裁判所の入口で手荷物検査を済ませ、掲示板で法廷の場所を確認したのち、エレベーターで六階へ上がった。裁判が始まるのは午前十時からだが、まだ三十分以上前なのに傍聴人入口の前にはすでに二十人近くが並んでいる。

 慌てて行列の最後尾についた。私の前に並んでいたのはTシャツにチノパン姿の男性で、一応かしこまった服装にしようと落ち着いた色のスカートにジャケットを合わせたのだが、普段着で構わなかったようだ。

 列の先頭にいるのは地味なスーツに身を包んだ若者の三人組だった。こちらは司法修習生か法学部の学生と思われる。緊張した面持ちで、法律書らしき分厚い本や資料をそれぞれ抱えていた。

 並んでいる人たちの様子をそれとなくうかがうが、スーツを着ている人と普段着の人の割合は半々という感じで、事件の関係者なのか、単に興味があって傍聴しようと思ったのか、はたまた私のように仕事で来たのか判然としない。だがみんな一様に無言で列に身を置いていた。今の時間に六階で開かれる公判は一件のみと見えて、人が並んでいるのはこの法廷だけだ。

「あれえ、ずいぶん並んじゃってるじゃん」

 しんとした廊下に響いた声に、思わず振り返る。見るとエレベーターホールからこちらに歩いてくる二人の人物がいた。チェックの半袖シャツによれよれのデニムを穿き、野球帽をかぶった中年男性。もう一人はポロシャツにハーフパンツ姿で、ぽっこり出たお腹の下に窮屈そうなウエストポーチを巻いた中年男性だ。

「今日のって、そんな有名な事件だっけ?」

「いや、結構ニュースになってたよ。ニートの娘が、母親を殺しちゃったっていうんでさ」

 野球帽の男性の問いかけに、ウエストポーチの男性が答える。並んでいる人の中に事件関係者がいたらと冷や冷やするようなぞんざいな口調だ。このやけに場慣れした常連らしい二人組の中年男性は、いわゆる傍聴マニアと呼ばれる人たちなのだろうか。関わらずに済むように、すぐに視線を外して前を向いた。

「日本で起きる殺人事件のほとんどが、家族による犯行なんだって。世も末だねえ」

「そうは言っても、知らない奴に殺される方がよっぽど怖いけどな」

 そんな彼らの会話に、前に並んだ人たちが不快そうにちらちらと後ろを振り返っている。だが二人はまったく気づいていないようだ。無神経な大声と鋭い視線に挟まれ、単なる巡り合わせでこの場にいる身としては、なんとも居心地が悪い。

 本来、この事件についての記事は、私の前の会社の同僚で今はライターをしている知人女性が書くはずだった。しかし四日前、彼女の三歳の娘が発熱後にあごが痛いと訴え、小児科で流行性耳下腺炎と診断された。

《五日間は保育園を休ませないといけなくて、和花わ かちゃんに代わりをお願いできないかなと思って》

 頬の下がぽっこり腫れた顔で元気良くVサインをする女児の画像付きメッセージが送られてきて、裁判を傍聴して記事にしてくれないかと頼まれた。

 独身の一人暮らしで仕事の少ないフリーライターとしては、こうした案件を振ってもらえることはありがたかった。これまで、いくつかの生活情報サイトで女性向けファッションや人気スイーツなどについての記事を手掛けてきたが、刑事事件のルポルタージュを書くのは初めてだった。ちょうど三十歳を目前にして新しい分野にも挑戦したいと考えていたところでもあり、寄稿先となる大手WEBメディア《Gate Link》に湯川ゆ かわ和花の署名入りの記事を掲載してもらえるのも誇らしかった。

 バッグから取材ノートを出し、そこに挟み込んでいたA4用紙を広げる。当時のニュース記事をプリントアウトしたものだ。

 事件が起きたのは四月九日。今から半年前のことだ。横浜市内の公営団地三階に暮らす住人から、上の階に住む佐伯昌子まさ こが血を流して死んでいると通報があった。駆けつけた警察官が遺体のあった室内にいた長女の汐美から事情を聞き、本人が母親を殺害したと認めたため現行犯逮捕となった。

 佐伯昌子は五十一歳。長女の汐美は三十歳で、二十一歳の次女の美波と三人暮らしだった。汐美は小学三年の時から不登校となり、三十歳になるまで一度も働いたことがなかったという。

 保険外交員として働きながら女手一つで二人の子を育ててきた母親が、ニートの娘に殺害された。なぜそんな事態が起きたのか。動機はなんだったのか。容疑者の汐美は当初、事件について曖昧な供述をしており、一時は犯行への関与を疑問視する声もあった。だがその後の調べで物的証拠や詳細な供述が得られたことで、殺人容疑で起訴された。

 発生からすでに半年が経過している事件だが、被告人となった汐美が私と同年代ということもあり、以前から関心があった。知人ライターの頼みを受けて当時の資料を集めながら、どんな切り口の記事にするべきかと考えていた。

「時間となりましたので、こちらから順番にお入りください」

 傍聴人入口のドアが開き職員が呼びかけると、列が動き始める。裁判の傍聴は初めてで勝手が分からなかったが、報道席以外であれば順に好きな場所に座っていいようだ。被告人を間近で見るために弁護人席に近い、正面に向かって右側の一番前に座った。

 ほどなく傍聴席の柵の左奥にあるドアが開き、重たそうな風呂敷包みを抱えたスーツ姿の男女が入ってきた。二人とも生真面目な印象でやや険のある表情をしており、左手の検察側の机に荷物を置いたところを見ると検察官なのだろう。

 若い女性の検察官が包みを開くと、中から事件の資料とおぼしきファイルと書類の束が現れた。あれらはすべて、捜査書類なのだろうか。だがもう一つの風呂敷包みは、書類にしては一辺が妙に長くて平べったく、まるで菓子折りのようにも見える。女性検察官は開けていない包みを机の端に置くと、中年の男性検察官と何事か小声で話し合っていた。

 二人の様子を観察していると、同じドアから今度は革製の茶色のかばんを携えた男性が姿を現した。三十代半ばと見えるスリーピースのスーツを小粋に着こなした男性は、落ち着いた足取りで右側の弁護人席へと進み、そばにいる職員と言葉を交わしている。やや面長の精悍せい かんな顔に細いフレームの眼鏡をかけていて、まるで海外ドラマに出てくる有能な弁護士といった風情だ。

 

「不知火判事の比類なき被告人質問」は全3回で連日公開予定