その翌朝。

 果して、技組わざぐみ力組ちからぐみの喧嘩は、深川島崎町ふかがわしまざきちようの材木置場の一角で、いよいよ決戦の時を迎えようとしていた。

 親方達が集まって、止めるように説得すれば話が早いのだが、内心では思い止まってくれるよう祈っていても、

 ──奴らの想いを晴らしてやりたい。

 という親心もある。

 表向きは何も言わず、

「存分にやってこい」

 という風を取り繕い、子方こかた達をこの場に送り出していた。

 職人達も人足にんそく達も喧嘩のために仕事を休むわけにもいかず、未明からぞろぞろと、高く積まれた材木に囲まれたところに集まった。

「おう、力組。このに及んでは、あれこれ喧嘩口上もねえもんだ。さっさとすませてしまおうぜ」

 技組の総代が声をあげると、

「そうだな。今となりゃあ、何でもめ始めたかは覚えちゃあいねえが、たげえにぶつかり合えば、すっきりするぜ」

 力組の総代がこたえる。

「誰がどうなろうと、恨みっこなしだ」

「そんなら始めようか」

 総勢二十人ばかりの男が、一斉に腕まくりをした。

 実に壮観である。

 そして、今にも両者がぶつかり合おうとした時であった。

「待った、待った。一番待っておくんなせえやし!」

 芝居がかった物言いで、そこに割って入った者がいた。

 一八いちばち直助なおすけであった。

「何だ手前てめえは……」

「酒場でよく見る顔だな」

 両者からたちまち声があがった。

「へい、あっしは一八の直助と申します、けちな野郎でございます」

「遊び人に用はねえや」

「おれ達は、無職ぶしよくじゃあねえんだぞ」

「そいつは重々承知いたしておりやす。どちらさんも人の役に立つ方々だ。それだけに、怪我のひとつあっちゃあならねえ」

「利いたようなことをぬかすんじゃあねえや」

「引っ込んでやがれ!」

 哀れ直助は、まず戦いの血祭りにと、両者から叩き出される運命にあったが、この男の存在によって、両者はいきなりぶつかり合わずにすみ、少しばかり心に余裕が出来た。

 そこへ付け入るのが直助の身上しんしようである。

 どんな時でも、度胸一番前へ出て、すらすらと口上を述べる。

 一か八かの勝負をかける男ゆえ、〝一八の直助〟と言われているのだ。

「まあまあ、あっしのような半端者が間に入っても、皆様方におかれましては、まったくらちが明かねえでしょうが、仲裁は時の氏神とか申します。その氏神様をお連れいたしておりやすよ」

 ひとまず直助は、ここまで一気に血の気の多い二十人相手に語り終えた。

「氏神様だと……?」

「誰だ、そいつは?」

 口々に声があがった時、かたわらに積まれた材木の上から、

「おれだよ」

 と、声をかけた者がいた。

 宝城勇之助ほうじようゆうのすけであった。

 一同は、勇之助を見上げて息を呑んだ。

「こいつは旦那……」

 ここにいる誰もが、盛り場での勇之助の喧嘩無双ぶりを目にしていた。

 しかも、勇之助は直参旗本の次男坊であると知っていた。

 それでいて、ひとつもぶったところのないこの男にひそかに憧れを抱いている者もいたのだ。見上げる姿は実に神々しく映ったのである。

「まあ、氏神なんてえのは、おこがましいがよう。ここで大喧嘩が始まる。しかも、職人と人足の果し合いと聞いちゃあ、見過ごしにはできねえじゃあねえか」

 勇之助は堂々たる物言いで一同をなだめながら、下へと下りてきた。

「お前達は町の宝だ。宝の城に住む勇之助としちゃあ、どちらも傷ついてもらいたくはねえのさ」

 こう言われると、男達の気勢はがれてしまう。

 血が熱くたぎっている時は、仲間達と盛り上がるが、人の話を聞くと熱も冷めて、喧嘩への不安が頭をよぎるものだ。

 これまでも何度か、お銀に頼まれて喧嘩の仲裁をしている勇之助は、その辺りの息を心得ている。

「ここはひとつ、この宝城勇之助の仲裁で、引いちゃあもらえねえかい」

 改めて勇之助は威儀を正した。

 流れは終戦に傾いた。

 男達は頷き合いながら、互いに総代の顔を見たが、中には納得出来ぬ者もいる。

「ちょいと待っておくんなせえ。あっしらは引くに引けねえ男の意地で果し合いに来たんですぜ。それをいきなり引いてくれもねえもんだ」

 技組の一人が口をとがらせた。

 そうなると、力組も黙ってはいられない。

「お武家を恐れて引いたとあっちゃあ業腹ごうはらだ……」

 すかさず力組の一人が声をあげた。

 これでまた、両者はいきり立ち、元の勢いに戻った。

「まあそう言わずによう。おれもここまで来て、すごすごと帰れねえ。ひとつ了見してくれねえか」

 勇之助は穏やかに続けたが、下手したてに出るとなめてかかる奴は、どこにでもいるものだ。

「旦那、引っ込んでくだせえ。一度振り上げた拳は、どこに下ろせばいいんですよう」

「ああ、まったくだぜ」

 両組の中から、命知らずが一人ずつ出てきて、勇之助に迫った。

「そうかい……」

 一転して、勇之助の両眼が、ぎらりと光った。

「そんならその拳、おれが引き受けようじゃあねえか」

 そして彼は、腕組みをして、この二人を睨みつけた。

 二人はすっかりと気圧けおされてしまったが、ここでまた、勇之助はやさしい声音となり、

「どうした? いからおれに拳をくんなよ。だが、おれもただ殴られちゃあいねえぜ。殴り返しはしねえが、ちょいとよけさせてもらうよ」

 と、二人に悪戯っぽく笑った。

「さあ、振り上げた拳は、どこかに振り下ろさねえと、気がすまねえんだろ。おれが引き受けてやるから、振り下ろしてみな。それとも今言ったのは、ただの強がりかい?」

 勇之助は、ここぞと迫った。

「いいから、二人いっぺんにきなよ」

 挑発にえ切れず、二人はままよと同時に勇之助の顔面めがけて拳を振り廻した。

 その刹那せつな

 二人は、どこをどうされたかもわからず、その場に投げとばされていた。

 天狗の仕業か──。

 一同は呆気にとられた。

 勇之助は、養母と顔を合わせたくないゆえに、子供の頃から剣術に励み、直心影流じきしんかげりゆうの兵法免状を得るまでになった。

 次男坊ゆえ剣客けんかくの道を歩もうかと思ったが、剣術の師範達は、何かというと七難しく御託を並べる。

 そんなところにはいたくない。強くなるには、喧嘩で鍛えるのが何よりだ。

 彼はそのように思い立ち、これまで学んだ武芸を実戦でさらに磨いたのである。

 そして、その成果はここに極まった。

 さて仕上げとばかりに、

「おうおう! 引けと一旦口にしたからは、お前らを撫で斬りにしてでも、引いてもらうぜ。どうなんだい!」

 勇之助は刀の柄に手をかけて、堂々たる啖呵を切った。

 決闘の場は、水を打ったように静まり返った。

 喧嘩の駆け引きには、天賦の才があると言われている勇之助である。

 すぐに、人を惹きつける笑顔となって、

「なあ、頼むよ……」

 首をすくめてみせた。

「お見それいたしやした……」

「この喧嘩は、旦那にお預けいたしますでございます」

 総代二人は頷き合って、ゆっくりと勇之助に頭を下げた。

 残る男達は、投げとばされた二人を抱き起こしつつ、これに続いた。

 すると、そこからは掃除の笛五郎ふえごろうの出番である。

「皆さん、よくぞ旦那に預けてくださいましたねえ。そんならこれからは、まず仕事へ出かけていただいて、日の暮れからは、新地しんちの料理屋〝のきち〟で、手打ちのうたげと参りやしょう」

 どこからともなく現れでて、ひようげてみせたものだ。

 この男に話しかけられると、何やら嬉しくなってくる。

 生まれついての持ち味なのであろう。

 銭に困ると、人の家の前を勝手に掃除をして、笑顔で話しかける。

 そうされると相手は何故か嬉しくなり、

「ご苦労さん、まあ飯でも食べていってくんねえ」

 となり、帰りには小遣い銭までもらって帰る。

 それゆえ〝掃除の笛五郎〟と呼ばれているのだ。

 その夕。

 深川新地の料理屋〝巳のきち〟では、大勢の男達が一堂に会し、飲めや歌えの騒ぎとなった。

 勇之助が仲裁してから、さいころおぎんは再び親方衆のもとを駆け廻り、

「首尾よく参りましたよ。もうこれで大事ございません……」

 勇之助の仕事ぶりを大袈裟に称えつつ報告すると、奉加帳ほうがちようを添えて、この手打ちの宴への合力を頼んだのであった。

 勇之助は、投げとばした二人をそばへ呼ぶと、

「おれに文句を言ってきた、お前達二人は大した度胸だぜ。おれは気に入ったぜ。これからお前達は兄弟分となって、男伊達に生きてくんなよ」

 などと言って二人をほろりとさせ、巧みに後始末をつけながら、笛五郎が盛り上げる座敷で、自らも着流しの裾を尻からげにして、〝ひょっとこ踊り〟を披露したものだ。

 宴が終ると、勇之助はお銀、直助、笛五郎を従えて町へ出て、汐見橋しおみばしの上で、しばし夜風に当り火照りを静めた。

「お銀のお蔭で、これでまたしばらく遊んでいられるぜ。ありがてえ、ありがてえ……」

 勇之助は、直助と笛五郎と共に片手拝みをしてみせた。

「何を言っているのさ、勇さんを押し立てて、そのおこぼれにあずかっているのは、あたし達の方さ」

「ははは、まったくだな」

「この先もよろしく頼みますよ」

 直助と笛五郎は、さらに勇之助を拝んでみせた。

「まず、どこまでこんな暮らしを続けられるかは知らねえが、先のことなどどうだっていいや。おれ達がつるめば、毎日が祭りだぜ」

 勇之助は、昨日、飲みくらべをしてふらふらになったとは思えぬ健勝ぶりで、

「さて、もう一軒行くか!」

 と、歩き出した。

 そこへ、こちらも町の遊び人を数人引き連れた、天根芳二郎あまねよしじろうが橋の向こうからやって来て、

「こいつは殿様、なりませぬぞ。喧嘩の仲裁で一稼ぎなんぞ、御身分にかかわりまする……」

 からかうように声をかけてきた。

「ふん、こっちの稼ぎがうらやましいのかい。何なら小遣いをくれてやるぜ」

「金に困るほど間抜けじゃあねえや。気遣いはよしにしやがれ」

「そうかい。言っておくがなあ、おれは殿様なんかにゃあらねえよ。もしもそんなことがあったら、お前と決着を着けてから、この町を出ていくぜ」

「そうかい、お前は身内に余程嫌われているらしいな。その言葉、忘れるなよ」

 芳二郎は、そう言い置いて、そそくさと通り過ぎて行ったが、勇之助の養子話は、ただの噂であったかと思い、どこか楽しげであった。

「嫌な奴だねえ……」

 お銀の舌打ちに、直助、笛五郎も相槌あいづちを打ったが、勇之助はいたって上機嫌で、

「芳二郎の野郎、おれが好きでたまらねえらしいや。へへへ、ああいう奴がいねえと、張り合いがなくてつまらねえからな」

 ここ数年、いがみ合ってきた芳二郎さえも、町の仲間だと言わんばかりに、水面みなもに映る星影を見つめていた。

 

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