プロローグ
彼女は真っ暗闇の中に踏み出した。
視界が完全に閉ざされているため、残った“四感”を頼りに歩を進めなければいけない。
その不便さにもようやく慣れつつあった。
ゆっくり真横に左手を伸ばすと、指の腹が壁に触れた。撫でながら一歩一歩、歩いた。
深夜ということもあり、耳を澄ませてみても物音は一切聞こえてこない。
暗闇は静寂に沈んでいる。
ここは『天使の箱庭』の施設内だった。後天的に障害を抱えてしまった人々のケアやリハビリなどの支援を行っているNPO法人だ。聴覚障害、失語症、手足の麻痺、そして視覚障害──。様々な症状の人々が共同で生活している。
手のひらに感じる壁のなめらかな感触が、ざらっとした手触りに変わった。
ドアだ。
出っ張ったノブに腰をぶつけないよう、少し距離をとりながらドアの前を通り過ぎた。
光が存在しない廊下に自身の足音──室内履きの優しい音が響いている。
歩き慣れた廊下だから、障害物がないことは知っている。
彼女は一歩一歩、慎重に進んだ。
──深夜十二時、一人で視聴覚室へ来てほしい。
施設長の荒瀬鉦太郎から電話を受けたのは、二時間半前だった。内密に──ということだった。用件には察しがつく。覚悟を決め、『はい』と答えた。
そのまま十数歩、進んだとき、左の壁が途切れていた。曲がり角にたどり着いたのだと分かる。
ここはT字になっている。目的地に向かうには、右側へ曲がらなければいけない。
どう進めばいいだろう。
白杖が使えれば──。
白杖は視覚障害者が使う杖で、先端の石突で周囲の情報を得ることができ、安全のためには欠かせないものだ。体より先に杖の先っぽが触れるので、障害物にぶつかって怪我するような事態を避けられる。
彼女は、ふう、と息を吐いた。
突き当たりまで行ってから右へ進んだほうがいいだろう。廊下の幅は二、三メートルほどだっただろうか。
両手を軽く前に差し出し、数歩だけ進んだ。そこで立ち止まり、手のひらで宙を撫でるようにする。
何も触れない。
腕を胸元へ戻し、さらに一歩だけ進んだ。そして、再び腕を伸ばして前方の闇を確認した。
何も触れない。
腕を伸ばしたまま歩を進めたら、壁にぶつかったとき、突き指をしたり、手首を捻挫したりする危険がある。
両腕を引き戻し、また一歩進んでから前方を探る。それを五回繰り返したとき、指の腹が正面の壁に触れた。
壁を認識できると、安心感が込み上げてくる。そっと壁を撫でながら右へ曲がり、真っすぐ歩いた。
頭の中に施設内の地図を思い描いた。視覚障害者は安全な歩行のため、手掛かりを頼りに頭の中に“心の地図”を作っている、と教わったのも、ここ、『天使の箱庭』だった。
訓練しはじめてからあまり間もないので、自分は闇の中で何の問題なく歩き回れるほど“心の地図”は作れていない。一歩一歩が文字どおり常に手探りだ。
途中、ラベンダーの香りが鼻先をくすぐった。
右側にトイレがあるのだと気づいた。施設のトイレはラベンダーの芳香剤が使われている。
歩みを進めると、ラベンダーの香りが遠のいた。
人気がない深夜の真っ暗な廊下を歩いていると、虚無の常闇にたった一人で閉ざされたような錯覚を抱く。
左手の指先が何かに触れ、硬質の音が鳴った。カタッと障害物が動いたのが分かる。立ち止まって手のひらを這わせた。形状で察しがついた。
壁に掛けられた絵画だ。
前面がガラスになっている。健常者にはお洒落だろうが、視覚障害者たちには──何人か入所している──危険ではないだろうか。手が当たって落としたら、ガラスが周りに散らばる。そこで焦って倒れ込んでしまったら、大怪我しかねない。
明日、職員に伝えてみよう。
絵画に触れないように数歩進んでから、再び壁に手のひらを添えた。壁を頼りにして歩く。
また壁が途切れていた。腕に体重をかけていなかったから、宙を突いて体勢を崩すようなことはなかった。
彼女は立ち止まって一息ついた。
にわか仕込みの“心の地図”によると、ここの空間には階段があるはずだ。
音声式の腕時計で時刻を確かめた。
十五分以上かけてようやくたどり着いた。亀の歩みだ。多少なりとも慣れた施設内でこれなら、初めての場所ではどれほど不自由があるのか。
後ろ足に体重を乗せ、前足を前方にのばした。爪先で障害物の存在を探る。
壁に触れた。
そこから足を軽く持ち上げると、壁が途切れていた。そのまま前へ足をのばして下ろした。室内履きの底が床に触れる。
間違いない。
階段だ。
「暗闇法廷」は全2回で連日公開予定