右手のひらで空間を探ると、ひんやりした棒状のものに触れた。手摺りだ。
ぐっと握り締め、階段の二段目に右足を乗せた。踏み外さないように注意しながら、三段目に左足を──。
真っ暗闇の中で手摺りの存在がこれほどありがたいとは、思いもしなかった。
慎重に階段を上ると、踊り場にたどり着いた。手摺りを頼りにして歩き、また階段を上った。
二階に着くと、安堵の息が漏れた。
再び壁を手探りし、廊下を歩きはじめる。
目的地に着いたのは、二十分後だった。かなり早めに自室を出たものの、約束の時間を五分オーバーしていた。
室内で施設長が待っているはずだ。
彼女はポケットに手を差し入れた。ナイフの柄の感触を確かめる。
起こりえることを想像するたび、緊張が高まり、額から滲み出た汗の玉が眉間を伝う痒みを覚える。
彼女は視聴覚室のドアに触れると、軽くノックし、ノブを握り締めた。
「失礼します……」
ノブを回し、ドアを押し開けた。闇の中で甘ったるいローズの香りが鼻についた。
そういえば、施設長は汗っかきのようで、ローズの香りが強い市販の汗拭きシートを使っていた。
中にいるのだろうか。
「あのう……」
闇に向かって声をかけた。
だが、返事は返ってこなかった。
何も見えないと分かっていても、ほとんど条件反射で視聴覚室内を見回した。
人の気配は──ない。
「……荒瀬さん?」
闇に広がっているのは静寂のみ。
彼女は漠然とした不安に押し潰されそうになった。この場にいるのは危険ではないか。
身を翻そうと決意したとき、左側の床付近からカツッと微音が鳴った──気がした。
靴音──?
人がいる!
体が硬直し、緊張が走った。
相手が闇に身を潜めている理由が分からない。不吉な予感に胸がざわつく。
そのとき、闇の中に人の息遣いが聞こえた。先ほどの靴音よりも距離が近かった。
心臓がにわかに騒ぎ立てはじめた。
「荒瀬さんですか?」
声に反応はない。
静寂が緊張を強める。全身に相手の悪意をびんびん感じる。
突然、衝撃があった。悲鳴を上げながら倒れ込むと、そのまま体がのしかかってきた。
「誰か!」
彼女は叫び声を上げ、抵抗した。
何がどうなっているのか分からなかった。
襲われていることだけは理解できた。
押し潰されそうになっている中、全身全霊で押しのけようとした。必死で暴れる。
「放して!」
思い切り突き飛ばすと、男が弾け飛ぶように転がった。
彼女は身を起こすと、息を喘がせながら様子を窺った。闇の中には自分一人の呼吸音だけが広がっている。
男は──。
息を潜めて再び襲いかかる隙を窺っているのか?
それとも──。
静寂は体感で一分以上続いた。急に人の気配が消えた。
彼女は四つん這いのまま、闇の中を手探りして、先ほど息遣いが聞こえたほうへ這い寄った。
手に触れたのは男の体だった。
押しのけたときに机に頭でもぶつけて気を失ったのか、撫で回しても全く反応がなかった。
──意識がなくなったのなら、これは絶好のチャンスだ。
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