奏羽が窓際で本を読んでいる。鉛色の雲ばかりだった空から光がふりそそぐ。天使の梯子というのだったか。まさに天使の化身のような光の粒子が、奏羽の髪や肩の上でおどりはじめる。早く気づいて、と言わんばかりに。昼下がりのまろやかな日差しにひそむ天使にも、読書に夢中な奏羽は気づかない。神様が奏羽に用があるのかも、と私はため息をつく。
「髪の毛一本いっぽんに水で薄めた蜂蜜を塗り込めたようだ。見ているだけで口に入れたくなる。もしかしたら神様も私と同じように思っていて、おやつにしたい、と天使に告げたのだろうか」。奏羽ノートに書き連ねる時は、どうにもひとりごとを言ってしまう。おかげで私は入学早々に“不気味子ちゃん”というレッテルを貼られ、クラスメイトから遠巻きにされていた。偉大すぎて近づけない奏羽と、異様だから近づきたくない私。ともに昼休みのにぎわいから浮いている。まるで意味合いは違うが、こんな共通点すら福音のようだ。
とはいえ奏羽のモテぶりは尋常ではなかった。同級生はもとより上級生や男子生徒までもが奏羽にちょっかいを出した。柔道部や相撲部員に待ち伏せされたり、美術部からモデルの依頼があったり、その美声ゆえ合唱部からもスカウトされていた。数学や化学の先生は奏羽の肢体を眺めるために黒板に解答を書かせ、英語や国語の先生は奏羽の抑揚や発音に酔いしれたいがために無駄に朗読させるというありさまだった。
クラスメイトの女子ではすでに、三名の猛者というか不届き者が奏羽に告白してフラれていた。以後、女子の中では暗黙の了解で「八神君に告白するべからず」という協定が結ばれていた。
「恋はみんなで分かち合いましょう」
と、いきなりほざいたのは花輪麗美だ。黒縁眼鏡にしめなわみたいなみつあみ。体つきは縦にも横にもむっちりとしていて顔立ちは薄く、美人とは程遠いのに高飛車なのは、クラスで奏羽の次に頭がいいからだろうか。頭のよさだけでクラスの副委員長になって委員長の奏羽とペアになってしまったからだろうか。巨漢ゆえに存在感もあるという、奏羽とは真逆な目立ち方をしているのも、妙な自尊心につながっているのかもしれない。
気色悪いな、と席を立とうとした。
「ちょっと金山さん、あなたも入るのよ」
「はい?」
「“みんなの恋の会”よ。あなたもメンバーだからね」
「いえ、私はべつに興味がないので。入る理由はないです」
「入るべきよ。女子なんだから」
問答無用という態度に引いた。花輪さんが他の女子をちらりと見やると、
「そうよ、女子なんだから」
「そうよそうよ」
と、そうよ攻撃がはじまった。気色悪いうえにめんどうくさい。圧に耐えられず視線をはずしたら男子数人が俺が代わりに入るというように花輪さんに近づいてきた。
「わかりました。入ります」
「そうよ。八神君と同じクラスって特権が与えられたんだもん。みんなで分かち合うべきよ」
輪になった女子が口々に言った。
分かち合う? 恋を? みんなで奏羽の一挙手一投足を、目に焼きつけたそれらを、切り刻んで机に並べて各々バイキング形式で食べ尽くすのだろうか。なんだそのバカな集いは。
「みんなの恋、つまり“推し”。八神君は私達の“推しメン”ね」
輪の中央で花輪さんが高らかに宣言する。推し? みんなで同じ人を崇めることを推しというのか。
「じゃあ、さっそく役職を決めるわね。私がこの会のオーナー、あなたが隊長、あなたが幹部候補、あなたがチームリーダー、あなたが……」
場をぐるりと見渡し、次々に指名していく。指名された子は誇らしげに立ち上がり周囲に会釈をする。なにこれ、自衛隊? 花輪さんがクラスの副委員長で奏羽に無条件で謁見できる立場ゆえ、みんな、つい服従してしまうのだろう。雰囲気にのまれるというのもあり、主任だの支配人だの、どれも横並びでは、な役職が与えられても、しっかとうなずいている。残るは私だけになった。
「あのー……」
「ああ、金山さんは、平で」
ひら。ラクでいいや。
「これからは私達の八神君を観察して、みんなでノートに綴って交換しましょう」
「えっ」
それって『奏羽ノート』のパクりじゃないか。とは、もちろん言えない。
「ヒラ、何か意見でも」
「いえ、べつに」
「ノートは私が用意するわ。一番手は私で、書いてすぐ隊長に渡すね」
議題がまとまったところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。周囲のざわめきなどどこ吹く風、奏羽は終始、本と首っ引きだった。
人に、興味がないのかな。私に興味を持ってほしいという短絡な望みではなく、みんなの恋の会のように、即席に熱くてワクワクするものに惹かれるとか、そういうのはないのかな。
そもそも“不気味子ちゃん”の私は、みんなの恋の会にカウントされても数合わせに過ぎない。でも一致団結して推せるなら、それはそれでいいのかも、と思いはじめている。奏羽に告白してフラれた女子もみんなの恋の会に加わっているのだ、役職が低いのは花輪さんによる戒めだろうけれど、奏羽をひとり占めしたいという安直な願いを罪だと認めた証拠ではないだろうか。付き合う、デート、彼氏彼女。そういう関係よりも、神や命といった宗教みたいな推しワールドに飛び込んだほうが、きっと正しくて、生きやすいのだ。
「みんなの恋の会」発足後、最初の授業は五時間目の国語だった。文法単語の分類について組み立てについて、十の品詞名を先生が黒板に書いている。奏羽はもうノートに書き写してしまったのか、教科書に重ねて別の本を読みはじめた。奏羽の斜め後方の席にいるおかげで、私には本の表紙が見えてしまった。太宰治の『走れメロス』だ。主人公のメロスが反逆罪で捕まるが、処刑まで三日間の猶予を与えられる、その間、メロスの友人セリヌンティウスが人質になる、という友情がテーマの物語だった。あらすじは奏羽だって知っているはずだ。
奏羽は、ひどく険しい顔で本を凝視していた。『走れメロス』で今さらスリルを味わうでもないし、セリヌンティウスの死やメロスの逃亡を懸念するでもないだろう。美しく、賢く、家柄もよく、非の打ち所がないからこそ無機質な雰囲気もある、奏羽の感情は不透明だった。だから女子も男子も勝手に祀り上げて推すのだ。
不透明の奥に、むきだしの心があるのかな。あるとしたらどんな模様で色で匂いなのだろう。
「金山。接続詞を使って文章を作ってみなさい」
先生に名指しされた。驚いた私はとっさに立ち上がった。奏羽までが条件反射のように振りかえった。その目が一瞬、悲し気に潤んだ。先程の険しさとは打って変わって、絶望したような悲しさだ。私が立たされたからではない。たぶん『走れメロス』がそうさせたのだ。
「ええと、あの」
「金山、授業中にぼんやりするな。もういい座れ。代わりに八神、何か文章を作ってくれ」
「メロスは戻らなかった。だから、セリヌンティウスは」
座ったまま奏羽が言う。かすかに笑ってから、席を立った。
「メロスが戻った。だから、セリヌンティウスは助かった」
「なるほど。『走れメロス』からの引用だな」
よろしい、と先生が破顔する。こっそり周囲をうかがうと、誰もかれも奏羽の美声やそつのないこたえに酔うばかりで、ストップモーションのような表情の変化には気づいていない。私は『奏羽ノート』を取り出して、メロス、セリヌンティウス、と書いた。奏羽はBLが好き? いや、そうではなく、もっと根本的な怒りや絶望や悲しさを感じたのだ。メロスが戻らなかったらセリヌンティウスは殺される。殺されるのを覚悟でセリヌンティウスはメロスに賭けた。メロスを信じているから。物語だから、どうせ戻るんだよね、と心の端に安心感を植えつけて、読者は読んでいる。でももし、戻らなかったら、戻るわけがない、と本気で思って、そちらを信じているとしたら。
うしろから背中を突かれた。振り向くとノートが差し出された。表紙には“EVERYONE’S LOVE”。みんなの恋、だ。私の回は初めてである。四月×日「八神君は一昨日髪を切りました。小学生まではお母様と同じ美容院でカットしていたけど、中学生になってお母様と別の美容院に通いはじめたと私におしえてくれました」麗美。一番手の花輪さんだ。なんだこれは、体のいい自慢話か。自分がもっとも奏羽に近いのだと暗に牽制している。四月×日「うわあ、さすが花輪さん、新しい情報ありがとう。八神君が通っている美容院ってどこかな。八神君、さっき廊下でゴミを拾ってたよ」沙穂。花輪さんを称賛しつつもどこの美容院かおしえろよと内々に要求しているのは、幹部候補の飯島沙穂だ。ふん、美容院がなんだ。奏羽はうちの野菜を食べているんだぞ。美容院なんかせいぜい月に一回だけれど、野菜は毎日だし毎食だったら三回だ。毎日、奏羽と私は野菜でつながっている。苗字だってかなかなだし、かなかなはベジタブルツインズなのだ。私はつばを飲み込んだ。これはトップシークレットである。それにしても幹部候補の沙穂、花輪さんがわざわざ麗美と記しているのに花輪さんと返すあたり何やら裏を感じる。ていうかそもそも幹部候補っておかしくないか。花輪さんだってオーナーを譲る気などないくせに。いや、特筆すべきはコメントの速さだ。みんなの恋の会が発足してまだ一時間たらずなのに、もう全メンバーというかクラスの女子全員が書き終えている。当然、私も続きを書き加えねばならない。
四月×日「メロス」と書き、慌てて消した。「国語の時間。八神君は先生の質問にすぐにこたえた。すごいなぁ」ヒラ。このノートに富子とサインしたくはなかった。便宜上、私はここに所属しているけれど、全富子として浸かりたくはない。ノートを花輪さんに戻すよう、うしろの席の子に託し、すかさず奏羽ノートを広げる。メロス、セリヌンティウス、信じる、信じない、さみしさ、悲しさ、と書き殴ったところで自然と、孤独、という言葉が浮かんだ。孤独? 奏羽が? つと、斜め後方から奏羽を見つめる。一昨日切ったばかりだという茶色がかったやわらかそうな髪、白い首筋と漆黒の詰襟。教科書の先を読み続ける澄んだ瞳。すべてを持っているから、他人とか、ワクワクとか、必要ないの? だから、孤独感がただようのかな。五時間目終了のチャイムで、花輪さんがまっさきに奏羽の席へ急ぐ。
「生徒会長に聞いたんだけど、今年からうちの学校、ミス緑ヶ丘ではなくミスター緑ヶ丘を募るらしいの」
近年ミスコンが物議を醸しだしていたから、ミスターコンにシフトチェンジしたのか。距離を保って耳をそばだたせていると、
「オーナーのお姉さんが生徒会長なんだって」
「だから情報が早いんだ」
ヘルプ同士がひそひそと話す。
「だから私、八神君を推薦したくて。ほら、女子達の嘆願文書もこんなにもらってる」
花輪さんが、EVERYONE’S LOVEノートを、詳細が目視できないよう、奏羽の前でぱらぱらとめくった。全メンバーのプライバシーを守りつつ説得材料にする花輪さんの手腕に、教室に残っていた女子が感心していた。
「ね、どうかな。八神君の勉強の邪魔は絶対にしないわ。それにミスター緑ヶ丘に選ばれたら、生徒会の予算で何かひとつ、クラスにご褒美が出るの」
「ご褒美?」
粛々と帰り支度をしていた奏羽が、口をひらいた。
「うん、そう。学級文庫の本を増やしてもらったり。生徒会と先生側で協議はあるんだけど」
「わかった。好きにしていいよ」
「好き?」
おい、おまえを好きって言ったんじゃないぞ。と、私はこっそりこぶしを握りしめた。
「うん」
巨体が数センチ宙に浮くほど、花輪さんの心が飛んだのがわかった。奏羽は唇をAmazonのスマイルみたいに持ち上げた。儀礼的な笑顔だけれど、ご褒美? と聞き返した時は違った。一瞬だけ、目の中にきらめきがあった。
「みんなー、オッケーもらったよー」
花輪さんのひと声で、女子達が磁石みたいに吸いよせられる。私も形だけ一歩二歩、あゆみよる。もう決まったも同然のミスター緑ヶ丘コンテストに夢中で、花輪さんもメンバー達も気づいていない。ご褒美。奏羽には何かほしいものがあるのだ。
「推してダメなら押したおせ」は全4回で連日公開予定