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 だけど、ズミから一緒にライブに行こうと誘われた時は悩んだ。ファミレスでのバイトの時間を増やせばなんとかなるから頑張ろうと思ったけど、チケット代一万二千円は、さすがに高すぎた。

 結局ズミが応募したライブチケットが外れたので、事なきを得たのだが、以来ななみはCUTを推す気持ちを、あまり強く話せない。またライブに誘われたり、応募券のためにCDを買おうなどと言われたら、困ってしまうからだ。

「これにしよ」

 瀬奈が言った。

 CUTの新曲を踊ることに、ななみも異存はなかった。というより、早く曲を決めて、振りの分担をしてしまいたかった。

「いや、でもぜったいレベチ……」

 だが、みえきょんは煮え切らない。ななみはかすかに苛立いら だった。

「じゃ、何がいいの」

 瀬奈も声をとがらす。

「何がっていうか、少なくともCUTは無理じゃね?」

 みえきょんはまだ言っている。

「なんで?」

「なんでってか、ちょっとレベチだし……」

「それはうちらが教えるから!」

 瀬奈が言い、みえきょんが黙った。

 言っちゃった、とななみは思った。

 教える、は明らかに上から目線だ。だけど、ジャスミンの中ではみえきょんがいちばんダンスが下手だ。瀬奈もズミも、そしておそらくはみえきょん自身も、内心ではそう思っているはずだ。瀬奈はヒップホップダンスをずっと習っているし、ズミはバレエ仕込みだ。ななみは中学でダンス部に入っていた。高校まで全くの未経験だったのはみえきょんだけだ。

「わたし、もう帰らなきゃ」

 と、ななみは言った。

「え」

 瀬奈が、明らかに不満そうな顔でななみを見る。まだ六時を過ぎたところだ。もちろん、ななみも帰りたくはなかった。曲を決めてしまいたかった。

「こんな空気ん中にうちらを置いてくの。今日バイトないって言ってたじゃん」

「そうなんだけど、十二分のバスに乗らないと」

 笑顔を作りながら、バイトがあると言っておけばよかったと悔やむ。

「えー、だって、まだ曲決めきれてないじゃん。わたしはこれでいいと思ってるけどさー。それに、せっかくみえきょんママがピザ取ってくれるのに」

「ごめん」

「四十二分のバスじゃだめなの?」

「それだと……」門限を過ぎてしまう。

「ななみんち、厳しいもんね。あたし、送ってくる」

 みえきょんがななみより先に立ち上がる。「えー」とまだ瀬奈がごねる。

「マジで? マジでマジでマジで? 電話して親に頼みなよ。ひとりで帰るより、みんなでバスで駅に出たほうが安全じゃーん」

「ごめーん。もしできたら、夜グルチャしよう」

 明るく言いながら立ち上がると、

「だってななみんち、グルチャにも厳しいじゃん」

 瀬奈が不機嫌に言う。グルチャというのは、スマホのアプリでグループチャットすることだ。カメラをオンにすれば、全員の顔を見ながら話せる。

「ななみん、行こ行こ、バスに遅れるよ」

 そう言いながら、さっさと部屋を出て行ってくれるみえきょんに助けられ、「ごめん」と、瀬奈とズミに手刀を切っておどけてみせてから、後を追うように階段を下りた。

「あーん、ななみん帰っちゃったよー、さびしーよー」

 上で瀬奈の声がする。悪意のない子どもっぽさだと分かってはいたが、笑えなかった。ズミがどう答えているかは聞こえない。

 店に、まだ浅見のお母さんがいるのだろう。みえきょんママと、女性の明るいしゃべり声が交互に聞こえてくる。

 浅見のお母さんにわらびもちのお礼を言うべきだと思った。それに、せっかく声をかけてくれたみえきょんママに、ピザを食べられないことを謝りたかった。だけど、みえきょんが何も言わずにさっさと裏口へまわるから、ななみはついて行く。大人たちの会話を止めて話しかけるような勇気はなかったし、もし引き留められたら、バスに間に合わなくなるかもしれない。

 玄関での別れ際、みえきょんが何か言いたげに口を開きかけた。だけどななみは何も言わせなかった。

「じゃあ、またね!」

 急いで言った。

「夜グルチャで話せる?」

 みえきょんに訊かれた。

「うん、九時くらいまでなら」

「分かった」

 みえきょんがちいさく頷く。

「じゃあね」

「ばいばい」

 ちいさく手をふり、少し歩いて角を曲がってから、ななみはバス停まで走った。二分前にバス停に着いた。しかしバスはなかなか来なかった。

 予定の時刻を十分近く回ってから、ようやくのろのろとバスが来た時、ななみは泣き出しそうになった。こんなに遅れてくるなら、そのぶん、もう少しみえきょんちにいられたと思ったからだ。

 全部寮のせいだ。

 バスに乗ってからも、いらいらし続けた。寮のせいで制限を強いられた。

 もう、寮に住んでいることを、瀬奈とズミにはいいかげん言うべきだと思う。ずっとそう思っている。だけど、なぜか言えないままで、今日もやっぱり言えなかった。

 寮の門限のせいでななみが早く帰らなければならないことを、みえきょんだけは知っている。

 さっき、引き留めてくる瀬奈に困ってしまった時、みえきょんは、助け船を出してくれた。その優しさが分かっていながら、気づいていないふりをした。そんな自分を身勝手だと思うが、みえきょんに、ななみんのために言ってあげたみたいな顔をされるのも厭だった。

 今頃、皆でピザを食べているのだろうか。挨拶もしないで帰ってしまうなんてと、みえきょんのママに思われてなければいいのだが。

 やがてバスは駅に着いた。ふたつ前の停留所が大きな病院のそばにあるので、見舞客なのだろうか、わらわらと乗ってきた人たちが、また降りるのにひとりずつ時間をかけているから、列の後ろでななみは腕時計を見て泣きたくなる。

 駅の階段を駆け上がり、電車に乗ってようやく人心地ついたけれど、数駅ぶん乗って、そこからダッシュで駐輪場を目指し、暮れ始めた夏の道を自転車で十五分漕ぐのがまたしんどい。それで門限に間に合うかどうかギリギリというところなのだ。

 自転車を漕ぎながら帰宅時間の目処め どがつくと、難しい曲にためらうみえきょんの様子に、腹が立ってしまったことが思い出された。四人の中で、みえきょんがダンスがいちばん下手だから、と思ってしまった。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになった。みえきょんは最後まで優しかった。だけど自分だけ、人に話せない門限に縛られているせいで、誰かを思いやる余裕など到底持てなかった。

 寮の明かりが見えてきた。

 

 

「寮」と呼ばれているのは、名称に「寮」とついているからだ。

 一般的に想起されるような、学校や会社が生徒や社員に用意する住居ではもちろんなく、なんらかの事情により家庭で暮らせない子どもたちが生活する、児童福祉法に基づく児童養護施設である。なんらかの事情とは、大人側の事情であって、子どもたちによるものではない。

 寮には二歳から高校三年生までの子どもたちが暮らしている。近隣に一戸建てを借りきったグループホームと呼ばれる分園を三つ抱えてもおり、そちらにも小学生から高校生までが六人、六人、七人、と分かれて暮らしている。現在のところ所属する子どもは計四十四人である。

 

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