祖母が死んだとき、母はどんな気持ちだったのだろう。悲しみ、喪失感、悔しさ……当然そういった感情はあっただろうが、一番大きかったのは『なぜ自殺をしたのか』という疑問だったのではないか。
そして唯一の手がかりが、祖母が浴室に持ち込んだ古地図だった。だから母は、警察に回収される前にそっと隠し、自分の手で自殺の原因を突き止めようとした。
母が頻繁にあの家に行っていたのは、調査のためだったのではないか。そのたびに本棚を動かし、古地図を取り出していた。自宅に持ち帰らなかったのは、調査と日常生活を線引きしたかったからだろう。その感覚が、栗原には理解できた。
栗原は何かに興味を持つと、食事も睡眠も忘れて没頭してしまう性格だ。以前、不可解なイラストが掲載されたブログを発見し、その謎を探るために1週間、不眠不休で調査を続けた。結果、栄養失調で緊急搬送された。
意識的に作業を区切らなければ、生活を失ってしまうのだ。
母もおそらく、そういう人間だったのだろう。だとしたら……。
(そうだ。この部屋を調べても意味がない。調査記録があるとすれば……)
自室に戻り、荷物をまとめ、玄関へ走る。靴を履いていると、父がやってきた。
「文宣、こんな時間にどこへ行くんだ?」
「もう一度、あの家に行ってきます」
「行ってどうするんだ?」
「お祖母さんの自殺の原因を突き止めます」
「どうしてそんなことをするんだ?」
「……お母さんが、最期まで調べていたことだからです。彼女の調査を私が完成させます」
「文宣、やめなさい」
父は静かに言った。しかしその口調には、珍しく厳しさが含まれていた。
「どうしてですか?」
「お祖母ちゃんもお母さんももうこの世にいない。今さら……仕方がないだろう?」
「そんなことはありません。知ることに価値があるんです」
「暇なときならいくらでも調べればいい。でもお前は今、時間がないはずだ」
「私の時間をどのように使おうと、私の勝手です」
「内定、出たのか?」
静かな言葉が胸に刺さる。
「……いえ、まだです」
「最近は、学歴や資格だけでは面接に通らないって、職場の若い子たちから聞く。人柄重視っていうのか? 積極性とかリーダーの素質が求められるんだってな」
「そのようですね。リーダーの素質が、20分程度の面接でわかるとは思えませんが」
「俺も同意見だ。そんな尺度で文宣を測ってほしくないとも思う。でも悔しいことに、社会っていうのはわからずやなんだよ。わからずやの社会に自分を合わせないと生きていけないんだ。
時には、相手が望む人間を演じることだって必要だ。今日明日でできることじゃない。お祖母ちゃんについて考えるよりも、模擬面接の一つでも受けた方が有意義だ」
「…………」
返す言葉がなかった。
だが、今の気持ちを抱えたまま、就活に打ち込めるとも思えなかった。
「文宣、次の面接はいつなんだ?」
「7月12日です」
「あと1週間か。それまでにしっかり練習を……」
「それまでには調査を終わらせます」
「文宣!」
「自分の人生は自分で決めます……さよなら」
父の返答を聞かず、外へ出た。すっかり暗くなった道を、駅に向かって歩く。
(お父さんの言っていることは正しい。私は駄々っ子のようだ。でも……)
公園の前を通りすぎる。いつか、ここで母と遊んだのを覚えている。
栗原は昔から運動が苦手だ。ジャングルジムは一段しか登れなかったし、いくらブランコをこいでも、高く揺らすことができなかった。
そして母は、息子以上に運動音痴だった。ブランコに乗る栗原の背中を押そうとして、転んで泥だらけになってしまったことがあった。家に帰ったあと、二人で風呂に入って、インスタントのコーンスープを飲んだ。
研究で忙しい母が一緒に遊んでくれた、数少ない思い出だ。栗原は今でも、その些細な一日を心に大切にしまっている。
母は沙耶を妊娠中、大きなお腹を抱えてあの家に通っていたという。
つまり、死の直前まで調査を続けていたということだ。真相を知らずに命を終えたのだ。悔しかったに違いない。いつか聞いた、あの舌足らずな声がよみがえる。
『知りたい気持ちは、止められないんですよ~』
すでに通勤ラッシュは終わり、電車はすいていた。飯田橋で下車し、先ほどの記憶を頼りに、あの家へと向かう。都心は夜でも騒がしいものと思っていたが、駅を離れると、人がいないかのように静かだ。
やがて家が見えてくる。昼間とは印象が違う。闇の中に身を潜めるように佇んでいる。
郵便受けから小箱を取り出し「く(9) り(1) は(8) ら(0) 」とダイヤルを回す。
引き戸を開けると、家の中はしんと静まり返っていた。窓から差し込む月灯りが、ぼんやりと床板を照らす。手探りでスイッチを入れると、白い電気がまぶしく灯った。
祖母の仕事部屋に入り、母の調査記録を探す。

まず机を調べるが、めぼしいものは見つからない。続いて、小箪笥の一段目を開ける。クリアファイルが入っている。その中に、祖母の戸籍謄本が挟まれていた。
空欄が多い。「出生地」「出生日」「父」「母」などの項目に何も書かれていない。
昔は今と比べ、戸籍の管理がおおざっぱで、特に地方の出身者は出生届が出されないこともあったという。祖母もその一人だったのだろうか。唯一、祖母の旧姓が『沖上』であることがわかったが、それ以外にこれといった情報はない。父の言葉を思い出す。
「お祖母ちゃん、昔は相当苦労したらしい。子供の頃に家族と生き別れたり、空襲で下宿先を焼かれたり」
家族との縁が薄い人だったのだろう。ファイルを戻し、二段目のひきだしを開ける。文具や、お土産でもらうようなキーホルダーがしまわれていた。
そして最後に三段目。開けた瞬間、焦げたような匂いが鼻先をかすめた。
見ると、スーパーのビニール袋に、真っ黒な板状のものが入っている。よく見ると、それは黒焦げの大きなノートだった。ふと昼間の光景がよみがえる。

庭の隅に置かれていた、炭になった木。誰かが庭で焚火をして、ノートを燃やしたのだろうか。しかし、なぜ?
ビニール袋をどけると、ひきだしの底に大量の日本地図と、スヌーピー模様の小さなメモ帳があった。メモ帳を手に取り、表紙をめくる。ペンで文字が書かれている。
1991年9月23日
葬儀、おおむね済む⇒実家で荷物整理⇒庭に焚火の跡と焦げたノートを発見。
特徴的な右肩上がりの文字。そして短文を『⇒』で繋げる癖。間違いない。母が書いたものだ。
断片的な言葉しか書かれていないが、だいたいの意味は理解できる。
祖母の葬儀が済んだあと、母は遺品整理のためにこの家に来た。そして焚火の跡と、燃やされたノートを発見した。すると、ノートを燃やしたのは祖母ということか。
ページをめくり、次の日記を読む。
1991年9月24日
焦げたノート、すべて確認⇒解読可能な文字なし。
ただし1頁目にテープの跡⇒紙を貼り付けていた可能性大。
栗原は黒焦げのノートの表紙をめくる。

たしかに1ページ目に、溶けたプラスチックが付いている。テープの燃え跡だろう。
だが、何かを貼り付けていたにしては、位置がおかしい。
そのときふいに、あることを思い出す。古地図を広げ、裏面を見る。

上部に両面テープが2枚貼られている。なるほど、と思った。

祖母は、ノートの1ページ目に古地図を貼り付けていた。だが、燃やす前に剥がしたのだ。その際、上のテープ2枚が古地図に、下の2枚がノートに残ったのだろう。
どうやら母も同じように推理したらしい。メモの続きにはこう書かれている。
地図の裏にもテープの跡あり⇒ノートを燃やす前に剝がした?
その後地図を持って自死⇒なぜ?
ノートの最初に地図を貼った⇒地図をテーマに何かを調べていた?
最後に貼られた15枚の写真が結論?
『15枚の写真』という記述が気になる。
黒焦げのノートをめくると、最後のページにあるものを見つけた。

見開きいっぱいに、長方形の紙が15枚貼られている。すべて焦げてしまっているが、サイズから考えて写真に違いない。
つまり祖母は、ノートの1ページ目に古地図を貼り、その後数十ページに渡って何かを記し、最後に15枚の写真を貼ったということだ。では、なぜそんなことをしたのか。母は『地図をテーマに何かを調べていた?』と推測している。そういえば、先ほど父がこう言っていた。
「亡くなる少し前から、急に元気がなくなってな。性格が変わったっていうか……。好きだった一人旅も行かなくなったし、食事会もなくなった」
もしや、祖母は旅行ではなく、調査に出かけていたのではないか。そこで得た情報を、このノートにまとめていた。
元気がなくなったから旅をやめたのではない。調査が完了したから、出かける必要がなくなったのだ。つまり、最後の旅で祖母は何らかの『真相』にたどり着いた。
15枚の写真に収められたその『真相』は、祖母にとってあまりに辛いものだった。だから彼女は死を選んだ。そう考えれば辻褄は合う。
では、祖母はいったい何を調べ、何を見つけたのだろう。
メモの続きを読む。
1991年9月27日
母の自殺、地図に関係ありと見て調査開始。描かれた場所は不明。
出身地の可能性⇒母の戸籍謄本取得⇒出生地不明。参考にならず。
母は、古地図をもとに祖母の自殺の原因を探ろうとした。たしかに、それくらいしか手がかりはない。
気になるのは、祖母の出身地を調べるために、わざわざ戸籍謄本を取り寄せた点だ。祖母は自分の故郷を、母に教えていなかったということか。自分の生い立ちを隠したかったのだろうか。
1991年10月6日
地図に描かれた場所、調べるために日本地図を各種購入⇒現段階で結果得られず。
今後も照合作業を継続予定。
日本全国の地図を集めて地形を見比べ、古地図に描かれた場所を突き止めようということだ。メモ帳とともにあった大量の日本地図の意味がようやくわかった。
インターネットがなかった当時は、手作業で調べるしかなかったのだ。
1991年11月2日
〇〇県〇〇市 〇〇地区 山の位置関係に類似あり⇒湖なし。
他、沿岸の地形に差異⇒地形変動の可能性を調査⇒過去に大きな変化なし。
結論⇒不一致。
1991年11月25日
〇〇県〇〇町 〇〇地区 山に接した道と湖あり⇒山の位置関係に類似はあるものの、湖は存在せず。地形変動の可能性を調査⇒過去に大きな変化あり⇒湖が存在した記録なし。
結論⇒不一致。
1991年12月16日
〇〇県〇〇市 〇〇地区 湖と沿岸の形状に類似点あり。山の位置関係に差異あり⇒誤差の範囲か。文献を調査⇒過去に人が住んだ記録なし。
結論⇒不一致。
以降、このような調査記録が続くが、結果は毎回『不一致』。だいぶ苦戦していたようだ。
1992年の6月から10月にかけて記録が途切れている。ちょうど栗原が生まれた時期だ。産休だろう。
休み明け最初の日記には、母になった気持ちや、子供への思いなどはなく、淡々と調査結果だけが書かれていた。栗原は思わずニヤリとする。
これでいい。感情を混ぜれば記録が濁る。母の誠実さが嬉しかった。
その後も調査は続き、祖母の死から6年。ついに母は古地図の場所を突き止める。
1997年7月14日
R県  柿童地区
沿岸部の僻地に地形の類似あり。山、湖、沿岸の形状と位置関係、おおむね一致。
1997年7月15日
文献を調査⇒過去に小規模な集落が存在した記録あり⇒河蒼湖集落。
年内に実地調査予定。
スマホで『河蒼湖集落』と検索する。R県の沿岸部にかつて存在した集落で、現在は誰も住んでいないという。

見比べると、たしかに地形がぴったり一致している。古地図に描かれているのは、この場所と考えて間違いないだろう。
妖怪の山は『母娘山』というらしく、現在はトンネルが掘られ、電車が通っているらしい。
それにしても、位置情報アプリがなかった時代、忙しい生活の合間を縫って、自力でここまでたどり着いたのは、すさまじい執念だ。
しかし、母はここからどのような調査を行うつもりだったのだろう。
メモ帳をめくる。その先には、何も書かれていない。
小さくため息をつく。わかっていた。
最後の日記が書かれたのは1997年7月15日。この1か月後、母は死んだ。きっと、実地調査にも行けなかったのだろう。あの声が頭に反響する。
『知りたい気持ちは、止められないんですよ~』
突然、体の奥で熱が生じる。
気付くと家を飛び出していた。
おかしな行為だと自分でもわかっている。
「お前にそんな時間はない」と父は言うだろう。
わかっている。しかしこの気持ちを止めることはできない。
母の無念を晴らすためか……いや、違う。単純に知りたいからだ。
一度興味を持ったら、調べずにはいられない。それが栗原という男なのだ。
駅前の店でリュックと数着の着替えを買う。家に戻り、古地図、母のメモ帳、黒焦げのノート、そして何かの参考になればと、本棚からいくつかの専門書を選び、リュックに詰め込んだ。
高速バスの時刻表を調べる。R県方面のバスは、明日の午前6時発だ。仮眠を取るため、フローリングにごろりと横たわる。目を閉じると、5分ほどで眠りに落ちた。
目を覚ましたのは夜明け前だった。
まだ少し早いが、いいだろう。重いリュックを背負い、外に出る。
空は雲に覆われている。そのとき、ポケットの中でスマホが鳴った。沙耶からだ。
「もしもし、文宣です。早起きですね」
「ううん。今寝るところ」
「沙耶。徹夜は健康によくないですよ。とある研究によれば、記憶したことが脳に定着するのは一定時間の睡眠を……」
「あのー……もう寝たいから用件だけ話していい?」
「……失礼しました。どうぞ」
「お父さんから伝言」
緊張が走る。昨日、父を振り切るように家を出てしまった。怒っているだろうか。
「……お父さんは何と?」
「『少しでも準備はした方がいい。だから、面接の前日だけは練習に使いなさい』って」
「……では、それまでは許してくれると?」
「止めても無駄だって思ったんじゃない? お兄ちゃんの頑固さは、お父さんが一番よく知ってるからね。……なんか、調査するんだって?」
「はい」
「好きだね、そういうこと」
「ええ、まあ」
「お父さんに何か伝言ある?」
「……『約束します』とお伝えください」
「わかった。あと、私からも一言」
「なんですか?」
「……危ないことはしないでね。お兄ちゃん、すぐ周りが見えなくなるから」
「……忠告、感謝します」
この続きは、書籍にてお楽しみください