ある日、夫が起きてそのままの状態でぐうたらしていたので、「顔くらい洗ってくれば?」と促すと、のそのそと洗面所に向かっていった。それを背後から尾行し様子を覗き見ていたところ、なんと、眼鏡をかけたまま顔を洗いはじめた。「眼鏡を外すのが面倒だった」と言う。そんな日もあるよね、と軽く受け流せる話ではない。

 いつだったか、顔を洗ったあと、顔面ビチャビチャのまま家の中をうろついていたこともある。思わず「タオルって知ってる?」と人間としての初歩的な知識を問うてしまった。

 そういう事案を人に話すと、「やっぱり研究に没頭してるからだね」と、何故か感心されることが多々あるのだが、私としては夫の珍行動を大いに笑ってもらおうという腹づもりなので割と不満であるし、研究に没頭する者は顔もまともに洗えないという間違った認識を流布されたとなれば他の研究者の皆様方は迷惑千万であろう。

 

 私も相当なガサツを誇ってきた人間であるが、悲しいかな、夫と比べてしまうと突き抜けた豪快さがない。部屋を移動するたびに電気をつけっぱなしにして回るだとか、縄張りを主張するように靴下をあちこち脱ぎ捨てるだとか、2week の使い捨てコンタクトに「まだやれる」と発破をかけ使用期間を勝手に延長するだとかその程度の、人に話したところで爆笑を巻き起こすでも非凡として一目置かれるでもない、単に大人としてどうなのかと呆れられるだけの極めてしょうもないエピソードばかりである。

 だらしがないことを度量の大きさと履き違えて生きてきた私だが、今では夫にあれこれ口うるさく言う側になってしまった。本当はもっとスケールのでかい人間でありたい。しかし、山積みの洗濯物に向かって「もう少し待っててね」と話しかける夫に敵う気がしない。

 

 とはいえ、普段の夫は結構まともである。どう考えても私より賢いし、礼儀正しい。私の両親からも、「なんであんたがこんないい人と結婚できたのか……」と疑問を持たれている。そんな人物だからこそ、思わぬ行動をとった時に、それがより一層突拍子もなく感じられるというわけなのだ。

 

 夫は結婚前、録画した「アメトーーク!」のMr.Children 芸人の回を一緒に観るために(当時の「アメトーーク!」は見逃し配信がなかった)、どう考えても持ち運ぶことを想定していない旧型のでかくて重いレコーダーをリュックに押し込み私の家まで背負ってきたことがある。ディスクにうまくデータを移せず、バスの時間が迫って焦ったらしい。電話が壊れたから叫んで伝えよう、みたいな原始的発想である。「これ相当重かったでしょ?」と私が目を丸くして言うと、「全然。いつもこれよりずっと重いアンモナイト、山から背負って帰ってるから」と余裕の表情を見せていた。

 このように、夫は時折、力業でピンチを切り抜けようとする。

 

 夫が新聞でコラムを連載していた頃、新聞社が主催する新年親睦パーティーに招待された。夫は「わーい、タダでご馳走」といかにも庶民的な舞い上がりを見せ、意気揚々と出かけて行った。会場はホテルで、新聞社といえばお堅いイメージもあるため、私はてっきりスーツで行ったのだろうと思っていたのだが、会場に着いた夫からすぐさま「服装ミスった」とLINEが届いた。

「あれ、スーツで行かなかったの?」

「ニットとジャケット……ネクタイしてない」

 かっちりスーツばかりの招待客の中には地元の偉い人もちらほら見え、市長までいたらしい。当時、夫は市立博物館で働いていたので、市長は社長みたいなものである。地元の有力者か何かならともかく、若造がノーネクタイで堂々とウロチョロするのは憚られるくらいにはフォーマルな場、というわけだ。スーツで行くように言えばよかったな……と今更思ったところで私にはどうすることもできない。夫が状況を逐一報告してきたので、それを見守るだけである。

「一回会場から出た」

「ファミマでネクタイとワイシャツ買った」

「トイレで着替えた」

「再突入」

 コンビニでネクタイとワイシャツが手に入るとは、便利な世の中である。一度退却して服を調達する判断を下した冷静さに感心していたところ、思いがけない報告が届く。

 

「脱いだ服は雪の中に隠した」

 

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

「雪の中ってどこ?」

「ホテルの横の雪山」

「えっ、じかに?」

「いや、コンビニの袋に入れて、ズボーって埋めた」

 雪の積もらない地域にお住まいの方がイメージできるかわからないので念のため説明すると、雪国では積もった雪を道路や建物の脇に寄せて除雪するため、真冬になるとあちこちに人の背丈くらいの雪山ができる。夫はそこに脱いだ服入りのビニール袋を素手で押し込み埋めたと言うのだ。冬眠前のリスみたいな所業である。

 

 そうして最低限許されるくらいの服装になった夫は無事タダ飯を食うことに成功したが、帰りに服を掘り起こしに行くと雪山の表面にうっすら雪が積もっており、埋めた穴を見失ってしばし捜索する羽目になったらしい。

 帰宅した夫に「ホテルの会場ならクロークあったよね?」と聞いたら、「あったけど、ビニール袋だけ預けるの変じゃん」と言っていた。どう考えても雪山に預ける方が変である。

 

 研究に没頭しているから、などという理由では説明がつかないことが日々起きている。一緒に暮らす人間は面白いに越したことはない。しかし、洗顔料が見当たらないからといって、ハンドソープで顔を洗うのはもうやめた方が良い。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください