の八神君をアピールしましょう!」

 花輪さんが指揮を執るとメンバー達がスクラムを組んだ。軍隊かよ、とあきれたのも束の間、「ナンバーワンは八神君」と校舎にも届くコールが開始して、窓際に生徒達が集まってきた。サブリミナル的に「八神君 is ナンバーワン」が刷り込まれたかのように。

 スクラムの一番端に、なんとなくくっついていながら、私は黙って、走る奏羽を目で追っていた。遠いのには違いないのに、ちらりとこちらに、私個人ではなく私の方向に奏羽の顔が動く。トラックを回っただけだとわかっていても、倒れそうになる。ツバメノートやシャーペンのH、ジョージなんとかっていう小説家の情報よりも、ミスターコンナンバーワン獲得よりも、心の中に急に吹いてくるつむじ風のような奏羽のいちいちに、私はめまいを覚えるのだ。

「こらこら、みんな静かに……にしても、速いな。ペースも乱れてないぞ」

 体育教師までが感嘆している。かすかに息を弾ませて、校庭の中央に戻ってきた奏羽へ、花輪さんがタオルを渡した。

「八神君からタオルをあずかっていたのよ」

 照れながらも堂々と言う花輪さんにメンバー全員が微笑む。この微笑みは称賛でも降参でもない、恋心は同等だという肯定だ。誰かを推すってこういうことなのだと、私もみんなに倣って微笑んでみた。うまくいかなかった。頬がわずかに引きつるのは、花輪さんの圧にあきれているからだろうか。

 お昼休み、お弁当を広げる前に奏羽ノートをひらく。奏羽の汗はきっといい匂いだ。香水でも柔軟剤でもない、五月の青空に香りがあったとしたら、たぶんそれは奏羽の汗の匂い。変かな、でも私、異常だとも異様とも、自分で思えない。相変わらず、奏羽と私は各々ひとりで、自席でお弁当を食べている。

 奏羽のひとりも、私のひとりも、さみしさはにじみ出ない。私の場合はハブに近いからはたから見てどうかはわからない。でも私はさみしくない。お昼休みも休み時間も、奏羽はすぐに読書態勢に入るから、みんな奏羽の妨げになりたくなくて輪に招かないだけだ。でも誰かに話しかけられれば受け答えはするし、ごく稀だが、請われれば勉強をおしえてあげたりもする。自分よりレベルの低い人を蔑んだり鼻じろんだりすることもない。

 ただ、自分の外側より内側に興味があるように思えた。よって、女子男子教師の熱烈さをもうまくかわしているのである。

「いつまで食べてるのよ、ヒラ」

 痛烈な物言いに背筋が凍った。目の前で、花輪さんが仁王立ちをしていた。

「もう昼休み終わるんだけど。掃除の時間なんだけど」

「あ、ごめんなさい」

 私は慌ててお弁当を平らげ、奏羽ノートを鞄にしまった。

「毎日毎日、もたもたもたもた」

 花輪さんが地団駄を踏んでいる。チャイムが鳴った。掃除開始だ。花輪さんが踵を返す。奏羽は悠然と本をしまい、机をかたした。せっかちな花輪さんですら奏羽には苦言を呈しない。奏羽がまとう空気感がそうさせる。「浮世離れした高貴さ、ピュアさ」ひとりごちたら、モップで足を突かれた。

「金山、廊下でも掃いてこいよ」

 モップ男子にほうきを渡された。邪魔だという意味だろう。

 奏羽が日々うちの野菜を食べていると思うと、おいそれと飲み込むことができずについ何十回と噛みまくってしまう。奏羽の身体はうちの野菜でできている。奏羽宅の家政婦さんがうちのお得意様なんて、誰も知らない。恋の会のメンバー達よ。みんなが崇める奏羽の身体は我が家の野菜でできているのだよ。かろうじて声に出さなかったものの、鼻息だけが荒くなった。生理初日、パンティにあてたナプキンのごわつきをこそばゆく味わいながら、廊下を掃く。

「ちょっとヒラ、今そこにゴミを集めたところなんだけど」

 花輪さんが腕組みをして、上履きを鳴らす。花輪さんの後方で、奏羽が窓を拭いている。まるで私の視界を遮るように、花輪さんがいる。

 私が身体をずらすと、花輪さんも私に合わせて身体をずらす。花輪さんの巨体で、私の視界から奏羽が消えた。花輪さんは表情ひとつ変えない。

 私は薄く笑って、ほうきを差し出した。黒縁眼鏡の奥で、花輪さんは卑劣なことを考えているのだ。私達はまだ十二歳だけど、男子に対してはすでに女の要素を満たしている。入学式の時に感じた、制服という沈んだ色彩からかすかににじむ毒々しい色の正体が、誰かを好き、という気持ちなのかもしれない。

「なんなのよ、さっきから人の顔をじろじろじろじろ見て」

「ごめんなさい、なんでもないの。ただ……」

 花輪さんは、みんなの恋の会を隠れ蓑にしたのだ。「恋はみんなで分かち合いましょう」という協定で自らを防御した。本当は奏羽をひとりじめしたいくせに、できないから、副委員長という立場を利用して宣言することで、みんなをだまして道づれにした。“不気味子ちゃん”の私すら危険視するという念の入れようには敬意を払ってもいいし、負のパワーを見習ってもいい。

 私はポケットからハンカチを出した。母のタンスからかすめとった、イヴ・サンローランのハンカチ(ナプキンが包んである)を口元に持っていく。

「ふふ」

 太いみつあみで奏羽をがんじがらめにできると信じているのだろうか。副委員長の特権だとか、頭脳で唯一肩を並べているからとか、自分が一番有利な立ち位置だとか、なし崩し的に付き合うようになるのだとか。

「何よ?」

「いえ、べつに」

 ゆがんだ自信のこわさって、はたから見ると滑稽だ。

 あけはなたれた窓にもたれ、空を仰ぐ。風になびいた髪を指でつまむ。一本の髪の毛がふたつに分かれている。

 恋というのはこの枝毛みたいに、自分の心に自分と誰かが住んでいて枝分かれしている状態なのだろうか。花輪さんが私の視線を遮ってまで守りたい奏羽への思いや、「みんなの恋」という暗示をかけてまで他の女子を奏羽によせつけたくない思いは、結局は自分のわがままが作り出しているのだろうか。

 髪の毛を一本抜いて、空にほうった。漫画やドラマや映画で美しく語られる恋が、そんな姑息さでできているなら、きっと毒々しい色をしているのだろう。制服の黒でも隠しとおせないほどの、赤黒さ。経血を彷彿とさせる。

 でも、それが恋だとしたら、その恋は、悲恋じゃないだろうか。相手がいるのだもの、両想いでなければ恋は成立しないし、成立したとしても、永遠ではないだろう。神様に誓って結婚したとしても、別れない保証はない。嫌われるかもしれないし、心移りされるかもしれない。そしたらそれきりおしまい。だとしたら、オンリー好きワールドの推し活のほうがいいではないか。

 誰も傷つくことがないのだし、花輪さんだって表向きではそう思ったから、オーナーを買って出たのだろう。ただ私は、私オンリーの推し活として、奏羽を奏羽ノートの中で純粋培養させたいのだ。

「ちょっとヒラ、なに優雅にくつろいでいるのよ。ボーっとしてるならゴミ捨ててきて!」

 花輪さんが私に、ゴミ箱を押しつけた。花輪さんの胸は、体重に比例してかなりふくらんでいる。私の胸は、やっと突起が生まれたぐらいだというのに。

「花輪さんは、『みんなの恋』なんて、くそくらえだと思ってるんでしょう」

「え?」

「本当はや……」

「ゴミ!」

 花輪さんが怒鳴った。顔を真っ赤にして、両手で頭を抱え、私を睨みつける。

「ひ、ヒラ、ゴミ箱貸して。私が捨ててくる」

 黒縁眼鏡の奥の、血走った目を目の当たりにして、私はふるえた。恐怖ではなく歓喜だ。

 花輪さんにゴミ箱を渡すと、巨体を揺らして走っていった。私はとっさに花輪さんのあとをつけた。昇降口のわきのゴミ捨て場にゴミを捨て終えた花輪さんは、そのままトイレへ消えた。

 授業開始のチャイムが鳴る。廊下は無人になった。私はトイレのドアに耳をつけた。ざわめきはない。トイレには花輪さんしかいないのだろう。小にしては長い、まさか大きいほうだろうか。急にもよおしたとか? 奏羽は花輪さんの排泄までコントロールしているのか。いや、でも、何か違う。これも女の勘というのか、私はトイレのドアをそっとあけた。

 手洗い場の横にゴミ箱が置いてある。鍵のかかった個室はひとつ。花輪さんなのは明確だが、ひそやかな声がする。具合でも悪くなったのだろうか。

「……うっ、ううっ……」

 花輪さんの声が、扉越しに伝わってきた。

 泣いてる?

 私がつばを飲むと同時に、ズズーッと洟をかむ音が聞こえた。間髪をいれずに、トイレットペーパーが勢いよく巻き取られる。

「うぐっ……、うええ」

 花輪さんが、泣いている。

 どうして。私に真の気持ちがばれたのが、そんなに悲しかったのか、恥ずかしかったのか。

 トイレは排泄する場所だ。体に必要のないゴミを捨てる場所だ。その涙は、奏羽を思う涙は、ゴミではない。花輪さんの中に芽生えた思いは、ゆがんでいるし、素直ではないし、暴れん坊で手に負えないかもしれないけれど、トイレットペーパーで拭って下水に流すような、汚物ではないはずだ。

 そのくらいは私にもわかる。

 私はとっさに、トイレと天井の隙間にハンカチを投げた。

「ひゃっ」

 素っ頓狂な、花輪さんの声。トイレの床にも便座にも落ちずに、花輪さんがハンカチを受け取ったと思いたい。

「え、ええ? 誰……?」

 花輪さんがうろたえた。私は素早くトイレをあとにした。

 そのまま保健室に向かい、生理痛が酷いという名目で休ませてもらった。ややあって「具合が悪い」と女子がきて、隣のベッドにもぐりこんだ。薄目をあけて確認すると、花輪さんだった。ふたつしかない保健室のベッドは、一年二組の生徒で満員になった。

「大丈夫?」

 寝たふりをしながら、私はたずねた。

「え。あ、大丈夫」

 しどろもどろに、花輪さんはこたえた。

 生理痛も具合が悪いのも、等しく嘘だった。このタイミングで保健室にいる理由がお互い謎だからこそ、共犯意識が芽生えたのだろう。昼休みまで刺々しかった花輪さんの空気が、少しだけやわらいだ。

 五時間目終了のチャイムが鳴る。保健室を出るなり、花輪さんが私の腕をつかんだ。

「これ、ヒラ……、金山さんのでしょう」

 花柄のハンカチをかかげる。

「あ。えーと」

「掃除の時にチラッと見て、おばさんくさいなって思ったからすぐわかった」

 おばさんくさい。イヴ・サンローランは母に返そう。

 花輪さんは気まずそうにそっぽを向き、けれどはっきりと口にした。

「トイレで泣いてたなんて、恥ずかしいよね」

「そうかな。トイレってそもそも、恥ずかしいかも、だし。でも……」

 と、私は言い淀んだ。

「……私が泣いてたのは、自分でもよくわからないけど、なんか気持ちのコントロールがうまくできなくて、それが嫌だなって思ったら、勝手に」

「そうなんだ」

「わかる? この気持ち」

「わかる。わからないって気持ちはわかる気がする」

 ハンカチを受け取り、太陽に透かした。品のいい花柄だけど、中学生らしくないのかもしれない。ブランドものだからいいってわけでもないのか。ハンカチをたたむと、花輪さんは面食らったように、

「友達いなくて不安じゃない? 不気味子ちゃんなんて陰口たたかれて、いじめる価値もないみたいな扱いされて」

 みつあみを握って、毛先を凝視している。枝毛のひとつも見当たらなそうな、太くて強い髪。身体も鉄壁そうなのに、意外にもろいのだ。

「べつに。上辺だけの友達ならいらない」

 それに私は、私の中を奏羽で満たすので忙しいのだ。

「誰にも言わないでくれる?」

「言わないよ。私、友達いないし」

「金山さんって、かっこいいんだね。それより、これがないと困るでしょう?」

 花輪さんがポケットからナプキンを出した。そうだ、ナプキンごとトイレに投げ込んでしまったのだ。

 ありがとう、と言おうとしたら、

「……ありがとう」

 花輪さんに先をこされた。ナプキンは、ふかふかとあたたかかった。

 

「推してダメなら押したおせ」は全4回で連日公開予定