一
何かと噂に上る男である。
「ちょいと、勇さんはいるかい?」
深川新地の居酒屋に、小股が切れ上がった婀娜な姐さんが飛び込んできた。
「勇さんかい、そういやあ今日はまだ見てねえな」
「どけえ行ったんだろうなあ」
応えたのは、ちょっとばかり勇み肌の兄さんと、ふくよかな顔が何とも愛敬を醸す、三十絡みの男である。
油揚げと野菜の煮しめで軽く一杯やりながら、遅めの中食をとっていた二人は、〝勇さん〟のお仲間のようだ。
「何だい何だい、まったく、ここぞという時にいないんだから困るよ」
溜息をついた姐さんの通り名は〝さいころお銀〟。
「お銀、儲け話かい?」
ニヤリと笑った勇み肌は、〝一八の直助〟。
「そいつは、急いで勇さんを捜さねえといけねえなあ……」
剽げた仕草で相槌を打ったのは、〝掃除の笛五郎〟。
何れを見ても、堅気の衆には見えない。
深川新地の界隈で、あれこれおこぼれにありついて、その日暮らしを送る、遊び人のようだ。
この三人が頼みとしているのが勇さんとなれば、噂の男は名代の侠客のように思われるのだが、同じ頃、六間堀の旗本屋敷でも、
「勇之助は、いったい何をしているのでしょうねえ」
と、老婦人が嘆いていた。
勇さんの名は、どうやら勇之助であるらしい。
「放っておけばよいのです」
三十半ばのおっとりとした武士が、我関せずと応えた。
武士はこの屋敷の当主である、旗本三百石・宝城六太夫という。
「あのような極道者は、どこでどうなろうと知ったことではありませんが、あなたの弟があれでは、将来に傷がつくやもしれぬではありませんか」
老婦人は、六太夫、勇之助兄弟の母で、せいという。
亡夫・主水之助の代から、宝城家は無役である。
後家となってから、せいは息子の立身を望んでいたが、次男坊の放蕩ぶりに困り果てていたのだ。
「まず、どれほどのこともできませぬよ。これまでは何の値打ちもない冷や飯食いでございましたが、わたしが本家の養子にでもなれば、飼っていてよかったというものです」
「飼っていてよかった? その時は、あなたに代わって勇之助がこの家の主に?」
「ことの順序といたしましては」
「とんでもないことでございますよ。あんなできそこないに、この家を継がすわけには参りません」
「ならば、どうせよと」
「その折は、また新たにこの家にも養子を迎え、できそこないは廃嫡にしてやればよろしゅうございますよ」
「なるほど。それもよろしゅうございますな」
「今すぐにでも、勘当してやりたいところですが、あまり締め付けると、何をしでかすか知れませんから……」
「母上の仰せの通りかと。暴れ者のたわけを自棄にさせては、なりますまい」
神妙な表情で頷き合う母子を見ると、勇之助は旗本の次男で、随分と厄介者扱いをされているようだ。
深川新地での様子を見れば、母と兄は勇之助の放蕩に手を焼いていて、日頃からこの次男坊を毛嫌いしているらしい。
それが勇之助の反発を生み、彼はますます屋敷に寄りつかず、遊興に走っているとすれば何とも因果な話ではある。
とはいえ、勇之助が、深川新地の遊び人達から頼りにされ慕われているのは、お銀、直助、笛五郎の口ぶりでわかる。
そして、宝城勇之助こそがこの物語の主人公であることも──。
何がさて、お銀、直助、笛五郎は、ほどなくして勇之助の姿を深川七場所のひとつである櫓下の料理屋の大座敷に見つけた。
彼は辰巳芸者一人を前に、随分と酩酊していた。
二人の周囲には、物好きな客達がいてじっと見守っている。
「勇さん、随分と捜したよ。何をやっているんだい」
人目構わず、お銀が声をかけた。
「見りゃあわかるだろう。うわばみの姐さんと、飲み競べをしているんだよう」
勇之助が応えた。引き締まった中背の体に、きりりと整った眉、鷹のような鋭い目、丸みを帯びた鼻、引き結ばれた口……。
英雄豪傑に悪童の愛敬を備えた二十八歳。
それが彼の持ち味なのだが、今は酒のせいで、動作は緩慢で、目はとろんとして、大きな吐息を漏らす口は半開きであった。
既に二升近く飲んでいるらしいので無理もないが、
「いやいや、さすがはうわばみの姐さんだ。強えの何の……」
火をつければ炎が出るかのような酒臭い息と共に、勇之助は弱音を吐いた。
「ああ、ざまあねえや」
「よりにもよって、うわばみの姐さんに、飲み競べを挑むとはねえ」
直助と笛五郎は嘆息した。
儲け話を持ってきたが、これではしばらく使いものにはならないだろう。
「何だい、ちょいと頼まれごとを持ってきたってえのにさあ」
お銀が詰った。
「まあ待て、次の一杯で勝負だ!」
勇之助は、茶碗になみなみと注いだ酒を、一息に飲み干した。
見物衆が、どっと沸いた。
さすがのうわばみの姐さんも、目を見開いたが、その刹那、勇之助はその場に転がって、
「ははは……、参った……。もういけねえ……」
と、唸り声をあげた。
再び見物衆が、どっと沸いたが、お銀、直助、笛五郎の後ろから、一人の武士が現れ出て、
「みっともねえぞ、勇之助!」
と罵った。
「何だ……、芳二郎か……」
床に転がったまま、勇之助は彼を睨みつけた。
この武士は、天根芳二郎といって、この辺りでは勇之助の好敵手として知られている。
芳二郎は、勇之助と同じ年恰好で、彼もまたどこぞの旗本の次男坊だとか、三男坊だとか言われている。
「お前なんぞを呼んだ覚えはねえぞ」
「馬鹿野郎、今日はおれと木太刀で果し合いといこう……、そう言っていたのを忘れたのか。こんなところで酔い潰れやがって」
「あ……、こいつはいけねえや。すまねえ、うっかりとしていたよ」
「ふん、そうやって逃げを打つつもりか。おう皆、宝城勇之助は腰抜け野郎だ。ははは、笑ってやれ!」
芳二郎は、見物衆を見廻しながら嘲笑した。
「うるせえ……。この野郎、酔っ払い相手にしか大口を叩けねえのかい」
勇之助は、恥辱に堪え切れず立ち上がると、
「ふん、お前なんぞ、今のままでも十分相手になってやれるぜ」
と、にじり寄った。
さすがは勇之助だと、見物の衆は、この成行きを固唾を呑んで見守った。
「目にものを見せてやるぜ!」
力強く一歩踏み出したかに見えた勇之助であったが、
「水でも飲みやがれ!」
と、芳二郎に足を蹴られて、再び転がってしまった。
「ふん、相手をするまでもねえ、馬鹿野郎だぜ。お前は貧乏旗本の殿様がお似合えだな……」
芳二郎は吐き捨てて、その場から立ち去った。
一同が呆っ気にとられる中、うわばみの姐さんはにこりと笑って、
「勇さん、そんならこの二両はもらっていきますよ。お酒、ごちそうさまでした」
二人の間に置かれていた金包みを手に、こちらも立ち去ったのであった。
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