「よかったな」

 と言うより先に、

「ほらな、やっぱりおれのほうが忙しいだろ」

 と言ってしまった。なんの勝負をしているのか、もはやわからない。

 ろくに作業が進まないまま、五時を過ぎた。二学期の準備もまだ終わっていないし、先週の研修の報告書も完成していない。腹がぐうと鳴る。昼はコンビニのサンドイッチと野菜ジュースだけだった。善羽は机の引き出しから、買い置きしてあるひと口ようかんを取り出して口に入れた。糖分とカロリー補給は必須だ。

 もう少し仕事をしようか、どうしようかと迷う。昨日行けなかったから、今日は絶対に筋トレに行きたい。スポーツクラブは会費が高いので、善羽は市民無料の体育センターに通っている。筋トレ器具は古いが、タダなので目をつぶっている。

 とりあえず、研修の報告書だけは書こうと気合を入れた。日を置かずに仕上げないと、内容を忘れてしまう。最近、善羽は時短のためという言い訳をして、書類作成に生成AIを取り入れている。隠しているわけではないが、ちょっとした恥ずかしさとうしろめたさはある。

 職員室には、まだ半数以上の教師が残っていた。つくづくブラックな職業だ。定時で帰れたことは、まだ一度もない。月に軽く八十時間以上は残業しているが、残業代はつかない。教職調整額というのが代わりらしいが、雀の涙ほどである。

 なんとか研修報告書を作成して、学校を出た。時刻は午後七時十五分。体育センターは九時で閉館だ。大学のときのアルバイト代で購入した中古の軽自動車で行き、七時半には体育センターに到着できた。館内には年配のおじさんが一人いるだけだ。ここはいつでも、超空いている。

 更衣室はあるがこれまで使ったことはなく、体育館の隅でジャージのズボンを脱いで短パン姿になった。上はTシャツなので、そのままだ。

 おじさんに軽く会釈して、自分で決めているルーチンを黙々とこなした。スクワットマシン、レッグプレス、ベンチプレス。汗が噴き出て、首に巻いた手ぬぐいがここでも重宝する。

 おじさんはいつの間に帰ったのか、終わったときは広い館内に一人きりだった。

「よしっ、終了! 筋肉の活性化完了!」

 と、大きな声で言ってみた。あー、気持ちよかった! と声を張る。

 実はちょっと怖いのだった。古びた体育館。錆びついていそうな筋トレ器具。今にも、ギイイッと音を立ててひとりでに器具が動き出しそうだ。そして、あのドアがしずかに開いて、この世の者ではない人が……。

「さあ、帰るぞ!」

 自分を奮い立たせるための大きな声は、思いがけず広い館内に響いた。その響きのなかに、自分以外の声が聞こえたような気がして、汗だくだというのに身震いした。まさか、さっきのおじさんが幽霊だったとかないよな……。善羽は手ぬぐいを手に持ち直して、なにかを追い払うように、頭の上でぶんぶんと振り回しながら体育館を出た。

 車に乗り込んだとたん、今度はやけに強気になって、幽霊なんているわけないと鼻で笑う。エンジンをかけると同時に、入れっぱなしになっていたFMラジオが流れる。軽快なパーソナリティのトーク。幽霊ってなんだよ! と、自分にツッコミを入れる。

「今日の夕飯なにかなー」

 空腹のピークは過ぎたが、ピークが過ぎたというだけで、腹は減り続けている。

「ん?」

 救急車のサイレン音が聞こえた気がして、ラジオのボリュームを下げた。バックミラーで確認すると、後方に救急車が見えた。左にけて停車する。救急車のあとにパトカーが二台通る。

 なにかあったのか? 火事か? いや、消防車は来ないから火事じゃないか……。ずいぶんと騒がしい。大変だなあと、他人事ひ と ごとのように思う。

 緊急車両が過ぎ去ったことを確認して、車線に戻った。腹がぐるぐる、ごごごっ、と鳴る。腹減った。

 夕飯は、豚しゃぶだった。ポン酢をかけるといくらでも食える。ぜんぜん足りない。

「ラーメン作るけど、お父さんも食う?」

 ソファに座って新聞に目を通している父に聞く。リビングにいるのは、父だけだ。智親とも ちか武蔵む さしみんも二階の自室。おかーさんは今日、友達とミュージカルを観に行って疲れたらしく、すでに寝ている。玲子れい こちゃんはお風呂だ。

「食べたいけど、腹がヤバいからなあ」

「一日くらい大丈夫だろ」

「そうだな。じゃあ、頂くとするか」

「オッケー」

 戸棚から袋麺を二つ取り出して、湯を沸かす。冷凍庫のなかに、冷凍ほうれん草を見つけたので、麺と一緒に鍋に入れる。卵も割り入れようかと思ったが、前に白身が鍋肌にくっついて、洗うのが大変だったことを思い出した。

「卵ってレンチンしても平気だっけ?」

「あー? 知らないけど、平気なんじゃないの」

 と、どうでもいい返事が返って来る。皿に二つの卵を割り入れる。

「そうだ! 楊枝で黄身を刺しとけばいいんだ」

 父に向かって言ったが、聞こえていないのか返事はなかった。善羽は黄身に穴を開けることを思い出せたことがうれしかった。

 電子レンジに入れて加熱を試みる。一分くらいでいいだろう。その間に麺を茹で、鍋に粉末スープを入れる。

 ボンッ!

 電子レンジから、ものすごい音がした。いそいで電子レンジのドアを開ける。

「マジか……」

 卵が爆発していた。黄身に穴を開けたのに、どうして爆発したのか。庫内はひどいありさまだった。とりあえず、ラーメンを器に盛って形の崩れた卵も入れた。ラーメンは熱いうちに食べるべき。

「できたよ」

 レンゲをつけてテーブルに運んだ。

「おう、うまそうだな。どれ、いただきます」

「卵、爆発したわ」

 ラーメンをすすりながら言ったが、父からは「ううーん、そうか」という、これまたどうでもいいような返事が返ってきただけだった。

 ラーメンもあっという間に食べ終わり、善羽は電子レンジの掃除に取りかかった。庫内が全面フラットなので助かった。ガラス管ヒーターが付いているタイプだったらアウトだった。

「あら、掃除してくれてるの?」

 風呂から出てきた玲子ちゃんが、善羽を見つける。

「ちょっと汚しちゃって」

「もしかして、二人でラーメン食べてた?」

 うまかったよ、と父が答える。

「わたしも食べたいけど、太るからやめとこうっと」

「そうだな、そのほうがいい」

 父が適当に返事をし、どういう意味? とキレ気味に玲子ちゃんに言われていた。

 その後、善羽は風呂に入って汗を流し、リビングのテーブルの上にノートパソコンを広げて、二学期の準備をはじめた。まったくはかどらないが、こうして仕事道具を広げていると、やっている感があっていい。仕事は進まないけれど精神的な安心を多少得られる。

 父と玲子ちゃんが寝室に行き、弟妹たちも下に降りてこず、善羽は一人で、テレビとパソコン画面を交互に眺めながら、時おりキーボードを叩いた。テレビではお金のプロという人が投資銘柄の選び方を力説していた。

 善羽は投資やら株やら外貨預金やら、そういうお金に関することがよくわからない。そもそも、そんな資金もないのだが。

「ふぁあー」

 両手を伸ばして大きなあくびをする。零時半になるところだ。そろそろ寝るかと、ノートパソコンを閉じた。

 

「9月1日の朝へ」は全3回で連日公開予定