十九歳の頃、美術大学のクラスメイトであるあっきーと家で遊ぶことになったとき、彼女は「はい、これお土産」と言ってスーパーの袋を手渡してきた。まさか毎日顔を合わせるような徒歩五分の友人宅に手土産を持ってくるとは思っていなくって、その大人みたいな気遣いにとてもおどろいた。自分もこれから人のお家にお邪魔するときには気をつけなくては、と反省すらした。

 それにしてもお土産の袋がでかい。中を覗き込むと、ボックスティッシュが三つセットになっているやつだった。ティッシュ。ティッシュかあ。だから袋でかかったのかあ。丁寧なのか無骨なのかわからないそのセンスがツボに入ってけらけら笑っていると、あっきーは「だって、絶対に使うものの方がいいでしょう。家で絶対に使うものを考えたら、ティッシュしかないじゃん」と言いながら、玄関の靴をきちんと揃えていた。

 

「この間、会社で怒られちゃってさ」

 美大を卒業してからしばらくぶりに旧友たちと集まった喫茶店で、あっきーは叱られた犬のように眉毛を下げながらそう言った。集まった四人はそれぞれ別の場所で別の仕事をしていて、大学時代に専攻していたデザインの仕事をやっている人も、やっていない人もいる。装丁デザイン事務所に入社したあっきーは、入社してすぐにデザインを担当した本が爆発的にヒットし、実写映画化までしたのをみんな知っていたから、怒られたなんて意外に思った。

 

「なんて言われたの?」

「会社でおならをしちゃいけませんよ、って」

 

 三人はすぐさま吹き出しかけたが、あっきーの神妙な面持ちを見て瞬時に笑いを飲み込みなんとか耐えた。かなり危なかった。

 とても家族仲が良くあたたかい家で育ったあっきー。実家では、誰かがおならをすれば皆で笑いじゃれ合うものだったらしい。ただ屁をこくだけでは芸がないとばかりに、お父さんは手をレバーのような形にして「ちょっとここ引いてみて」と言う。あっきーにレバーを引かせ、それと同時にぷぅーっとおならをして、あっきーと妹をきゃっきゃと笑わせたりもした。そんな素敵な家で育ったあっきーは、なんと〝おならは人前ではしてはいけないものである”という暗黙のルールを知らないまま社会人になっていたのだ。

 彼女が入社したのは少数精鋭のデザイン事務所だったので、オフィスにいるのは社長を含めても四、五人。打ち合わせが行われるときもあるけれど、大半は静かな室内で黙々とデザイン作業をする時間が多い。そんな会社であっきーは、腸内にガスを感じればいつだって屁をこいた。そのたびに皆がくすくすと笑うので、屁は止まるところを知らないままだった。

 数ヶ月経ったある日、あっきーは経理や法務を担当してくれている先輩社員の田中さんに別室に呼び出された。田中さんは物腰が柔らかく真面目な人だが、この日は真剣な顔つきで、微かに震えながらこう言った。

 

「……秋山さん、会社ではね、おならをしては、いけないの」

「えっ、おなら、ダメなんですか?」

「ダメだね」

「でも、皆笑ってますよ」

「それは…………笑うしか、ないからね」

 

 わたしたち三人は耐えきれずにブゥーーーーっと吹き出した。おならではない、口内の空気を、だ。念のため。

 推察するに、あっきーのおならに対してさすがに社員からクレームが入り、頭を悩ませた社長はバックオフィス担当である田中さんに相談したのだろう。男性でかつ社長の僕から言うより、せめて女性である田中さんから言ってくれないか……みたいなやりとりがあったのだろう。社会人に真正面からおならの注意をしなくてはいけなくなった、優しき田中さんの心中たるや。

「社長も田中さんも、かなり悩んだだろうね」

「うん。わたしが会社で初めての新卒だったから、社長は奥さんに『今どきの子は皆、人前でおならをするのかな』って相談までしたらしいんだ」

 そんなわけないだろ。

 

 ああ、あっきーがおならを恥ずかしいものだと思わずに二十数年間生きてこれた世界。あっきーのおならのせいで、大の大人が何人も真剣に悩んでいる世界。あっきーがおならを注意されたことを真摯に受け止めて反省しているこの世界。もしかしてこの世界はわたしが思っていたよりもずっと純粋できらめいたものだったのかもしれないと思って、わたしは少し涙ぐんだけど、これは笑いすぎて出た涙である説の方が濃厚である。

 

「そういえば、大学時代にあっきーのおなら聞いた覚えあまりないけど、あの頃はどうしてたの?」

「してたけど、大学は教室が広いからあまり気づかれなかった」

 わたしたちの四年間は、あっきーのおならと共にあったらしい。汚ねえ青春だな。

 笑い疲れてふとあっきーに目をやると、今日は真っ青なワンピースに、仕立てのいい赤のカーディガンを羽織っている。彼女は大学時代からいつも鮮やかな赤や青や黄や緑の服を着ていて、奇抜にも見えかねない色だけれど、あっきーの容姿というより魂に、それらはよく似合っている。

 

 あれから十年近くが経って、あっきーもわたしも三十歳を越えた。あっきーは今も同じデザイン事務所で働きたくさんの本を世に送り出している。わたしは二回の転職を経てフリーランスの作家になって、たくさんではないがいくつかの本を世に送り出していた。

 ある日、知人からたくさんの海産物をもらう機会があり、到底食べきれないのであっきーを呼ぶことにした。我が家に着いたあっきーはきちんと靴を揃えてから、「これ、お土産」と言って、やっぱりスーパーの袋を手渡した。中にはつやつやの苺が詰め込まれたパックが二つ入っている。

「あっきー、大人になったねえ」と言うと、あっきーは変なクネクネした動きをしながら「そりゃあそうだよぉ~」とおどけてみせた。これはあっきーがはにかんでいるときの仕草。

 あっきーがくれた苺は、パックの中ですべて大きさがきちんと揃っていて、端から端まで真っ赤に光っていて、宝石みたいだった。わたしは苺を少しも傷つけないよう注意しながら、それを丁寧に冷蔵庫にしまった。

 

 

会社ではおならをしてはいけません』は全3回で連日公開予定