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「……文宣の言う通りだよ。実際はロープじゃなくて、針金だったけどね」

「お父さんはその現場を見たんですか?」

「ああ。連絡がつかなくて、お母さんと一緒に様子を見に来て発見したんだ。黙っていて悪かった。『お祖母ちゃんが自殺した』なんて言ったら、文宣と沙耶にトラウマを与えてしまうんじゃないかと思ってさ」

「お気遣いは理解します」

「すまない……」

「ところで、自殺の原因は何だったんでしょう?」

「それが、よくわからないんだ。足腰が弱っていたこと以外は、病気もなくて健康だったし、快活でおしゃべりで……そして強い人だった」

「強い、とは?」

「お祖母ちゃん、昔は相当苦労したらしい。子供の頃に家族と生き別れたり、空襲で下宿先を焼かれたり。そういう辛い過去を乗り越えて、それでも明るく笑える人だったんだ。

 でも、亡くなる少し前から、急に元気がなくなってな。性格が変わったっていうか……。好きだった一人旅も行かなくなったし、食事会もなくなった」

「食事会?」

「ときどき誘われて、俺とお母さんと三人でご飯を食べていたんだ。蟹とか焼肉とか、いつも豪勢なものをご馳走してくれたよ。けど、あるときから誘いがぱたりと来なくなった。心配で時々様子を見に来たけど……お祖母ちゃん、あの部屋、、、、に閉じこもって顔を合わせてくれなかったんだ」

 父は、玄関横の扉を指さした。

 

「あれは何の部屋ですか?」

「仕事部屋だよ。中を見てごらん」

 そこは四畳ほどの小部屋だった。机と小箪笥、二つの本棚、そして計器類が置かれている。

 

「あれは、測量に使う道具ですよね」

「そうだよ。お祖母ちゃん、若い頃は測量士をしていたんだ。引退したあとは大学で測量学の教授をしながら研究をしていたらしい。お母さんと似てるよな」

 測量士とは、土地の形を測り、地図や設計図などを作る仕事だ。分野は違うが、建築学とは関わりが深い。部屋の様子も、どことなく母の自室に似ている気がする。

 不思議な気持ちで眺めていると、ある個所に目が留まった。

 

「床に傷がついていますね」

「え?」

「あそこです。本棚の手前に擦り跡があります」

「本当だ。よく気づいたな」

「本棚を移動させた跡でしょうか。ちょっと動かしてみます」

「お……おい、そんないきなり」

 

 栗原は本棚の角を持ち、こちら側へ引っ張った。

 分厚い専門書が詰まっているのでかなり重い。力をこめると「ギー」と不快な音を立てて、ゆっくりと動き出した。

 計器類をまたいで本棚と壁の間に体をねじ込む。スマホのライトで照らしながら観察すると本棚の裏に何かを見つけた。

 

 封筒の上部を切り取り、袋状にしたものが貼られている。その中に差し込まれているのは、二つ折りにされた古い紙だ。

 黄ばんだ古紙は、水に濡れたのを乾かしたようにべこべこと歪んでおり、隅には両面テープが貼られている。

 抜き取って広げると、奇妙な絵が描かれていた。

 

 地図だろうか。不気味な地図だ。真ん中に描かれた化け物は何なのだろう。

 右上のシミも気になる。インクにしては質感がおかしい。まさか……。

 そのとき、本棚の向こうから父の声がした。

「文宣、大丈夫か?」

「はい」

 計器類をまたいで、部屋に戻る。

「箪笥の裏にこんなものが隠されていました」

「……何だ、これ?」

「地図のようですが、詳細はよくわかりません。お父さん、何かご存じありませんか?」

「……いや、俺もはじめて見た。……それにしても気持ち悪い絵だな。妖怪……か?」

「百鬼夜行……というやつでしょうか」

「文宣……すまない。一回、外に出ていいかな? なんか、気分が悪くなっちゃってさ」

「大丈夫ですか?」

「情けない話……こういうのが苦手なんだ。その……妖怪とかオバケとか。昔から怖がりでね。絵を見るだけで吐きそうになっちゃうんだ」

「そうでしたっけ……? まあ、気分が悪いならもう帰りましょうか。遅くなると沙耶も心配するでしょうし」

 栗原は地図をポケットにしまい、帰り支度を始めた。

 

・・・

 

 帰りの道路で、車は渋滞に巻き込まれた。

 なかなか動かない車列を眺めながら、父はぼそりとつぶやいた。

 

「しかし血は争えないな。お祖母ちゃんは学者、お母さんも学者、そして文宣も、だ」

「私は学者ではありません」

「性格の話だよ。三人とも頭がよくて、探求心がある」

「二人はどうか知りませんが、私に関しては過大評価です」

「さっき名推理で俺を追い詰めたじゃないか。それに、あの古地図だってよく見つけたよ。俺は今まで何度もあの部屋に入ったのに、床の傷を見過ごしてた。観察力がないんだ」

「お父さんは背が高いですから、私より床が見えづらかったのでしょう」

「無理にフォローしなくていいよ。それに、たとえ気づいたって『傷がある』としか思わない。『本棚の裏に何かがある』だなんて想像できなかった。文宣と違って、俺は凡庸な人間なんだ。取引先にお世辞を言うくらいしか能がない」

「私はお世辞を言うのが不得意です。その点において、お父さんは私より有能といえます」

「はは……一応、褒め言葉として受け取っておくよ」

「それに、お父さんはとても優しい人間です」

「……俺がか?」

「お父さんは、あの家にトラウマを抱いているんですよね。なのに頻繁に通い、掃除をしていた。『お母さんが大切にしていた』という理由だけで、18年間もそれを続けたのは偉いと思います」

「大したことじゃないさ」

「大したことです。私はそういった優しさを持っていないので、素直に尊敬します」

「文宣だって優しいだろ?」

「ご冗談を」

 

 家に着く頃には夕焼けが出ていた。帰りが遅くなったこともあり、父に勧められるまま、その日は実家に泊まることになった。

 高校を卒業するまで過ごした子供部屋のベッドに寝転び、持ってきた古地図を眺める。

 

 船が描かれていることから、下の部分は海だと思われる。

 海沿いの土地に民家が20軒ほど建っている。漁村だろうか。

 

 漁村の中央には湖らしきものがあり、その近くに同じ形の物体がたくさん描かれている。その物体には、すべて三日月形のマークのようなものが見える。石碑、あるいは墓石だろうか。

 

 湖の向こうには三角屋根の建物。そして、歩く女の後ろ姿。

 彼女が向かう先には……。

 

 謎の化け物。これはいったい何なのだろう。ふと、ある場所に目が行く。

 

 川だろうか。蛇行しながら海に向かって流れている。すると上流にあたる、このひょうたん形の絵は、山である可能性が高い。

 山に住む化け物たち。そこへ向かう女……不吉な想像を搔き立てる絵だ。

(化け物……妖怪……そういえば)

 

 あることを思い出した栗原は、ベッドから起き上がり、クローゼットを開けた。

 クローゼットは本置き場になっている。推理小説、エッセイ、詩集……お気に入りの本がぎっしりと詰まっている。その中から、一冊の本を探す。それは、奥の方に眠っていた。

『ぢごくの森 平成怪奇図鑑』……子供向けの恐怖絵本だ。だが『子供向け』という割には、血みどろの地獄絵図や、恐ろしい妖怪が容赦なく描かれている。よほどのホラー好きでなければ、大人でも顔をそむけてしまうだろう。そのせいか、今は絶版になっているらしい。

 これは母に買ってもらったものだ。昔、二人で書店に行ったとき、棚の隅に置かれたこの絵本を見つけ、おどろおどろしい表紙に目が釘付けになった。遠慮がちにねだると、母は二つ返事で買ってくれた。

 子供が興味を持ったものなら、それが何であっても尊重してくれる人だったと、今にして思う。

 その夜、帰宅した父に絵本を見せた。父は「面白いものを買ってもらったな!」と言って絵本を手に取り、じっくり眺めていた。

 

(ああ、そうか……私はすっかり騙されていた)

 

 栗原は絵本を持ってリビングへ向かった。父はソファでテレビを見ていた。

 

「お父さん」

「おお、どうした?」

本当のこと、、、、、を話してもらえませんか?」

「……もう全部話したよ。家のことも、お祖母ちゃんのことも」

「まだ教えてもらっていないことがあります」

 テーブルの上に『ぢごくの森 平成怪奇図鑑』を置く。

「これ、覚えていますか?」

「……懐かしいじゃないか」

「よく一緒に眺めましたよね。お父さんも楽しそうに見ていたように記憶しています」

「子供の頃、水木しげるとか諸星大二郎もろほしだいじろうの怖い漫画が好きだったからな」

妖怪やオバケが苦手、、、、、、、、、、というのは嘘なんですね」

「あ……。また自分からボロ出しちゃったなあ……」

「ボロ出しすぎです。ただ、一つ気になる点があります」

 

「情けない話……こういうのが苦手なんだ。その……妖怪とかオバケとか。昔から怖がりでね。絵を見るだけで吐きそうになっちゃうんだ」

 

「お祖母さんの家で古地図を見たとき、お父さんは本当に辛そうでした。嘘をうっかり信じてしまうほど、顔色が悪く声も震えていた。演技とは思えません。

 お父さんはたしかに、怖がっていた。ただ、それは妖怪の絵に対してではなく、地図そのものに怯えていたのではありませんか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、?」

 そう言って古地図を差し出すと、父は顔をしかめた。

「やめてくれ……」

「やはり、これ、、にトラウマを抱いているんですね」

 栗原はすでに、その理由に見当をつけていた。

「もしかして、お祖母さんは自殺するとき、これを持っていたのではありませんか?」

「……どうしてそう思うんだ?」

「この古地図、一度水に濡れたようにべこべこしています。浴室の水気を吸ったからではないでしょうか。そして右上の黒いシミ。インクにしては色合いが鈍く、表面がざらざらしています。これは血痕の特徴です。自殺の際に付着した、知嘉子お祖母さんの血液なのではないかと考えました」

「でも、お祖母ちゃんの死因は……」

「はい。彼女は首を吊って亡くなった。出血はなかったはず……最初はそう思っていました。しかし同時に、ほんの少しの違和感がありました」

 

「浴室の手すりは、あまり首吊り自殺に向いているとは思えません。家の中には、梁やカーテンレールなど、より適したものがいくつもありました。なぜお祖母さんは、わざわざ浴室を選んだのか、、、、、、、、、、、、

 話は変わりますが、自殺方法としてもっともポピュラーなのは、リストカットだそうです。『手首を刃物で切る』というのは、他の方法と比べて難易度が低いのでしょうね。

 ただ難点は、自殺現場が血で汚れてしまうことです。よって多くの人は、家族に迷惑をかけないために、掃除のしやすい浴室を使うといいます。湯をためた風呂の中で手首を切れば、流れ出した血を自分で見ずにすみますから、精神的にも楽なんだそうです」

「……詳しいな」

「ただ、リストカットにはもう一つ難点があります。成功率が低いんです。失血死を起こすほどの出血は、手首を切るだけでは難しいんでしょうね。

 もしかして、お祖母さんは一度、自殺に失敗したのではないでしょうか」

「お祖母さんは最初、浴室で手首を切った。しかし、死ぬことができなかった。だから方法を変えることにした。そのとき目についたのが手すりだった。彼女はいったん浴室の外に出て、ロープを探した」

 

「……文宣の言う通りだよ。実際はロープじゃなくて、針金だったけどね」

 

「『針金』という、首を吊るにはややめずらしい道具を使ったのは、紐状のものが他に見当たらなかったから、と考えれば説明がつきます。古地図の血痕は、リストカットで流れた血が付着したのでしょう。つまり、お祖母さんは自殺をする際、古地図を浴室に持ち込んだ、、、、、、、、、、、、ということです。

お父さんがこれを見て青ざめたのは、遺体発見時のことを思い出してしまったからですね?」

「……本当に、文宣には嘘がつけないな」

「ではやはり」

「ああ。だけど、地図を見て思い出したわけじゃないんだ。仕事をしてるときも、飯を食ってるときも、今こうしてテレビを見てるときだって、あの光景がいつも頭の片隅に浮かんでるよ。

 必死に目をそらすけど、気を抜くと直視してしまう。そのたびに恐怖と、自殺を防げなかった罪悪感が襲ってくる」

「だから、黙っていたんですね」

「騙すようなことをしてごめんな。お前の言う通り、お祖母ちゃんはこの地図を手に持った状態で亡くなっていた。よっぽど大切なものだったんだろうな」

「本棚の裏に隠したのは、お父さんですか?」

「いや、俺じゃない……知らない間になくなってたんだ」

「なくなってた?」

「遺体を発見したあと、110番通報して、すぐに警察が来て現場検証になったんだ。浴室にあったものはすべて回収されたけど……この地図はなかったな」

「では警察が来る前に、お母さんが回収したのでしょうか」

「そうとしか考えられないよな……」

「その後、お母さんは本棚の裏に細工をして隠した」

「……いや、細工はお母さんとはかぎらないんじゃないか? お祖母ちゃんが生前作ったものかもしれないし」

「それはないと思います。あの本棚はとても重くて、若い私でも動かすのに苦労しました。足腰の弱っていたお祖母さんに動かせたとは思えません」

「言われてみればそうだな」

 

 おそらく母は『警察が来る前に勝手に回収してしまった』という負い目から、人目につかない場所に隠したのだろう。だが、それだけが理由ではないはずだ。

 

 床の傷の多さから察するに、母はたびたび本棚を動かし、古地図を取り出していたのだ。

 何のために?

「そういえば、お母さんはお祖母さんの死後、毎月あの家に行って管理をしていたと聞きましたが、お父さんも同行したんですか?」

「いや、いつも一人だった。一緒に行って手伝おうとしたけど、断られちゃってさ」

「断られた?」

「一人で思い出に浸りたいのかと思って、無理に付いていくことはしなかったよ」

「お母さんは、亡くなるまでずっと通い続けたんですか?」

「さすがに、文宣が生まれてからは頻度は減ったけど、それでも3か月に一回は行ってたと思う。沙耶を妊娠してるときも、大きいお腹を抱えて出かけて行くから心配したよ。何度も止めたけど無駄だった。お母さん、頑固だからな」

 

 母の目的は、本当に家の管理だったのだろうか。そこまでこだわるということは、何か他の事情があったように思える。もしや……。

 

「お父さん、色々教えていただきありがとうございます。おかげで謎が解けました」

「また何かわかったのか?」

「きっとお母さんは、お祖母さんの自殺の原因を探っていた、、、、、、、、、、、、、、、、、のだと思います。おやすみなさい」

 父に礼を言ってリビングを出ると、母の部屋に向かった。

 六畳の洋室には、机と本棚が置かれている。栗原は片っ端から遺品を調べていく。

(きっと、どこかに調査記録、、、、があるはずだ)

 

「変な地図」は全4回で連日公開予定